嶋本昭三

没年月日:2013/01/25
分野:, (美)

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった嶋本昭三は1月25日、急性心不全のため兵庫県西宮市の病院で死去した。享年85。
 1928(昭和3)年1月22日、大阪に生まれる。関西学院大学文学部在学中に、新制作協会の大住閑子と出会ったことをきっかけに絵を描き始める。大住の上京後は、同会の増田雅子に学ぶ。47年、増田の紹介により、画家吉原治良の門下となる。関西学院大学を卒業する50年頃、新聞紙を貼り合わせたキャンヴァスに穴を開けた作品を制作し、その斬新さを吉原に高く評価される。このころから、吉原門下生たちのリーダー的な役割を果たす。53年、大阪市立豊崎中学校に美術教員として着任。54年、吉原門下の作家たちの作品を海外に発信するための雑誌を制作する際にも、印刷機の入手や作業場所の提供など、中心的な役割を果たした。雑誌名は嶋本の提案した「具体」という名称が採用され、具体美術協会が発足。以降、具体美術協会の中心メンバーとして、主要な具体展すべてに参加。55年7月の「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」(芦屋公園)では、トタンに穴を開けた作品。同年10月、東京の小原会館で開催された第1回具体美術展には、上を歩くことができる体験型の作品を出品。翌年2月には、ポロックをはじめとする海外の作家へ雑誌『具体』を発送する作業も担当。同年の「野外具体美術展」では、上を歩く作品を再度出品するとともに、「大砲絵画」を制作。この手法をヒントに、10月の第2回具体美術展では、絵具を詰めた瓶を投げつけて描く手法を初めて用いる。以降、嶋本にとって主要な制作方法のひとつとなる。62年、グタイピナコテカ開館に際して行われた連続個展シリーズで、最初の個展を担当。69年、関西女子学園短期大学専任講師(1971年助教授、74年教授)。70年の大阪万博では、お祭り広場で「1000人の花嫁」のアート・プロデュースを担当。72年の吉原の死去によって具体美術協会が解散する前年に退会するまで、中心メンバーとして活躍した。
 75年、アーティスト・ユニオンに参加。翌年、同会の事務局長に選出。このころから、メール・アートを本格的に行うようになり、国際的なネットワークが構築されていく。80年、アーティスト・ユニオンがアート・アンアイデンティファイド(AU)に改名した後も、同会の運営を担う。86年、「大阪姉妹都市まつり」にイタリアの芸術家G・A・カヴェリーニを招待した際に、自らの頭を剃り上げ、メッセージを書き込むヘッド・アートを初めて行う。これはのちに海外の雑誌や新聞に大きく取り上げられる。1989(平成元)年、被差別部落の人々とともに、鴨川の河原に「へ」の字を描いた模造紙を一万枚並べるプロジェクトを実施。91年、宝塚造形芸術大学教授に就任。92年、ペインティングした廃ビルを崩壊させる「タイム・ラック」を、翌年には人間を十字架に磔にするパフォーマンスを行う。このころから、裸体の女性による女拓の制作を始める。同年、障害者の芸術祭のアート部門実行委員長を務め、94年には、日本障害者芸術文化協会会長に就任。また、85年に来日した、メール・アーティストで元原爆製造関係者である原子物理学者バーン・ポーターと交流を持ち、95年には彼によってノーベル平和賞に推薦される。98年には、ロスアンジェルスのMOCAを皮切りに世界を巡回した「Out of Actions:Between Performance and Object」展に穴の作品を出品し、ケージ、フォンタナ、ポロックとともに第1室に展示された。同年には、早い時期にアメリカで具体を紹介したアラン・カプローとともに、台湾でパフォーマンスを行った。その後も、世界各地の具体展においてパフォーマンスを披露するとともに、自身の個展も活発に行う。タピエ以降、具体の作家たちの多くが絵画へと傾倒していく中、パフォーマンスやメール・アートなど独自の路線を追求していった嶋本の活動が、結果的に、具体の名を世界に知らしめる役割を担ったと言えるだろう。
 主な受賞には、95年に井植記念館文化賞、99年に紫綬褒章、2000年に兵庫県文化賞(現代美術)などがある。主な著書には、『芸術とは、人を驚かせることである』(毎日新聞社、1994年)、『ぼくはこうして世界の四大アーティストになった』(毎日新聞社、2001年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(449頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2016年09月05日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「嶋本昭三」が含まれます。
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