本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年4月17日

 四月十七日 金 (京都日記) 留守の間ニ山本が家を見つけたと云て来たそうだから今朝直ニ山本の処ニ行た 又それ迄ニ安井神社の鳥居氏ニモ逢つて来た 此の人も売屋敷を知らしてくれたから山本を案内として岡崎ニ家を二三軒見た 十二時頃ニ中村の処ニ行き父上へ上る手紙をかきそれから中村とホテルニて一緒ニ食事した 食後安藤の処ニ行て誕生祝の御馳走ニ為つた 夕方から大和橋の丸住と云茶屋へ行た 此の丸住ニ入る迄の内ニ五六軒川端辺をひやかしとうとう丸住ニ這入る事が出来た これハ安藤が「ナガイ事」だの「去年来たのを忘れたか」と云様な事を甘くやつたので知つた人と思つて上げたのだつたらしい 兎ニ角上つた上ハこつちのもの大ニあばれてやつた そうして其結果が一円五十銭と云安値ニハ驚いた

1896(明治29) 年4月18日

 四月十八日 土 (京都日記) 世阿弥ニ朝のカツフエを飲みニ行き昼頃ニ中村をたづねたら或る客と松葉ニ行たと云事故松葉ニ押かけた 客ハ山科の人で中村好夫と云あの辺の名望家だそうだ さつぱりとした人だつた 此処迄案内同然ニ連れて来た中村方の松田市兵衛爺を頼で銀行ニ金を受取りニ行てもらつた 銀行に預けて置た丈の金を受取る積だつたが代人では出来ぬと云事 それでハこれ丈取つて来て呉れと爺を二度銀行迄やつた 中村と山へ帰り三時過から相乗ニあとをしを付け渋谷を径て清閑寺ニ行て写生をした 陵の様子を写したのだ 夕方ニいそいで山へ帰り河原町のホテルニ行た時ハ早七時 松原と安藤夫妻ハもう来て待て居た 今夜ハお別れの為ニ皆を招待したのだ 食後ハ男四人で前夜の丸住ニ行き十二時頃迄騒いだ 今夜ハ昨夜より一層勢よくやつた

1896(明治29) 年4月19日

 四月十九日 日 (京都日記) 十一時頃ニめし食ニ勝栄亭ニ出掛けて行く途中桜の東手で堀江松華君ニ出逢ヒ一緒ニ行た めしを食ひかけてる処ニ安藤が来又大迫重威氏と其連の人が尋ねて来た 食後安藤 堀江と成井で写真を取り内へ帰つたら中村が来て待て居た 暫らく内で話をして居りそれから四人連で平野屋ニ行き二階の四畳半ニ這入込み六時過迄居た 又一寸内へ帰り何処かへ押掛けやうと云事ニ議決して久し振りニ尾張楼の新座敷へ上る 昨夜と同じく非常ニあばれた 玉葉 お□(原文不明)其他の出品が有つた こう云京美人の連中ニモしばらくこれがお名残りだろうと思ふ 十一時半頃ニ出て皆ニ祇園町で別れて内へ帰る 今日終日雨

1896(明治29) 年4月20日

 四月二十日 月 (京都日記) 銀行ニ金受取ニ行き中村から正春堂へ寄り内へ帰り小堀で昼めしを食 中村 安藤 川野等がやつて来た 食後皆と内へ一寸帰りそれから清閑寺ニ行き紅葉の木を写生した 途中清水のそばやでそばなど食た 夜食ハ平野屋でやらかし八時過から美濃竹ニ上り十二時半迄居た

1896(明治29) 年4月21日

 四月二十一日 火 (京都日記) 今日ハぼんやりした天気だ 九時ニ起きて荷造を始めた 十一時頃ニ中村が来又間も無く安藤が来た 十二時頃ニ三人で鳥居元ニめし食ニ行き二時五十分の気車で立つた 安藤ハ荷造の手伝などして呉れてステーシヨン迄送つて来て呉れた 又吉川泉一氏が荷と一緒ニステーシヨン迄先ニ来て居て呉れた 吉川氏ハ山科迄中村ハ馬場迄来て呉れた 中村ニ別れる時ニハ変な心地がした 段々東へ行程天気が悪くなり夕方ニハ霧雨ニ為つて来た 名古屋で女連の英人が下りたら今度ハ芸者を四人連れた紳士が乗つた 此の連中が浜松で下りたからそれから先ハ楽ニ寝る事が出来た

1896(明治29) 年4月22日

 四月二十二日 水 大船のステーシヨンで目がさめて見れバ今日も雨降りだ 新橋ニ九時頃ニ着た place de station の restaurant でシヨコラを飲み久米の処ニ行き上野の美術学校ニ行て岡倉氏ニ逢ひ又久米の処ニ帰り奴及び毎日の吉岡君を引出し一緒ニ清新軒で昼めし 二時頃迄話をしてそれから皆と別れて笄ニ行き父上様ニお目にかゝり屋敷の話から進でメナージユ及び七丁目ニ来たら母上様もお出で都合よし 晩めしなど御一緒ニたべて十一時頃ニ内へ帰つた

1896(明治29) 年4月23日

 四月二十三日 木 八時半頃ニ起て朝めしを食た 天気もよく気分もよし 道具の片附方などしてゐる内ニ大熊が来た 午後伊木氏が来られて始めて逢つた 二時頃から内を出て茂 雪が学校帰りに内ニ寄つたのを引連れて七丁目ニ行きそれから又一寸内へ帰り車を雇はせ杉氏と大山氏ニ名札を置き合田の処ニ行き菊地と一緒ニ出て久米公の処ニ行く 途中銀座で井上ニ出逢ひ井上ニ引張られて日本橋のなんとか云先日奴ニ連られて行た料理屋兼 Maison de ren-dez-vous と云処ニ行た 九時五十分の新橋の気車で伊木氏が立つのでそれを井上と一緒ニ見送ニ行き又料理屋ニ帰り十二時頃迄遊んで帰つた 内へ帰り着いたのハ一時前だつた J’ai choisi le salon comme ma chambre a coucher, la je serai plus tranquille.

1896(明治29) 年4月24日

 四月二十四日 金 小林萬吾がやつて来て十一時迄話して居た 井上と今日ハ鹿鳴館で昼めしを食ふ事を約して置たから出掛けて行て電話で菊の家ニ幾遍問合しても一向ニやつて来ず 遂に向ニ待て居ると云返事 其処で一人でめしを食て二時頃ニ菊の家ニ行く 井上ハ用が有つて出ると云ので一緒ニ出て今夜再会せんと約してオレハ久米の処ニ行く 夕方迄久米の処で遊で又菊の家ニ行く 井上の外ニ二人程居合せた 今夜の散財ハオレが引受る事としてやつた 十一時半頃迄飲で根津の神泉亭ニ一文なしでにげこむ 時ニ一時頃也

1896(明治29) 年4月25日

 四月二十五日 土 朝八時頃ニ起きて風呂ニ入り中村氏へやる手紙などかきおしげを呼で京都の話などし車ニ乗つて出掛けた 長原ハ留守 小山ハ居た 小山ニ神泉亭の払を頼で置て一緒ニ出かけて浅草のパノラマを見 一直で昼めしの御馳走ニ為つた 此の時ニ非常ニ雨が降つて来たがめしを食て出る時ニハ上つた 十二階ニモ登つて見た 小山ニ別れて車ニ乗り七丁目ニ行た 新二郎の処ニモ行つてしばらく話し夜食ハ橋口家にて御馳走ニ為る 一人で天神の市など見て九時頃ニ帰る 帰つて見たら京都の中村 安藤等からの手紙が来て居た 其返事など書いて十二時頃ニ寝る

1896(明治29) 年4月26日

 四月二十六日 日 八時頃ニ酒井雄三が来て去ると間もなく長原が来又石原助が来た 此の二人を相手ニ昼めしを食ひ長原ハ帰り石原と一緒ニ芝公園の前田正名氏を訪ふ 帰り途ニ磯谷に立寄る 雨が降りそうに為つて来たから車ニ乗つて姉さん宿ニ行き晩めしニ鹿児島ずしの御馳走が有つた 夜八時過ニ内へ帰つたら伊木氏の妻に為つたお幾が来て居た 始めて逢つたのだ

1896(明治29) 年4月27日

 四月二十七日 月 朝早くから磯谷と白瀧がやつて来た 磯谷ニハ額のわくを注文した 今日ハ天気ハいゝけれどなんだかぼんやりしてねむい 家の系図 古文書等をお久殿より受取り調方をした 昼過ニ為つてつるつと昼寝をやらかし少し気分がはつきりしたので樺山伯の処ニ Visite ニ出掛けた 又内を出る前ニ pere Hashiguchi が玄関迄来られた 樺山伯ニ逢つてから内へ帰り菊掛の処に行き合田の処ニ行き又日本橋の菊屋迄払ニ行ツタ 井上が居合せたので六時頃迄話しそれから久米の処ニ行た 菊地が久米の処ニ待ち合せて居たから奴と二人で清新軒でめしを食ひ又久米の処ニ行て十時半頃迄話をして帰る 今夜ハ月ハよしはだもちも至極よし 清新軒で織田万蔵ニ十五六年振ニ逢つた 内へ帰つて中村と敦盛ニやる手紙をかき二時頃ニなつた

1896(明治29) 年4月28日

 四月二十八日 火 大阪の清永氏の弟の鬼塚六郎と云人が来て八時前ニ起された 十時過ニ長田忠が白百合第一号を持つて来た 昼めしを一緒ニ食てから帰つて行た 今朝京都の安藤からとお栄から手紙が来た 午後和田英作のおやぢがやつて来て画を見て行た 父上様が一寸お出ニなりいよいよ明後日から御肖像をかき始める御約束をした 母上様ハオレが神泉亭へ泊つた晩からお留守だつたが今朝お帰りなされた 又藤井氏おばあさんは昨朝樺山家からお帰りニ為つて居たが今晩石原家へ御出掛けなされた Se prepare-t-il l’evenement? O ! Comme il me fait atten-dre! A present je m’en fiche pas mal de ce qu’on dira. C’est très encourageant qui mon père a l’air de me comprendre.

1896(明治29) 年4月29日

 四月二十九日 水 昨夜十一時から寝て今朝九時頃までゆつくり寝て居た 朝書物の片附けなどした 昼めし後ニ衆議院の属官が肖像注文の事でやつて来た 二時少し過から車で磯谷の処に行き又山本芳翠をたづね六時頃迄遊で帰る 今日ハ二度共内でめしを食た 夜食後母上様と二人で姉さん宿ニ遊ニ行き十一時頃ニ帰る それから安藤とお栄の返事をかき一時過ねる

1896(明治29) 年4月30日

 四月三十日 木 九時頃ニ磯谷ニ起された 中村から手紙が来た 磯谷が仕事して居る内ニ久保田米斎君と和田英作が来た 引続いて岡田三郎助が来た 皆が帰つたのハ十一時頃だつた めしを食て直ニ衆議院ニ行書記官長ニ逢つて肖像の一件を極めてそれから磯谷ニ行てわくを注文した 未だ時が充分有つたから笄に行て父上様の御肖像をかきはじめた 帰り途ニ岩村 野村靖氏 野津等をたづねた 野村氏丈逢ふ事が出来た 夜ハ内で刀の調べ方をやつたり又座敷の片づけをした 十二時半頃ニ寝床ニ入る décidément on ne veut donc pas agir, ou être franc? nous verrons・・・・・・!  

1896(明治29) 年5月1日

 五月一日 金 菊地が九時頃ニやつて来た 間も無く磯谷がオレの画をわくニ張て持て来た 三人で話をして居る処ニ久米から端書で母様が今朝五時ニ死なれたと云事が云て来た 直ニ車を命じて菊地と久米の処ニ出かけて行た 此の時が十二時頃 La Morte の写真取りなどが有つてオレ等がめしを食ニ清新軒ニ行た時ハ早一時半頃だつた めし後芝口で煙草を買ひそれから合田の処や菊地の処で話をして菊地を引張て六時頃ニ内へ帰つて来た 半時間も立つて合田もやつて来て一緒ニめしを食ひ合田が巴里の Port Royal ニ居た頃ニ Conservatoire ニ出る女と知り合ニ為り其女がおぢさんと称して老人の amant を持つて居たなどと云話が出て非常ニ面白かつた 十時半頃迄二人共話して行た 今日中村へ手紙と尾張楼への払の為替を送つた

1896(明治29) 年5月2日

 五月二日 土 約束通り十一時ニ衆議院ニ行き肖像をかき始めた 十二時迄仕事して出るとあたらし橋で大熊ニ出遭ひ一緒ニおすましの内でめしを食ひ別れて淡路町で靴を買ひ初音町ニ行て岡倉氏を訪ひ外国へ注文する一件や長原の事など話し団子坂に行き一寸長田へ寄り又小山へ寄つた どつちも亭主ハ留守で妻君ニ逢つた それから長原を尋ねて今日岡倉氏との談判の結果を知らせ一緒ニ出て伊予紋で晩めし 食後二人でぼつぼつ散歩し神保町の辺へ一緒ニ来た

1896(明治29) 年5月3日

 五月三日 日 昼前から杉田一郎の弟新八氏が来て居て一緒ニめしを食ひ一時半頃迄話して行た 二時過ニ久米の処ニ行て見たら今日一時ニ葬式が出たと云あと 直ニ菊地の処ニ行て見たら奴ハ葬式ニ行たとの事 其処で其儘式場の一本松町の寺ニかけ付けた 焼香が済で皆が帰る処だつた 通知ニもれて失礼したと云事丈を云て連中と一緒ニ為り山本の処ニ行た 此処ニ集まつた者共ハ合田 菊地 吉岡 佐野 小代 田中 夕方から皆で出掛け聖坂上の焼酎屋と云どぶろく屋ニ這入つて飲だり食たり 其処で払が六十三銭 八十銭丈置いて大威張 それから三田の通ニ出て牛屋ニ入りめしを食た 山本の話が面白く二時間計も大笑した 雨ニぬれて十時半頃内へ帰

1896(明治29) 年5月4日

 五月四日 月 和田 岡田 白瀧の三人が八時半頃ニ攻め込で来て描て来た画を沢山見せた 十時半から十二時過迄衆議院で仕事をしそれから久米の処ニ行たら留守 精養軒でめしを食つた トロンコアニ久し振で逢つた 木挽橋を渡ると久米が内の人達と火葬場から帰つて来るのニ出遭ひそれから奴の内へ行き学校の為ニ巴里へ注文するもの等ニ付相談した 又一緒ニ名札をあつらへニ行きナドシテ別れて夕方ニ内へ帰つた 夜食後座敷の片づけ方やオレが西洋ニ行く前ニ大切ニして居た書類を引出して見たりして暇をつぶし一時頃ニねる

1896(明治29) 年5月5日

 五月五日 火 十時頃ニ西園寺さんへ行たら出勤をしかゝつて居らるゝと云事故其儘引取り上野に行たら岡倉氏ハ不在 夫れから森川町の林政文をたづねた 同人ハ四五日前ニ台湾から帰つたのだ 金州ニての話から又京都の話などが出た 林ハ今度帰り掛ニ京都へ寄つたとの事 飛烏山の扇屋で昼めしを一緒ニ食ひ四時頃ニ大学の前で別れ序ニ Revon をたづねて逢つた 宮本ニ勝元と云二人が居合せて知り合ニ為つた 夕方内へ帰つて晩めしハ内で食たが頭痛が始まつて気分が悪い 九時頃ニ橋口氏から On est venu me chercher aux noms de ma mère et de ma soeur. La dinamite très attendue a fait l’explosion! Je suis très enchanté de ce que le mouvement a été commencé. C’est pas trop tot !  

1896(明治29) 年5月6日

 五月六日 水 衆議院の方ハ断り西園寺氏ニ行き逢つて学校の事などの話をした 内へ帰り昼めしを食てから上野へ行き岡倉氏ニ逢つて注文の一件の話を極めそれから同氏と一緒ニ大学校ニ行てモデル用プラアートルを一覧 帰りがけニ菊地ニ寄つて美術学校の仕事の話をし又合田の処ニ一寸寄つた 小代が見へたから小代と菊地を引張て内へ来た 晩めしを一緒ニ食て十一時頃迄話して行た 松原が山口から写真や手紙をよこしたから其返事などをかいて一時過ニねる C’est aujourd’hui, j’ai crie tout haut, je veux ma liberté! Mon père m’a compris, je le remercie de tout mon coeur.

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