田中敦子

没年月日:2005/12/03
分野:, (美)
読み:たなかあつこ

 国内外で活動した現代美術作家の田中敦子は12月3日午後3時55分、肺炎のため奈良市の病院で死去した。享年73。田中は、1932(昭和7)年2月10日に大阪市に生まれ、50年3月樟蔭高等学校卒業、美術大学受験準備のため大阪市立美術館付設美術研究所に入所。翌年、京都市立美術大学に入学するが、秋には退学し、再び上記の研究所に通うこととなり、後に夫となる金山明を知り助言をうけるようになった。金山、白髪一雄村上三郎等によって52年に結成された0会展に54年に参加出品。55年に金山、白髪、村上とともに吉原治良の「具体」に参加、同年10月第1回具体美術展(東京、小原会館)に出品。56年10月第2回具体美術展(同上)に「電気服」及び「電気服」のための素描を出品。57年4月、第3回具体美術展(京都市美術館)に「電気服」等を出品した。およそ200個ほどの様々な色に着色された電球、管球が点滅する服と電気コードにおおわれた「電気服」によって、さまざまなパフォーマンスをくりひろげて具体美術の作家のなかでも一躍注目された。その後も、舞台においてさまざまな色の衣裳に変化する「舞台服」、さらに「電気服」からの展開としてエナメル塗料による平面作品を制作するようになった。その間、来日したフランスの美術批評家ミシェル・タピエ、サム・フランシス等との交流から、平面作品に制作の中心が移行していった。画面には、大小さまざまな円形が色鮮やかに描かれ、電気コードをおもわせる線が縦横に絡みあう絵画を描くようになった。しかし、それも「絵画」というにはいささか異なる表現であり、平面上での絵具を用いた持続的で同時に変化を求めた実験ともいえるものであった。80年代に入ると、国内外での旺盛な個展活動とともに、81年9月開催の「現代美術の動向1 1950年代-その暗黒と光芒」(東京都美術館)、83年5月開催の「1920-1970 日本のダダ/日本の前衛」(東京大学教養学部美術博物館)、86年12月開催の「JAPON DES AVANT GARDES 1910-1970」(パリ、ポンピドーセンター)など、日本の現代美術を回顧する展覧会には、必ずといってよいほど欠かせない作家として出品された。この傾向は、90年代にも引きつがれ、現代美術及びその活動の基点となった「具体美術協会」の意味の検証が繰り返されるなか、その芸術の評価がつねに論議されていきた。2001(平成13)年3月には、「田中敦子 未知の美の探求 1954-2000」(芦屋市立美術館、静岡県立美術館に巡回)が開催され、その一貫した実験精神の展開の全貌が回顧され、日本の戦後及び現代美術において特異な位置にある作家を総括的に評価する試みとなった。 

出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(395頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中敦子」『日本美術年鑑』平成18年版(395頁)
例)「田中敦子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28347.html(閲覧日 2024-03-29)

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