田中稔之

没年月日:2006/08/07
分野:, (洋)

 行動美術協会会員の画家、田中稔之は8月7日午後1時14分がんのために死去した。享年78。1928(昭和3)年4月13日、山口県防府市牟礼岸津に生まれる。35年防府市牟礼尋常小学校に入学し、一水会の画家津田正毅(三木)に担任され、絵に興味を持ち始める。41年、同校を卒業し、山口県立防府中学校に入学。43年、山口県光海軍工砲工部機具工場に学徒動員。46年に中学に復帰し、同年卒業して山口青年師範学校農学部に入学。この頃から画家を志す。49年師範学校を卒業し、同年、徳山第二中学校(現、湖南中学)教諭となり、2年間、理科、図工、職業(農業)を教える。同年、徳山市美術展で特選を受けたことを契機として、安野光雅との交遊が始まる。通信教育などをもとに独学で絵を学び、日展に出品するが落選。50年夏、上京して東京美術研究所でデッサンを学ぶ。同年、東京芸術大学を受験するが不合格となり、日本大学芸術学部3年生編入に合格するが、支援の望みがなく断念。51年に再度上京し、大田区赤松小学校図工専科教諭となる。また、向井潤吉に師事し、行動美術研究所でデッサンを学ぶ。52年第38回光風会展に「水」で入選。52年第7回行動展に「内海の小港」で初入選。以後、同展に出品を続ける。53年、読売アンデパンダン展に出品。54年、第9回行動展に「或る日の波止場」を出品して奨励賞受賞、55年同会会友となる。57年、新宿風月堂で「井上武吉田中稔之―絵画と彫刻展」を開催。58年第13回行動展に「動」「落石」を出品し、行動美術賞を受賞。翌年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展に「作品A」「作品B」を出品。61年、大田区赤松小学校を退職し、画業に専念。62年、第5回現代日本美術展に「赤の地平A」を出品。同年、渡欧のため下関大丸、宇部市役所、防府丸久などで展覧会を開き、資金を得て、63年に渡欧。パリを拠点にイギリス、ノルウェー、オランダなどを巡遊する。同年、ウィリアム・ヘイター教室で版画、絵画を学ぶ。64年、当時パリで活躍中であった菅井汲のアシスタントとなりアトリエに通う。また、同年スペイン、イタリア、スイスに旅行。65年5月に帰国。アンフォルメルの抽象表現主義的作風から幾何学的抽象へと作風が変化し始める。73年ころから、後年田中の主要モチーフとなる円が画面に登場するようになる。75年、多摩美術大学非常勤講師となる。また同年坂崎乙郎の企画により、新宿紀伊国屋画廊で坂本善三、白野文敏と三人展を開催。これを契機として坂本善三との交遊が始まる。77年、モンゴル、シベリアに旅行し、大地と空のみの壮大な自然に触れ、地平に沈む太陽に感銘を受ける。79年、西チベット、ラダックへ旅行、80年新疆ウイグル自治区を訪れ、大地と空のみの空間体験を重ねる。これらの体験により、画面を構成する幾何学的円が具象性を持つものとなる。85年多摩美術大学教授となる。86年、「円の光景‘85―31(天円地方)」により第9回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。87年第3回東郷青児美術館大賞作家展に大賞受賞作他15点を出品。また、同年、神奈川県民ホールギャラリーで個展を開く。1989(平成元)年、山口県芸術文化功労賞受賞。97年、パリでSAGA展を開催する。99年多摩美術大学退職記念展を同大附属美術館で開催。2001年坂本善三美術館で個展「田中稔之―響きあう世界 大地・海・天空」を開催し、初期から新作まで67点を展示した。最初期には具象的風景画を描いたが、まもなく色彩と有機的なかたちで画面を構成する抽象画へと移行し、70年代後期から円を主なモチーフとした明快な色面による幾何学的抽象絵画を描いた。画集に『Red Horizon』(石版画集)(MMG、1976年)、『田中稔之』(東美デザイン、1981年)、『朱の舞』(版画集)(スズカワ画廊、1990年)がある。また、下関市民会館壁画「海峡の陽」(1980年)、防府市議会ロビーモザイク「瀬戸内の陽」(1982年)、徳島市総合スポーツセンター壁画「静と動」(1992年)など公共建築のための壁画も多く制作している。幼い頃から海に親しみ、釣りを趣味とし、2003年、海との関わりをテーマに写真と絵画を組み合わせたコラージュとエッセイで構成した『海との青い交信』を刊行した。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(374-375頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「田中稔之」が含まれます。
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