河原温

没年月日:2014/06/27
分野:, (美)

 現代美術作家の河原温は、6月27日にニューヨークで死去した。生没年月日は公表されていないが、2015(平成27)年にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開催された大規模な個展「河原温――沈黙」の図録に、上記の日付における略歴として「29,771日」と記されており、享年81であったと思われる。
 河原温は、1951(昭和26)年に愛知県立刈谷高等学校を卒業して上京し、独学で絵画の制作を開始した。翌52年から56年頃までの約5年間に、日本美術会と読売新聞社のそれぞれの主催による二つのアンデパンダン展、「ニッポン」展、デモクラート美術展などの公募展やグループ展において、またタケミヤ画廊等で開催した何回かの個展を通じて、精力的に絵画作品の発表を行っている。この時期の河原の作品は、ロボットやマネキンを思わせる記号化された人体表現、遠近法を強調した空間表現、不規則多角形の変形カンヴァスや変形紙面の使用を特徴とし、非人間的でSF的な状況を不条理なユーモアとともに描出した具象的な絵画(油彩画および素描)であった。中でも「浴室」シリーズと「物置小屋の中の出来事」シリーズという二つの鉛筆素描連作(いずれも東京国立近代美術館蔵)は、戦後の閉塞した社会状況を象徴し、時代を代表する傑作として高い評価を受けている。油彩画としては「孕んだ女」(1954年、東京国立近代美術館蔵)や「黒人兵」(1955年、大原美術館蔵)などがある。
 戦後世代を代表する新進画家として注目を集め、活躍が期待された河原だったが、少数の観客しか目にしない展覧会での作品発表という形式に限界を感じ、より広範な観客が鑑賞できる媒体として、50年代後半から「印刷絵画」の可能性を模索するようになった。これは、作家自身が製版・印刷の工程を監理しながら制作する、オフセット印刷による絵画で、作者自身によって書かれたテクスト「印刷絵画」(『美術手帖』誌155号、臨時増刊「絵画の技法と絵画のゆくえ」、1959年)に詳細が論じられている。
 しかしながら、結局のところ河原は、全く新しい展開を求めて59年9月に日本を離れ、メキシコ、ニューヨーク、パリでの滞在を経て、64年秋からはニューヨークに定住することになる。この間の63年以前の作品についてはほとんど知られていないが、64年にパリおよびニューヨークで制作されたドローイングが200点ほど現存する。これらは言語をテーマにした作品やインスタレーション作品のプランが多く、50年代の東京時代の作品とは、すでに全く異なるものであった。65年にニューヨークで制作された作品は、カンヴァス上に文字を描いた作品や暗号を用いた作品であり、そして翌66年1月からは、単色の地のカンヴァスに白い活字体の文字で日付を書いた絵画作品、いわゆる「日付絵画」(「Today(今日)」シリーズ)の制作が始められることになる。
 「日付絵画」は、ただ単に日付を描いた絵画ではなく、いくつかの規則に則って制作されているが、そのうち最も本質的なものは、描かれた日付の24時間のうちに制作が開始され、描き終えられなければならないというものである。すなわち、その正式タイトルが「Today(今日)」であることからもわかるように、描いている作家にとって、描かれる日付は常に「今日」でなければならないのであり、描き終えられなかった場合は破棄される。それゆえ、一枚一枚の「日付絵画」は、作家がその日付の日に生存し制作したという、一種の存在証明のようなものとなる。日付は、作家がその日に滞在していた都市における公用語の一つを用いて書かれており、カンヴァスの大きさは、8×10インチから150号大までの8種類の中から選ばれている。画材はリキテックス社のアクリリック(アクリル絵具)で、赤と青は既成の絵具を混色せずに用いているのに対し、ダークグレーに見えるその他の画面の色彩は、その都度絵具を調合して色を出している。それゆえ、一見同じように見えるダークグレーの画面には様々な色調が認められ、「日付絵画」が作家の感情や気分、意識の状態を反映した「絵画」として制作されていることがわかる。絵画は自作のボール紙製の箱に納められ、箱の内側にはその日の新聞が貼り込まれている。「日付絵画」は、文字通り河原ライフ・ワークであり、亡くなる前年の13年までの間に3000点近い数が描かれたと言われる。
 「日付絵画」に続き、河原は60年代の後半から、一連の自伝的な作品を制作した。その日に読んだ新聞記事をスクラップした「I READ」(1966年-95年)、起床した時刻をスタンプで記した絵葉書を友人に宛てて送り続ける「I GOT UP」(1968年-79年)、その日に会った人物の名前を会った順にタイプ打ちした「I MET」(1968年-79年)、その日に行った経路をゼロックス・コピーの地図の上に赤線で記録した「I WENT」(1968年-79年)がそれである。
 一方、存在証明的な意味が最も強いのは、電報による作品「I AM STILL ALIVE」(1970年-2000年)で、「私はまだ生きている」という意味の英文の電報を間欠的に友人や知人に宛てて打電するものである。とはいえ、発信時点での発信者の存在証明は、受信者の時空におけるその不在を同時に喚起する。受信した時点で本当に「私はまだ生きている」かどうかはわからないのである。この構造は「日付絵画」とも通じるものである。というのも、66年以降、河原は、展覧会のオープニングなど公式の場に姿を見せることはなく、写真も公表していないので、描かれた日付の時点における作者の存在証明は、そのまま「日付絵画」の鑑賞者にとっての作者の不在をあらわにするからである。
 「日付絵画」と一連の自伝的な作品のように、河原自身の生と密接に結びついた作品とは異なり、時間と人類を巨視的に捉えた作品が、「100万年」である。1ページに500年分の西暦の年号をタイプアウトし、それを2000ページ、つまり100万年分続けて、10巻からなる年号簿とした書物の形の作品で、過去編(1970年-71年)と未来編(1980年-98年)が制作された。人類そのものの発生から、現在を経て、その消滅までをも包含する時間が可視化されたこの作品は、見る者を超越的で宇宙的な視点に誘う。
 晩年の河原温は、「日付絵画」の制作を続ける傍ら、展覧会への参加を極力限定し、最終的には二つのプロジェクトのみが残ることになった。一つは「100万年」の朗読のプロジェクト(1993年-)で、展覧会などの会場で「100万年」の一部を俳優や一般の参加者などが朗読したり、録音して出版したりするものである。もう一つは「純粋意識」(1998年-)と題された「日付絵画」を幼稚園に展示するプロジェクトで、人間に社会性が刷り込まれる以前の幼児期に「日付絵画」を直接的に経験させることを意図して、世界の20カ所以上で実施されてきた。これらはいずれも、他者の意思により、作者の不在のもとでも、おそらくは死後においても、実施することができるプロジェクトである。
 「日付絵画」以降の河原温の作品は、文字や数字を用いているため、コンセプチュアル・アートの代表的な作例とされることが多い。しかしながらそれは、日々目覚めては眠りにつく人間の生を意識の明滅と捉え、それを誕生から死までの時間に、さらには人類の発生と滅亡という次元にまで敷衍するもので、個人的なものや日常的なものと普遍的なものや宇宙的なものとを直感的に結びつける、極めて独創的な形式であった。瞑想的な作品は、世界中で高く評価され、大きな影響を与えている。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(504-505頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2017年10月27日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「河原温」が含まれます。
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