藤島亥治郎

没年月日:2002/07/15
分野:, (学)
読み:ふじしまがいじろう

 建築史家で東京大学名誉教授の藤島亥治郎は7月15日午後0時30分、腎不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年103。 1899(明治32)年5月1日、円山四条派の日本画家、藤島静村を父に岩手県盛岡市に生まれる。生後すぐに一家は東京へ転住。第六高等学校を経て、建築史家を志し1920(大正9)年東京帝国大学工学部建築学科に入学、伊東忠太関野貞塚本靖の指導を受ける。とくに関野貞の感化により地下遺構の調査等、建築史に考古学を援用する姿勢を養う。卒業論文で日朝建築の交渉史を扱った関係もあり、23年同大学を卒業後は朝鮮半島に渡り京城高等工業学校に赴任、その間半島各地を精力的に踏査する。26年から二年間独・仏・米三国に留学、欧州各国を巡遊。1929(昭和4)年東京帝国大学工学部建築学科助教授となる。33年に論文「朝鮮建築史論、特に慶州郡を中心とする新羅時代仏教建築に就いて」で工学博士の学位を取得、同年東京帝大教授となる。36年より文部省国宝保存会委員を兼任、戦後には文化庁文化財審議会専門委員会となった同会の委員を80年まで務める。また49年の法隆寺金堂火災を機に同寺の国宝維持修理事業が委員会制度となるに伴い、その委員となり、同寺金堂や五重塔の調査を行なう。またこの時期より中山道全体を踏査し、宿場町とその途上の町家・民家・街道景観の総合調査を実施する。50年大阪府教育委員会による四天王寺の発掘調査に参加、この調査をふまえ55年より国の文化財保護委員会、大阪府教育委員会、四天王寺の三者合同による発掘調査が行なわれ、その委員を務める。さらに57年より同寺伽藍の再建設計を行い、その功績により65年建築業協会賞、68年日本芸術院賞恩賜賞を受賞する。その一方で54年に平泉遺跡調査会を組織し、観自在王院跡、毛越寺伽藍跡、中尊寺、柳之御所跡等の調査を実施、その整備事業にもあたり、また62年から68年まで国宝中尊寺金色堂保存修理工事委員会委員長を務めた。この間60年に東京大学を定年退官、同大学名誉教授となる。86年古建築・遺跡の歴史意匠的研究とその復原的設計における功績に対し、日本建築学会大賞を受賞。87年には「建築は綜合芸術である」を基本精神に、広い視野から建築文化・芸術文化の発展への寄与を目標とする綜芸文化研究所を設立。その経歴は自ら記した「古代への私の歩み」(『古代文化』450~453 1996年)に詳しい。著書は『平泉-毛越寺と観自在王院の研究』(東京大学出版会 1961年)、『韓の建築文化』(芸艸堂 1976年)、『復興四天王寺』(四天王寺 1981年)、『平泉建築文化研究』(吉川弘文館 1995年)、『中山道―宿場と途上の踏査研究』(東京堂出版 1997年)等多数あり、その著作・制作目録および年譜は『藤島亥治郎百寿の歴史』(非売品 1999年)、および『建築史学』39号(2002年)、『綜芸文化』6号(2002年)に収められている。

出 典:『日本美術年鑑』平成15年版(244-245頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「藤島亥治郎」『日本美術年鑑』平成15年版(244-245頁)
例)「藤島亥治郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28257.html(閲覧日 2024-03-19)

以下のデータベースにも「藤島亥治郎」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top