松田正平

没年月日:2004/05/15
分野:, (洋)

 飄逸な画風で知られた洋画家の松田正平は、5月15日午後4時35分、腎機能不全のため宇部市の病院で死去した。享年91。1913(大正2)年1月16日、久保田金平の第三子次男として島根県鹿足郡青原村(現・日原町)に生まれる。17年ころ宇部村恩田の松田家に養子として引き取られるが、望郷のあまり生家へ帰り、19年青原村立青原尋常小学校に入学する。20年養父の迎えにより宇部へ移り、21年山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)の松田家の養子として入籍する。宇部市立神原尋常小学校を経て25年山口県立宇部中学校(現 山口県立宇部高等学校)に入学。1927(昭和2)年、中学3年生在学中に同級生を介して油彩画を知る。30年、中学校の教員免許を取得することを条件として美術学校への進学を許され、2月に上京。川端画学校に学び、3月に東京美術学校を受験するが失敗。引き続き川端画学校に学ぶ。31年春、山口県出身の美術学校志望者が多く住んでいた小石川の日独館に転居し、古木守、香月泰男らと交遊。32年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事する。35年帝展第二部会に「婦人像」で初入選。36年新文展鑑査展に「休憩」で入選する。37年東京美術学校を卒業し、フランス留学のため、知人の協力を仰ぎ、同年10月渡欧して、アカデミー・コラロッシに通う。コローに傾倒し、コローの「真珠の女」を模写したほか、コローが描いた場所を訪れ、また、レンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪れる。39年スイス、ロンドン、ニューヨーク、パナマ、ロサンゼルスを経由して同年12月に帰国。40年第15回国画会展に出品するが落選する。一方、郷里宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催。41年第16回国画会展に「ストーブ」「地図」を出品して入選。42年、宇部に帰郷し、4月から山口師範学校の美術教授となる。同年第17回国画会展に「集団アトリエ」「枯霞草」「或るゑかき」を出品し、国画奨学賞を受賞。43年山口師範学校を辞職して上京し、パリ留学のころから交遊のあった吉川精子と結婚する。同年第18回国画会展に「窓」「家」を出品し、同会会友に推される。45年戦況が厳しくなる中、宇部へ帰郷し、東見初炭坑で抗夫として働く。同年7月の宇部空襲により家が全焼し、パリ時代までの作品を失う。46年復興した第20回国画会展に出品し、以後も同会に出品を続ける。51年第25回同展に「内海風景」「祝島風景」を出品し、同会会員となる。同年よりフォルム画廊で第一回目の個展を開き、以後、ほぼ毎年同画廊で個展を開催。52年上京し、国画会展、国際具象派展、フォルム画廊での個展のほか、宇部市の明幸堂画廊での個展に作品を発表。63年夏、千葉県市原市鶴舞に転居。66年国画会脱退を決意し、この年の同会展には出品しなかったが、原精一木内廣らの慰留により会員としてとどまる。76年現代画廊主洲之内徹との交流が始まり、78年フォルム画廊と現代画廊で個展を同時に開催する。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊で、素描は現代画廊で発表することが定例化する。82年6月、パリを再訪。83年『松田正平画集』がフォルム画廊から刊行され、東京の銀座・松屋で「松田正平画週出版記念展」を開催。同年三度目のパリ訪問。84年新潮文芸振興会主催の第16回日本芸術大賞を受賞。現代画廊で受賞記念展が開催される。87年山口県立美術館で「松田正平展」を開催。1991(平成3)年山口県立美術館で開催された「戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面」展に代表作13点が出品される。95年舞鶴から郷里宇部市に帰り、制作を続ける。97年よりほぼ毎年菊川画廊で個展を開催。2004年1月、宇部市他の主催による「松田正平展」が宇部市文化会館で開催された。アカデミックな画風からコロー、セザンヌなどの学習を経て、対象を単純化した形体でとらえる素朴で飄逸な画風を確立した。1950年代から日本画壇において抽象絵画の受容が盛んになる中でも、具象絵画の可能性を高く評価し、日本人の描く油彩画を追求し続けた。「現代の仙人」と評される人柄を慕う人々も多く、晩年は後援会が組織され、歿後、同会の主催により菊川画廊で追悼展として「松田正平素描展」が開催された。作品集に『松田正平画集』(フォルム画廊、1983、2003年)、『きまぐれ帖』(阿曾美舎、2003年)、『松田正平素描集』(松田正平後援会発行、2006年)があり、年譜は歿後に刊行された『松田正平素描集』に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(349-350頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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