本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





川合玉堂

没年月日:1957/06/30

日本画家、日本芸術院会員川合玉堂は、6月30日心臓喘息のため東京都青梅市の自宅で逝去した。87歳。明治6年11月24日、愛知県葉栗郡に生れた。本名は芳三郎、晩年の別号に偶庵がある。明治20年14歳の時京都に出で、望月玉泉の門に入り玉舟と号した。同23年幸野楳嶺の門に移つて玉堂と改め、この年の第3回内国勧業博覧会に出品して、はやくも褒状を受けた。その後、日本青年絵画協会、京都市美術工芸品展覧会、日本美術協会等に出品して次第に頭角をあらわした。明治28年、師楳嶺の死に遭つたが、京都に於いて開かれた第4回内国勧業博覧会に「長良川鵜飼」を出品して3等銅牌を受けた。この博覧会で橋本雅邦の「龍虎図」「釈迦十六羅漢」を見て感動し、翌29年上京して雅邦の門に入つた。その後、明治30年代には、主として日本絵画協会、日本美術院聯合絵画共進会に出品して屡々受賞した。明治40年、東京府勧業博覧会に審査官として「二日月」を発表して1等賞を受け、その画名を高めた。この年から開設された文展の審査員を命ぜられ、以後毎年審査員として文展に出品した。明治41年には、玉堂を中心として芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ、以来30年の間つづき、また翌42年には、彼の長流画塾を中心とする下萌会が生れて展覧会を催した。大正4年東京美術学校教授を拝命し、同7年には日本画科主任となつたが、昭和11年に至る前後20余年の間教職に在つた。大正6年帝室技芸員を命ぜられ、同8年には帝国美術院の創立とともに同会員に挙げられた。同13年大観、栖鳳など日本画壇の長老たちと淡交会を結成して毎年展覧会を開いた。昭和12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同15年多年の功労によつて文化勲章を授与された。 玉堂は、はじめ四条派を学んだが、それにあきたらずして転じて雅邦に師事した。従つてその初期の作品には楳嶺流の写生派の感化を示しているが、明治30年頃からの作品には狩野流の線描が目立つ。しかし、明治40年の「二日月」に至つて雲煙の表現に新意を開き、以後その個性的な線描と雲煙表出による水墨に新境地を発展させて行つた。また、一面大正5年の「行く春」などあたりから色彩と線描との調和に腐心し、次第に成果をおさめた。大正7年の「暮るる山家」、同13年の「雨後」、昭和10年の「峰の夕」、同15年の「彩雨」などは、この傾向の代表的なものである。晩年にはむしろ色を抑えた墨を主とした作品が多く、昭和25年の「吹雪」、同27年の「暮雪」、同29年の「月天心」などはその中のすぐれた作品である。そして、彼は日本的な題材を穏和な日本的な手法で表現したが、俳味ゆたかな小品にもすぐれた作品をのこしている。 その告別式は7月4日東京築地本願寺で行われたが、御供物料として金一封がおくられ、またかつて同画伯から日本画の手ほどきを受けられた皇后さまは菓子と生花をそなえられ、また政府は正3位勲1等旭日大綬章を贈つた。略年譜明治6年 11月24日、愛知県葉栗郡に、父川合勘七、母かなの長男として生れる。本名芳三郎。明治14年 岐阜市に移住。明治19年 京都の画家、青木泉橋、岐阜に来住。夫人も翠蘋と号する美人画家で、夫妻の知遇を得て大いに刺戟せられる。明治20年 9月、青木泉橋の紹介状をもつて京都に上り、望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。明治23年 11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。第3回内国勧業博覧会「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」褒状。この時玉堂と改めた。明治24年 京都市照円寺境内に住む。春、日本青年絵画協会「夏雨水禽」。秋、大成義会研究大会「本間資氏射鴟図」1等賞。明治25年 京都市美術展覧会「春間野雉」。明治26年 親戚の大洞家の次女富子と結婚。明治26年 日本美術協会課題作「旅中の砧」1等褒状。明治27年 京都市美術工芸品展覧会「二喬読兵書図」3等銅牌。明治28年 2月、師幸野楳嶺死去。この年春京都開催の第4回内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「竜虎の図」と「釈迦十六羅漢」をみて、深く感動する。内国勧業博覧会「長良川鵜飼」3等銅牌。明治29年 上京橋本雅邦の門に入り、麹町に住む。9月、日本絵画協会主催第1回絵画共進会展「波に鴎」褒状。明治30年 陸軍大将川上操六の知遇を受け、大いに教えられるところあり、同家の襖絵16枚を描く。4月、第2回絵画共進会展「孟母断機」3等銅牌。10月、第3回絵画共進会「家鴨」3等銅牌、農商務省買上となる。明治31年 10月15日、日本美術院創立せられ、雅邦に従つてこれに加わる。4月、第4回絵画共進会「池畔観花図」2等銀牌。10月、第5回絵画共進会(この時から日本美術院と聯合、以後同じ)「冬嶺孤鹿」3等銅牌。明治32年 日本美術院展における会長の訓辞に対し、出品者を代表して答辞を読む。10月、第7回絵画共進会展「小松内府」3等銅牌。明治33年 この頃より次第に名声あがり、その塾、長流画塾も盛んとなる。4月、第8回絵画共進会「柿の実」3等銅牌。10月、第9回絵画共進会展「水禽」2等銀牌。明治34年 10月、第11回絵画共進会展「湘君」3等銅牌。明治35年 9月、日本絵画協会役員改選の結果、同会の幹事並びに評議員に依嘱せられる。3月、第12回絵画共進会展「瀑布」銀牌。10月、第13回絵画共進会展「紅露」「凉蔭」2等銀牌。明治36年 3月、第14回絵画共進会「朝」「夕映」。10月、第15回絵画共進会展「焚火」2等銀牌。明治38年 東上10周年に当り、長流画塾の研究大会を開き、園遊会を催す。明治39年 五二共進会審査員に任命せられる。日本美術院展「麻姑」五二共進会「驟雨」1等賞。明治40年 3月、東京勧業博覧会の審査官を嘱託せられる。東京勧業博覧会「二日月」1等賞。8月文部省美術審査委員会委員を仰付けらる。10月、文部省第1回美術展覧会(以下文展と略称)「片時雨」。明治41年 1月、師橋本雅邦死去。玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ爾後30年続く。第1回国画玉成会展「渓村秋晴」10月、第2回文展「秋山遊鹿」。明治42年 長流画塾盛んとなり、研究会とは別に、展覧会本位の団体、下萌会が生まれる。4月、第1回下萌会展「波」「高嶺残雪」。10月、第3回文展「霧」「高嶺の雪」。明治43年 9月、イタリア万国博覧会監査委員に任命せらる。10月、第4回文展「炊煙」。明治44年 10月、第5回文展「細雨」。大正元年 文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。春草追悼会「藤花」。10月、第6回文展「潮」。大正2年 10月、第7回文展「雑木山」「夕月夜」。大正3年 大正博覧会審査員に任命せられる。4月大正博覧会「背戸の畑」。10月、第8回文展「駒ヶ岳」「夕立前」「晩渡」。大正5年 10月、第10回文展「行く春」。大正6年 6月、帝室技芸員を拝命。10月、第11回文展「小春の夕」。大正7年 下萌会を復活。東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。10月、第12回文展「暮るる山家」。大正8年 9月、帝国美術院会員となる。第3回下萌会「春風」「春苑」。大正9年 第4回下萌会「山毛欅」、第2回帝国美術院展覧会(以下帝展と略称)「風立つ浦」。大正10年 第3回帝展「小雨の軒」「岩魚釣」。大正11年 5月、第1回朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。第6回下萌会「奥州街道」。第4回帝展「柳蔭閑話」。大正13年 小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、川合玉堂、横山大観6人の淡交会生れる。大正14年 第9回下萌会「湖畔」。第2回淡交会「長閑」「暮靄」「斜陽」。第6回帝展「幽谷の秋」。大正15年 下萌会は第10回展を最後として終了。第10回展「渡頭の春」。第3回淡交会「晴耕」「夕汐」。第7回帝展「小春」外。4月、聖徳太子奉讃美術展「春」。昭和2年 下萌会に代る長流画塾研究大会を浜町日本橋倶楽部にて開催。第4回淡交会「深秋」「野末の秋」「四つ手網」。長流画塾大会「凪」。第8回帝展「峠の冬」。昭和3年 1月、今上陛下御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。3月長流画塾の少壮集つて戊辰会を組織し顧問に推される。第1回戊辰会「八哥鳥」。10月、「悠紀屏風」完成。昭和4年 12月、翌5年ローマに開催の日本美術展覧会出品画を宮中において天覧、横山大観とともに御説明。第2回戊辰会「渇虎」。第5回淡交会「古城春雨」「藤」。12月、イタリア美術展覧会「奔湍」「秋山懸瀑」「山雨新霽」「柳蔭閑話」「長閑」「驟雨」「松上鸛★図」「吹雪」。昭和5年 聖徳太子奉讃美術展「多景島」。第6回淡交会「燕子花」「雪」「石楠花」。10月、第11回帝展「から臼」。昭和6年 フランス政府より、レジョン・ドヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグラン・オフイシェー・クーロンヌ勲章を拝受。第3回戊辰会「四ツ目垣」。第12回帝展「鵜飼」。昭和7年 10月、正4位に叙せられる。第4回戊辰会「めばる」。第13回帝展「土橋」(二曲一双屏風)。昭和8年 10月、ドイツ政府より赤十字第1等名誉章をおくられる。第5回戊辰会「初祖」。第7回淡交会「春雨」「河原の夏」「高嶺淡靄」。第14回帝展「深秋」。昭和9年 京都大礼紀念展「新月古城」。第8回淡交会「早春」「竹生島」「寒山拾得」。第10回帝展「宿雪」。昭和10年 6月、帝国美術院会員に任命せられる。第7回戊辰会「鵜」。第9回淡交会「峰の夕」「雨後」「投網」。現代綜合美術展「峠の冬」。日本画会展「良夜」。昭和11年 2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及び帝国美術院会員の辞表を提出。11月、平生改組による第1回文部省展覧会開かれる。帝国美術院第1回展「雪しまく瀬戸」。昭和12年 6月、安井改組により帝国美術院は解消、帝国芸術院が生れ、秋改めて第1回文部省展覧会を開催。第8回戊辰会「島の春」。昭和13年 第9回戊辰会「朝もや」。第2回文展「一樹の蔭」。昭和14年 4月、戊辰会を解散。第10回戊辰会「銃後の春」「富士」。昭和15年 10月、紀元二六〇〇年式典当日文化勲章を受ける。同奉祝展「彩雨」。昭和16年 仏印巡回日本画展「晩帰」。昭和17年 1月、俳句集「山笑集」刊行。陸海軍献納画「祝捷日」、日本赤十字社より皇太子殿下へ献納の「ゆるぎなき大和島根」を描く。昭和18年 満州建国10周年慶祝展「急緩万里」。第6回文展「山雨一過」。昭和19年 7月、東京都下西多摩郡に疎開。12月更に古里村に転ずる。この頃、歌集「若宮集」をつくる。第7回文展「荒磯」。芸術院会員陸軍献納展「神富士」「煙雨」「雨霧」「深山の春」。戦艦献納のため「旗日」「山霊」「海風」「吹雪」「秋晴」を描く。昭和20年 5月、牛込の住宅戦災にあい焼失。12月、西多摩郡に移り、「偶庵」と称する。昭和21年 第1回日本美術展覧会「朝晴」。昭和22年 11月、歌集「多摩の草屋」刊行。「滝壷」等を製作。昭和23年 11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。第1回白寿会展「春光」。昭和24年 12月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。松坂屋巨匠展「やまめ釣」。昭和25年 第1回無名会展「吹雪」。尚美会展「奔湍釣魚」。松坂屋現代巨匠展「潮騒」。昭和26年 第2回無名会展「雪の天地岳」。高島屋画廊開設記念展「高嶺残雪」。昭和27年 兼素洞の企画によつて、玉堂、大観、竜子の三人展雪月花展がはじまる。第3回無名会展「宿雪」。松坂屋の玉堂、大観双璧展「鶴」。第1回雪月花展「朝雪」「暮雪」。昭和28年 4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。11月病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間製作を行わず、第4回無名会展「泉」「雪」。第2回雪月花展「花筏」「古城の春」。日本美術協会「普化僧」。昭和29年 3月中旬、病気恢復。第3回雪月花展「月天心」「夕月」。昭和30年 3月、兼素洞の企画によつて、大観、玉堂、竜子の三人展の松竹梅展開く。大観は松、玉堂は竹、竜子は梅の課題である。第6回無名会「雪降る日」「寒山題壁」。松竹梅展「東風」「若竹」。昭和31年 第7回無名会展「冬晴」「猿」。第2回松竹梅展「隣の梅」「野梅」。昭和32年 2月下旬、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時恢復に向う。6月上旬から再び悪化し、30日午後0時40分急逝。7月4日築地本願寺に於て告別式を行う。正3位勲1等旭日大綬章を賜つた。この年第8回無名会展に「鴛鴦」「網干」松竹梅展に「老松」「若松」出品。

田中墨外

没年月日:1957/04/19

仏画家田中墨外、本名前田全蔵は(田中家の次男で、後年母方前田家をつぐ)4月19日内臓ガンのため武蔵野市で逝去した。享年80歳。明治10年3月8日福井県小浜市に生れた。同22年上京、神田に移住し、31年から橋本雅邦に師事した。雅邦没後は独り截金仏画に専念し、絶滅に瀕していた截金の技術を復活し、更にその完成に生涯をささげた。昭和12年6月、及び同27年9月日本橋三越に於て多年の研究成果を発表する仏画個展を開いたほか、一切の展覧会に出品せず、截金による仏画の追求に終始した。作品は、昭和11年「赤不動」(明王院蔵)模写、昭和12年「愛染明王」(截金)(護国寺蔵)、同16年「釈迦如来」(截金)芝青松寺蔵、同18年「不動明王」(墨)成田山新勝寺蔵、同27年「観世音菩薩」(截金)国立博物館蔵等がある。

小林古径

没年月日:1957/04/03

芸術院会員、日本美術院同人小林古径、本名茂は4月3日、パーキンソン氏病並びに脳軟化症のため逝去した。明治16年2月11日新潟市に生れた。4歳のとき母を失い、次いで兄、12歳の折父と相次で肉親を失い孤独のうちに少年時代を過したが、父を失つてから郷里で日本画を学びはじめた。明治32年17歳のとき上京して山中古洞を訪ね、古洞の紹介で梶田半古の門に入ることになつた。新時代の写生的風俗画に新しい展開をみせていた大和絵画家梶田半古のもとで、古径は大和絵を学び歴史風俗画に筆をとつていた。半古は日本美術院と関係があつたため、古径は、日本美術院と日本絵画協会共催の共進会展に研究作品を発表して毎月受賞という成績を収めていた。その後岡倉天心に知られ、又当時、新進気鋭の青年画家の集まりであつた紅児会に加わり、歴史風俗画の新解釈に、また、古典の技法・精神をいかに現代に生かすか、熱心な研究をつづけていつた。明治45年、第6回文展に出品した「極楽井」で漸やく自己の道を見出し、再興第1回院展以来「異端」「阿弥陀堂」「竹取物語」と毎年すぐれた作品を発表している。清澄で、浪漫的な大和絵風の作品で、いずれも、この時期の代表的作品といえよう。続いて、洋風画の写生をとり入れつつ新たな制作に向かい、「いでゆ」「麦」「罌栗」など、題材にも今迄にない傾向を進めていつた。大正11年日本美術院の留学生として青邨とともに渡欧、各地の美術を見学し、ロンドンでは「女史箴図巻」の模写をして12年8月に帰国した。帰国後は「鶴と七面鳥」「清姫」等があり、前者は琳派風、後者は大和絵画巻を思わせる作品であるが、線も形も色彩も、きわめて単純化され、古典のもつ端正、清澄な美しさを近代造型のうちに求めて、独自のきびしい追及を進めたものであつた。昭和6年第18回院展の「髪」はその代表的作品で、ここに新古典主義的画風を確立し、昭和の日本画界に大きな影響を与えている。その後も「弥勒」「孔雀」「紫苑紅蜀葵」「不動」等の力作をつづけ、清光会、七弦会等にも円熟した作品を発表していた。昭和19年東京美術学校教授となり、戦時中は一時山梨県に疎開し、制作も小品が多かつた。戦後、「舞踏図」「食後」「壷」「楊貴妃」等を発表、昭和25年には文化勲章を授けられている。27年東京芸術大学教授を辞任したが、病気のため、翌年第37回院展へ「菖蒲」を最後として院展への出品はなく、小品を清光会その他へ出すにとどまつていた。30年湯河原に静養し小康を得たが、31年慶応病院に入院、32年4月3日惜しくも永眠した。4月9日、日本美術院によつて院葬が行われた。略年譜明治16年 2月11日新潟市に生れる。明治19年 母死去。明治25年 兄死去。明治26年 父死去。明治32年 山中古洞の勧めにより梶田半古の門に入る。日本美術院、日本絵画協会第7回共進会展に初めて「村上義光」を出品(以下絵画共進会と略す)。明治33年 第8回絵画共進会展「竹生島」3等褒状。同第9回展「一ノ谷」1等褒状。明治34年 第10回絵画共進会展「春霞」2等褒状。絵画共進会第11回展「敦盛」褒状1等。明治35年 第12回絵画共進会展「女三宮」1等褒状。絵画共進会第13回展「妙音」2等褒状。明治36年 第14回絵画共進会展「紅白」。第5回内国勧業博覧会展「大真王夫人」。明治38年 日本美術院二十日会11月例会に「盲目」を出品、3等賞となる。明治39年 日本美術院展「朝」。巽画会研究会で3等賞をうける。この頃安田靱彦と知る。明治40年 巽画会の会員となる。本郷、清水方に住む。東京勧業博覧会「神埼の窟」褒状。第1回文展「闘草」。明治41年 紅児会に入る。奈良京都に旅行。明治42年 国画玉成会展「春」。明治43年 国画玉成会幹事となる。紅児会第11回展「陽炎」。紅児会第12回展「緑」「椿」。紅児会第13回展「極楽井」。明治44年 紅児会第14回展「重盛」「伶人」、紅児会第15回展、「伊勢物語」、紅児会第16回展「踏絵」外2点。大正元年 三好ます子と結婚。第6回文展「極楽井」褒状。紅児会第17回展「説法」「伊蘇普」、紅児会第18回展「蛍」「山水」。大正2年 紅児会第19回展「きりすと」「住吉」(紅児会はこの年解散)。大正3年 日本美術院同人に推される。再興第1回日本美術院展「異端」秋、巽画会の審査員に推されるも辞退する。大正4年 府下入新井に転居。京都、宇治方面に旅行、琅★洞展「厳島」。琅★洞主催、物語に寄する展覧会「今昔物語於但馬鷲★取若子図」。第2回院展「阿弥陀堂」。文展院展画稿展「阿弥陀堂下絵」。誠和会展「麦の秋」。大正5年 前田青邨と関西に旅行。美術新報社より「賞美章」を贈られる。第1回木原会展「竹取物語」。大正6年 第4回院展「竹取物語」画巻。日本美術学院紀念展「芥川」。立太子礼奉祝文官献納画帖「毛利元就厳島神社に詣でて大志を語る」。大正7年 日本美術院評議員となる。琅★洞展「花」「柴舟」。日本美術院同人展「鷺」。第5回院展「いでゆ」。日本美術院展「修竹」「青梅」。大正8年 日本美術院同人展「木蓮」。第6回院展「麦」。日本美術学院展「枯野」。大正9年 馬込に画室新築。延暦寺より伝教大師絵伝「十講始立」委嘱され、青邨と叡山に赴き伝教大師絵伝の参考品をみる。琅★洞展「宮島の朝」。大正10年 第8回院展「罌栗」。大正11年 前田青邨とともに渡欧。琅★洞展「竹取」。日仏交換展「長生鳩」東京府より英太子への献納画帖「平安神宮」。大正12年 大英博物館で「女史箴図」模写。8月23日帰国。大正13年 中国地方旅行。第11回院展「犬と遊ぶ」。大正14年 病気入院。大正15年 伊豆、伊勢、奈良に旅行。聖徳太子奉讃展「洗濯場」。第13回院展「機織」。昭和2年 尚美堂展「秋日」。日本美術学院展「柘榴とかまきり」。昭和3年 御大典奉祝品として懸物御下命になる。尚美堂展「流」。琅★洞祝に因む展「月」。第15回院展「七面鳥と鶴」。奉祝文官献納画帖「麦」、奉祝文官献納画巻「伊勢大廟」。昭和4年 渡欧する大観を送り関西に旅行。尚美堂展「宇津山」「鳩」。美之国5周年記念展「百合」。第16回院展「琴」。昭和5年 8月、日本美術院経営者となる。第17回院展「清姫」長巻。第2回聖徳太子奉讃展「飛鴨」。第1回七弦会展「雪」「茄子」。昭和6年 第18回院展「髪」。尚美堂展「ぐみ」。七弦会展「芍薬」「竜胆」。昭和7年 速水御舟と奈良、京都地方に旅行。尚美堂展「鴨」。昭和8年 第20回院展「弥勒」。七弦会展「紫苑」第1回清光会展「椿」「犬」。尚美堂展「初冬」。昭和9年 第21回院展「孔雀」。七弦会展「犬と柘榴」「柿」。日本美術院試作展「鶉」。清光会展「牡丹」。尚美堂展「蘭」。昭和10年 帝国美術院改組され、帝国美術院会員となる。日本美術院試作展「梅」。七弦会展「猫と唐もろこし」。清光会展「罌栗」。昭和11年 第23回院展「紫苑紅蜀葵」。日本美術院同人展「芙蓉」。七弦会展「林檎」。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回文展の審査員を依嘱せらる。七弦会展「双鳩」。清光会展「三宝柑」「若鮎」。昭和13年 七弦会展「実と花」。清光会展「梅花」。ニューヨーク万国博に「花」出品。尚美堂展「冬」「霜」。昭和14年 第26回日本美術院展「唐もろこし」。七弦会展「赤絵二図」。清光会展「人形」。昭和15年 第27回院展「観音」。七弦会展「菓子」。清光会展「犬」。尚美堂展「紅梅」。紀元二六〇〇年奉祝展「不動」。昭和16年 日満美術展のため6月満州に渡り、10月帰京。七弦会展「むべ」。清光会展「瓶花」。昭和17年 満州国建国10周年慶祝展「鶴」。清光会展「百合」。院同人軍用機献納展「観音」。昭和18年 第30回院展「牛」。尚美堂展「百舌鳥」。清光会展「牛」。昭和19年 6月、東京美術学校教授となる。7月帝室技芸員となる。芸術院会員戦艦献納画展「馬郎婦」「不二」「栗」「紅梅」。芸術院会員陸軍献納画展「牡丹」2点。昭和20年 3月15日彫刻家笹村草家人の紹介で、山梨県北都留郡山口民蔵方に疎開、10月20日馬込に帰京。昭和21年 清光会展「猫」「ささげ」。昭和22年 七弦会展「童女」。清光会展「牡丹」「百合」朝日新聞社主催現代美術展「紫金城」他7点。五月会展「瓶華」。昭和23年 第33回院展「舞踊図」。清流会展「狗子」。清光会展「松風」。五月会展「菖蒲」。昭和24年 第34回院展「食後」。清流会展「木実」。清光会展「乗物」。五月会展「草花」。尚美堂展「秋海棠」。昭和25年 11月文化勲章を授与される。第35回院展「壷」。清光会展「唐俑」。清流会展「鉢」。尚美堂展「柳陰」。日本美術院同人展「井筒」。昭和26年 10月、東京芸術大学美術学部の教授を辞任。第36回院展「楊貴妃」。清光会展「丘」。清流会展「草花」。五月会展「牡丹」。尚美堂展「椿」。昭和27年 4月、生誕70年を祝い、画業50年の記念展を日本橋三越で開催、又同時に、「古径、靱彦、青邨三人展」が銀座松坂屋で開かれた。第37回院展「菖蒲」。壷中居展「椿」。昭和28年 壷中居展「鉢花」。連盟展「ホホズキ」。昭和29年 清光会展「草花」。昭和30年 7月初旬より9月中旬迄湯河原で静養する。昭和31年 3月、病気治療のため、慶応病院に入院する。昭和32年 パーキンソン氏病並びに脳軟化症のため4月3日逝去。4月9日、日本美術院に於て院葬執行せられ、同日従3位勲2等旭日章を授与された。

三木翠山

没年月日:1957/03/25

日本画家三木翠山、本名斎一郎は3月25日胃潰瘍のため京都市東山区の自宅で逝去した。享年75歳。明治20年7月15日兵庫県に生れた。明治36年上京し竹内栖鳳に師事。第7回文展に「朝顔」が初入選となり、引続き毎年入選をつづけ、帝展でも入選5回、昭和7年第13回帝展以来無鑑査待遇となつた。美人、風俗画を専門とする。外遊は中国の他、昭和27年春渡米、28年帰国している。滞米中美人画の個展を開き、またメトロポロタン・ミュウジアムから終生名誉会員の称を贈られていた。作品略年譜大正2年 第7回文展「朝顔」初入選。大正3年 第8回文展「青柿の檐(ノキ)」。大正10年 第3回帝展「汐沈む女」。昭和2年 秩父宮家御用画「朝の清見瀉」。第8回帝展「千姫」。昭和4年 第10回帝展「木蔭」。聖徳太子奉賛展「旅の宿」。高松宮家御用画「春乃野」。昭和5年 仏蘭西美術展「雪の道」。久迩宮家御用画「愛鳥」(杉戸)。昭和7年 第13回帝展「嫁ぐ姉」。昭和8年 第14回帝展「順風」。昭和9年 第15回帝展「雪の晨」。昭和14年 第3回文展「これにも月の入りたるや」。昭和15年 聖徳太子奉賛展「維新の花」。昭和17年 第5回文展「元禄快挙」。昭和18年 第6回文展「巴御前」。

結城素明

没年月日:1957/03/24

日本画家、日本芸術院会員結城素明は、3月24日狭心症のため東京都文京区の自宅で逝去した。82歳。明治8年12月10日東京市本所区に生れた。本名貞松。同24年川端玉章の天真画塾に入り、翌25年東京美術学校日本画科に入学、同30年卒業した。同年同校西洋画科に再入学したが、同33年中途退学した。この年、福井江亭、平福百穂などと共に、院展派の理想主義に対して自然主義を標榜して、旡声会を創立し、この年3月に第1回展を開催した。その後、はじめのうちは春秋2回開いたのが、明治37年頃からは断続的に開かれ、大正2年に及んでいる。第5回展の「散花」は、この時代の代表的なものである。明治40年東京勧業博覧会に「蝦蟇仙人」を出品して3等賞を受けた。官展には第1回文展から出品し、第5回文展の「囀」、第6回展の「甲ふたる馬」は共に褒状を受けた。さらに、大正2年第7回文展の「相思樹下把金糸図」によつて2等賞をかち得、その後も受賞した。大正8年帝展審査員となり、同14年には帝国美術院会員に推され、昭和12年帝国芸術院会員となつた。帝展や日展にも、ほとんど毎回出品し、第1回帝展の「朝霽・薄暮」、第2回帝展の「薄光」、第10回帝展の「嶺頭白雲」、第13回帝展の「炭窯」などが主なものである。この間、大正5年には鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘などと金鈴社をおこし、翌6年から、大正11年まで毎年展覧会を開いた。また昭和12年には川崎小虎、青木大乗と大日美術院を創立し、公募展を開いた。 彼は明治35年母校日本画科の授業を嘱託され、同37年助教授に任ぜられ、大正2年には教授に進んだ。その後、昭和19年に至るまで、長い間後進の指導にあたつた。その功によつて翌20年東京美術学校名誉教授の名称を受けた。彼の指導を受けたものは、現画壇で第一線に活躍している人が多い。彼ははじめ写生的な画風に西洋画をとり入れたが、次いで装飾的な画風にうつつた。さらに中期以後は、西洋画的な写実に濃彩を施した独特の作風をきずいた。 文筆にも長じ、その著者に「東京美術家墓所誌」「文芸家墓所誌」「伊豆の長八」「行誠上人遺墨集」「菊池容斎」「勤皇画家佐藤正持」などがある。略年譜明治8年 東京本所に生る。明治24年 川端玉章の天真画塾に入門。明治25年 東京美術学校日本画科に入学。明治30年 東京美術学校日本画科卒業、9月東京美術学校西洋画科に再入学。明治33年 福井江亭、平福百穂等と共に旡声会を興す。明治35年 東京美術学校嘱託に就任、「落花」(旡声会展)。明治37年 東京美術学校助教授に就任。明治40年 第1回文展「無花果」、東京勧業博覧会「蝦蟇仙人」3等賞。明治44年 第5回文展「囀」。大正元年 第6回文展「甲ふたる馬」。大正2年 東京美術学校教授に就任。第7回文展「相思樹下把金糸図」2等賞。大正3年 第8回文展「箇是劉家黒牡丹」。大正5年 第10回文展「歌神」特選。鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘等と金鈴社を興す。大正6年 第11回文展「八千草」特選。2月・第1回金鈴社展「島影」「尾張の海」「斜陽」他。11月・第2回金鈴社展「紫蘇」「桐の花」。大正7年 第12回文展「夏山三趣」推選。第3回金鈴社展「秋の草」。大正8年 第1回帝展に初の審査員に挙げられる。第1回帝展「朝霽」「薄暮」。第4回金鈴社展「翠渓微雨」「港湾初夏」。大正9年 第2回帝展「薄光」。第5回金鈴社展「松島十景」「新芽の頃」。大正10年 第6回金鈴社展「麦」「雨後」「苺」「紫陽花」。大正11年 第4回帝展「詩経図」。第7回金鈴社展「二南訓女図」。6月金鈴社解散す。大正12年 渡欧。大正13年 白耳義美術展「花鳥」。大正14年 欧州より帰朝。第1回東台邦画会展「湖」。帝国美術院会員に任命される。昭和元年 巴里展「木苺」。昭和2年 第8回帝展「山銜夕暉」、第2回東台邦画会展「寒山凍雲」。昭和3年 第9回帝展「白河渡頭」、中国に渡る。昭和4年 第10回帝展「嶺頭白雲」。昭和5年 聖徳太子奉讃会展「おほましこ」。伊太利展「朝顔」「木槿」「杉戸鶏図」。昭和6年 第12回帝展「昼の月」、米国トレード展「唐棣韈雀」「紫珠花鶏」。昭和8年 第14回帝展「斜陽」。昭和9年 第15回帝展「炭窯」。昭和10年 明治神宮絵画館「江戸開城談判」。昭和11年 改組帝展「梅渓」。第1回文展「谿光」。昭和12年 帝国美術院改組、帝国芸術院会員となる。大日美術院創立。昭和13年 第2回大日展「伐木」。昭和14年 第3回大日展「桜咲く国」。昭和15年 奉祝紀元二六〇〇年記念展「国史と花卉画屏風」。昭和16年 第4回文展「馬の湯」。昭和17年 第5回文展「建設へ」。昭和18年 「立葵・紅蜀葵」。昭和19年 東京美術学校教授を退任。第7回文展「那須山」。昭和20年 東京美術学校名誉教授となる。昭和21年 帝国芸術院は日本芸術院と改称。第1回日展「木槿花」。第2回日展「爽風」。昭和23年 第1回白寿会展「山と海」。昭和24年 第5回日展「迦楼羅」。第2回白寿会展「風神雷神」。昭和25年 第6回日展「大聖観喜天」。第3回白寿会展「空也上人」。昭和26年 第7回日展「早い秋の山」。日本美術協会展「(本生譚)鷹と鳩」。昭和27年 第8回日展「爽籟」。第5回白寿会展「緑池」。昭和28年 第9回日展「白雲」。第6回白寿会展「峻嶺朝霽」。昭和29年 第10回日展「朝雲」。第7回白寿会展「水光」。昭和30年 第11回日展「夏木」、第8回白寿会展「湖」。昭和31年 米国オークランド市日本文化百年展「水墨花鳥」。第12回日展「ポポー果」。第9回白寿会展「遠山重畳」。昭和32年 五都展「清波」。3月24日逝去。享年82歳。3月27日東京芝増上寺において葬儀を執行した。

長谷川三郎

没年月日:1957/03/11

洋画家、自由美術家協会々員長谷川三郎は、3月11日サンフランシスコに於いて上顎癌のため客死した。51歳。明治39年9月6日山口県に生れた。甲南高等学校を経て東京帝国大学文学部美学美術史科に学び、昭和4年卒業した。この間、大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重に師事した。昭和4年から同7年にわたつてアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペインに遊学した。滞仏中、昭和5年サロン・ドオトンヌに入選した。同7年帰国、二科会展に出品入選した。同9年新時代洋画展を興して展覧会を開き、また個展を催して作品を発表した。同12年、村井正誠、山口薫、矢橋六郎、浜口陽三等と自由美術家協会を結成し、わが国における抽象主義絵画の発展に尽瘁した。第二次大戦の戦中、戦後しばらくの間滋賀県長浜に疎開していたが、昭和25年藤沢市に移り、画業及び著作活動に従事するとともに、イサム・ノグチ等と親交を結び、わが国の前衛美術の海外紹介につとめた。同28年アメリカに渡り、ニューヨークにおいて個展を開き、また日米抽象絵画展、国際版画展等に作品を発表した。一度帰国したが、再び渡米、オークランドのカリフォルニア美術大学California College of Arts and Craft.サンフランシスコのアメリカ東洋文化研究所 American Academy of Asian Studies で東洋美術あるいは禅を講義していた。彼は抽象的な作風に終始したが、近年は書や禅の精神をとり入れ、拓本などを応用した作品を発表した。代表的な作品には、「泳ぎ」(昭和8年、二科展)、「蝶の軌跡」(同年12年、自由美術展)「湖のほとりにて」(同24年、自由美術展)「月光曲」(同25年、毎日連合展)「交響詩、晴日」(同26年自由美術展出品、紐育ロックフェラー・コレクション蔵)などがある。また著作に「アブストラクト・アート」「モヂリアニ」(アトリヱ社)、「新しい絵を見る手引き」「新しい形の美」(美術出版社)、「モダーン・アート」(東京堂)などがある。

三宅凰白

没年月日:1957/02/26

日本画家三宅凰白、旧号呉月、本名清一は2月26日急性肺炎のため京都市中京区の自宅で逝去した。享年65歳。明治26年5月2日京都に生れた。大正4年京都市立絵画専門学校を卒業、大正15年以来山元春挙に師事した。大正7年第12回文展に初入選以来、文、帝展に出品を続け、昭和5年の第11回帝展で「花旦」が特選となつた。戦後は日展に出品依嘱者として作品を発表、第7回日展「薪能」などがある。昭和11年から24年まで京都市立絵画専門学校助教授、25年以後は光華女子大講師の教職にあつた。この間、昭和14年絵画専門学校より派遣されて中国美術を視察、また、師山元春挙没後はその塾早苗会幹事として、更に同会解散後は同志と耕人社を結成し理事をつとめていた。略年譜明治26年 5月2日京都に生れた。父は呉暁。大正4年 京都市立絵画専門学校卒業。大正7年 第12回文展「演習所見、斥候・行軍」(対幅)初入選。この頃呉月と号す。大正14年 第6回帝展「おはらめ」凰白と改号。大正15年 山元春挙に師事、早苗会々員となる。第7回帝展「錦繍装」。昭和5年 第11回帝展「花旦」特選、官展には殆ど毎年出品、入選となる。昭和9年 第15回帝展「浄心」。京都市展「秋林小景」京都市買上。昭和10年 京都市展「ゆく春」受賞。昭和11年 京都市立絵画専門学校助教授となる。昭和12年 第1回文展「雪合戦」この年から文展無鑑査待遇となる。昭和14年 北支、満州に約1カ月美術視察。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「楽土」。昭和16年 第4回文展「暮笛」。昭和18年 早苗会解散、耕人社創立、理事となる。昭和24年 京都市立絵画専門学校退職。昭和25年 第6回日展「くさむら」出品依嘱、光華女子大学講師となる。昭和26年 第7回日展「薪能」出品依嘱。昭和32年 2月26日没。

岡部文(ふみ)之助

没年月日:1956/12/20

独立美術協会々員岡部文之助は、12月20日胸部疾患のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年47歳。明治42年4月16日札幌市に生れた。中学卒業ののち上京し、昭和3年東京美術学校図画師範科に入学、同6年卒業した。その後10年ほど山脇学園講師をつとめていたが、在学時代の昭和5年から林武に師事して、同5年二科展出品の「中野風景」は初入選となつた。昭和7年からは独立展に毎年作品を送り、15年独立美術協会賞、22年岡田賞を得て、翌年会員となつた。渋い色調で、風景を好んでかき、ことに北海道を描いた作品が多い。なお、殆ど毎年北海道で個展をひらいていた。作品略年譜昭和5年 第17回二科展「中野風景」。昭和7年 第2回独立展「東中野風景」「静物」。昭和15年 第10回独立展「稲こき」「草花」独立美術協会賞。紀元二六〇〇年奉祝展「サイロある風景」昭和18年 第13回独立展「収穫」「峠」。昭和19年 第14回独立展「木挽き」準会員となる。昭和22年 第15回独立展「野崎岬にて」「房州白浜」岡田賞。昭和23年 第16回独立展「牧車」他。会員となる。昭和25年 第18回独立展「牧場」他。昭和27年 第20回独立展「楡の木」「昭和新山」。昭和30年 第23回独立展「牧舎風景」「楡樹と穀倉」。昭和31年 第24回独立展「造船所」「網走港にて」。

井上安男

没年月日:1956/11/18

第二紀会々員井上安男は、11月18日名古屋市の自宅で逝去した。享年58歳。明治31年3月22日愛知県中島郡に生れた。大正6年愛知第一師範学校を卒業、同15年日本水彩画会々員となつた。二科会展にも出品し、昭和17年二科会々友に推されたが、19年同会は解散となつた。戦後、二科会の再建に加わらず、22年、二紀会の創立に会員として参加し、26年から審査委員に選ばれていた。作品は風景画が多い。第二紀会展出品作品昭和23年 「大正池の朝」「白樺」。昭和24年 「縞鯛」「初秋の志賀高原」。昭和25年 「尾道風景」「瀬戸内海」。昭和26年 「競輪場」「裸婦」「庭先の裸婦」。昭和27年 「キャンプ村」「乗鞍の大雪渓」。昭和28年 「庭先の裸婦」「寝覚の床」「毛皮の裸婦」。昭和29年 「滝と渓流」「海浜の松林」「南伊豆風景」。昭和30年 「伊良湖海景」「樹間の太陽」「岬端風景」。昭和31年 「岬端斜陽」「赤目渓流」。

吉川清

没年月日:1956/10/30

独立美術協会々員吉川清は、10月30日脳出血で藤沢市の自宅真徳寺に於て逝去した。享年53歳。本名喜善。明治36年6月18日群馬県に生れた。時宗々学院に学び、大正14年東洋大学を卒業した。その間、川端画学校にも学び、数年は宗教、文学、絵画の間を彷徨した。昭和10年頃から絵画に専心し、11年青年美術家集団展に「花」を出品した。翌12年から17年まで春陽会に、18年以後は独立美術協会の展覧会に出品して、28年同会々員となつた。昭和5年以来、藤沢市遊行寺の真徳寺住職をつとめ、作品も殆ど宗教画に限られていたといつていい。時宗の研究家で「一遍上人」の著述もある。作品略年譜昭和11年 青年美術家集団展「花」。昭和12年 春陽会展「婦人像」「黒衣」。昭和15年 春陽会展「不動明王」「孔雀明王」他。紀元二六〇〇年奉祝展「達磨」。昭和18年 第13回独立展「稚児文殊」。再び宗教に思いをめぐらし一遍上人の研究に着手。昭和19年 第14回独立展「馬頭観音像」。伝記「一遍上人」(協栄出版社)、「遊行一遍上人」(紙硯社)出版。昭和22年 第15回独立展「婦人像」。新興美術院展「山越阿弥陀」 「伝記一遍上人伝」(福地書店)出版。昭和23年 第16回独立展「まんだら」。毎日新聞社主催連合展「婦人像」。昭和24年 第17回独立展「釈迦三尊」「涅槃」独立美術協会賞。昭和26年 第19回独立展「鳥のいる涅槃像」「十三仏」。準会員となる。昭和28年 第21回独立展「来迎」「再誕」。会員となる。昭和30年 第23回独立展「苦行の釈迦」「魔笛」「虎を殺したラマ」。

馬場不二

没年月日:1956/10/09

日本美術院同人馬場不二は、10月9日肺臓癌のため国立第二病院に於て逝去した。享年50歳。自宅目黒区。本名和夫、明治39年3月1日香川県高松市で生れた。大正12年香川県立高松工芸学校卒業後、東京美術学校日本画科に学び、昭和3年卒業した。日本画の革新を志し、昭和9年創立の明朗美術連盟に加わり、また歴程美術協会にも一時参加したが、郷倉千靭の門に入つてからは、日本美術院展を目ざして研鑽をつづけた。院展には昭和23年第33回展に「朝顔」が入選し、27年院友、29年第39回展で「梅樹」が日本美術院賞・大観賞となり、無鑑査待遇をうけた。さらに翌年「冠鶴」、31年「松」を出品、いづれも日本美術院賞・大観賞を受賞し、31年、院展開催中に同人に推挙された。また、29年には美術協会展で受賞するなど、近年とみに充実した制作をみせ、清原斉とともに日本美術院の新同人として期待されていたところであつた。作品略年譜昭和23年 第33回院展「朝顔」。昭和24年 第34回院展「朝顔」。昭和27年 第37回院展「芍薬」。昭和28年 第38回院展「後庭一隅」佳作・白寿賞。昭和29年 第39回院展「梅樹」日本美術院賞・大観賞。日本美術協会展「後庭」協会賞。昭和30年 第40回院展「冠鶴」日本美術院賞・大観賞。昭和31年 第41回院展「松」日本美術院賞・大観賞。同人に推挙される。

清原斉(ひとし)

没年月日:1956/09/14

日本美術院同人清原斉は、9月14日聖母病院で腸閉塞のため逝去した。享年59歳。自宅東京都練馬区。明治29年9月26日茨城県竜ヶ崎市で生れた。日本画を松本楓湖、堅山南風に、文章や詩を北原白秋、鈴木三重吉に学んだ。大正12年頃から作歌活動に入り、鈴木三重吉の「赤い鳥」同人、或は昭和5年、白秋主宰「多麿」歌誌会員となり作歌、歌評、随筆を発表していた。挿絵、童画も昭和3年頃から「面白倶楽部」「幼年の国」などに筆をとつている。昭和5年、日本美術院第17回展に「苺」が初入選となつてから、日本画の制作に力をいれ、院展に出品をつづけた。昭和22年、第32回院展で無鑑査の資格を得、27年奨励賞、28年には「宴会」で白寿賞をうけた。更に29年出品の「出を待つ人々」、30年の、「宵」、31年の「アイヌ」で連続3年間、大観賞・日本美術院賞をうけ、31年、院展開催中同人に推挙された。作品略年譜昭和7年 第17回院展「苺」初入選。昭和14年 第3回文展「小松」。昭和15年 第27回院展「朝顔」院友に推される。昭和22年 第32回院展「霜の朝」。昭和23年 第33回院展「少女」。昭和24年 第34回院展「旅客」。昭和25年 第35回院展「霜晴」。昭和26年 第36回院展「抜頭」。「抜頭」舞楽図屏風一双薬師寺に寄贈。昭和27年 第37回院展「天狗舞」奨励賞。昭和28年 第38回院展「宴会」白寿賞。昭和29年 第39回院展「出を待つ人々」日本美術院賞・大観賞。昭和30年 第40回院展「宵」日本美術院賞・大観賞。昭和31年 第41回院展「アイヌ」日本美術院賞・大観賞。同人に推挙される。

松久休光

没年月日:1956/08/06

読画会々員松久休光は、8月6日世田谷区の自宅で逝去した。享年57歳。本名茂。明治32年2月8日東京で生れた。明治43年以来荒木十畝に師事し、昭和3年帝国美術院第9回展に「池畔」が初入選となつた。帝展、新文展とも毎年入選し、昭和18年第6回文展出品の「翠繍」は特選となつた。終戦後は日展に第4回展から没年迄出品していた。荒木十畝門下を主体とする読画会委員でもあり、読画会展ならびに同展改名後の一新社展にも出品、伝統的花鳥画の研究をつづけていた。作品は前記のほか、「秋韻」(昭和11年文展)、「水禽」(昭和13年)、「鹿苑」(昭和14年)、「しじま」(昭和17年)、「双牛図」(昭和15年奉祝展)、「松林」(昭和26年日展)などがある。

福田恵一

没年月日:1956/06/20

日本画家福田恵一は、6月20日、胃癌のため逝去した。享年61歳。自宅京都市左京区。明治28年広島県福山市に生れた。大正6年東京美術学校図画師範科を卒業し、中学や陸軍幼年学校の教員生活をしばらく続けていたが、昭和のはじめ西山画塾青甲社に入り、翠嶂に師事してから一層制作に専念した。作品は、大正13年第5回帝展に「薄れゆく斜陽に暮る」が初めて入選、翌年第6回展には「豊公」(三幅対)、「使命」を出品、前者は特選となつた。つづいて第9回展「文覚」、第10展「重盛」で連続特選をとり、以後無鑑査の待遇をうけ、第15回展では審査員をつとめた。昭和18年第6回文展「御楯」、19年戦時特別文展「信長上洛」、戦後の日展では第二回展「露路の秋」、第4回展「淀の方茶々姫」などの出品作がある。晩年まで、歴史、人物を専門とし、日展出品依嘱者に選ばれていたが、近年は殆ど出品しなかつた。

岩淵芳華

没年月日:1956/06/06

元日展審査員、日展出品依嘱者岩淵芳華は、6月6日世田谷区の自宅で逝去した。享年55歳。本名完。明治34年2月9日新潟市に生れ、大正4年新潟中学中退後、姻戚関係にあつた松本楓湖塾に学んだ。その間、巽画会で賞をうけたこともある。楓湖没後、昭和元年から蒙古、済南、北京、天津を外遊し、4年3月帰京、翌5年蔦谷龍岬のもとに入門した。然し約1年ほどで辞し、小茂田青樹の紹介で同6年12月、山口蓬春の門に入つた。以来官展に出品し、18年第6回文展の「協和」で特選、戦後の第3回日展出品の「晩帰」で再び特選をとり、26年以後は日展出品依嘱者となつた。又審査員をつとめたこともある。日展のほか青衿会にも出品している。花鳥風景にも筆をとつたが、人物を主にした作品が多い。略年譜明治34年2月9日、新潟市に生れる。大正4年 新潟中学中退後、松本楓湖塾に学ぶ。昭和元年 中蒙古、済南等に外遊。昭和4年 3月帰京。昭和5年 蔦谷龍岬に学ぶ。昭和6年 山口蓬春に学ぶ。昭和7年 第13回帝展に「少女競射」初入選。昭和9年 第15回帝展「共同洗濯場」。昭和11年 改組第1回帝展「佳日」。10月文展鑑査展「帰漁を待つ」。昭和16年 第4回文展「小車」。昭和18年 第6回文展「草原楽土」特選。昭和19年 戦時特別文展「協和」。昭和22年 第3回日展「晩帰」特選。昭和23年 第4回日展「水浜」。昭和24年 第5回日展「水沫」。昭和25年 第6回日展「姉妹」。日本美術協会展「紅衣」第1回高松宮総裁賞。昭和26年 第7回日展「水辺」〔招待〕。昭和27年 第8回日展「採集」。昭和28年 第9回日展「河畔」。日展審査員となる。昭和29年 第10回日展「春の海」。昭和30年 第11回日展「牧場」。昭和31年 6月6日没。

坂田一男

没年月日:1956/05/28

洋画家坂田一男は、5月28日玉島市の自宅で逝去した。享年66歳。明治22年8月22日、岡山医学専門学校教授坂田快太郎の長男として岡山市に生れた。大正3年上京、本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事し、同5年、更に川端画学校に入り藤島武二に学んだ。大正10年渡仏、オットン・フリエスと交友、のちフェルナン・レジェの研究所に入り研究所の助手となつた。作品は、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイルリイなどに出品、立体派から次第に抽象的傾向に移行した。日本人では、抽象絵画の先駆をなした画家であつたが、昭和8年11月帰国ののちは、中央画壇との接触少く、郷里岡山県に居住し作品発表も稀であつた。同地では、18年に火虹会、24年に岡山アヴァン・ギャルドA・G・Oを設立、主宰していた。郷里の度々の水害で作品の殆ど大半を損失してしまつたが、没後、昭和32年4月、東京ブリヂストン美術館で遺作50余点の展観が行われた。

中筋幹彦

没年月日:1956/02/24

自由美術家協会々員中筋幹彦は、2月24日胃癌のため逝去した。享年30歳、自宅、東京都世田谷区。大正14年8月14日大阪府南河内郡に生れた。昭和19年松江高校を経て東大に学んだが、21年中退して画生活に入つた。27日新樹会展に出品、また最初の個展を開いた。その後毎年1回個展による制作発表をつづけ、30年、第4回展を行つた。森芳雄に教えられるところ多く、30年には自由美術家協会の会員として迎えられたが、第19回展に、静物2点を出品したのが最後となつた。31年5月、サエグサ画廊で遺作10余点が陳列された。

吉岡憲

没年月日:1956/01/15

独立美術協会々員吉岡憲は、1月15日夜、中野区の踏切で国電に触れ死去した。自殺ともいわれるが明らかでない。享年40歳。本名佑晴。大正4年3月25日東京に生れた。川端画学校に学んだのち満州に渡り、さらに聖ウラヂミール専門学校に学んだ。ハルピンに約7年滞在、昭和15年帰国した。帰国後は独立展に出品し、18年第13回展では「母子」で独立美術協会賞をうけたが、戦線の急迫とともに、ジャワ方面に従軍し、同地で住民の文化指導にも従事していた。現在のジャワ美術学校創設の基礎は、当時の彼の努力によるところが大きかつたといわれる。22年独立美術協会準会員、23年会員となつた。戦後は独立美術協会の中堅として同展で活躍するほか、日本国際美術展、アンデパンダン展にも作品を発表していた。

安井曽太郎

没年月日:1955/12/14

日本芸術院会員、帝室技芸員、一水会委員、日本美術家連盟会長などの要職にあつた洋画壇の巨匠安井曽太郎は、12月初めから神奈川県湯河原の自宅で肺炎療養中同14日心臓麻痺のため逝去した。享年67歳。明治21年5月17日京都市に生れ、若くして平清水亮太郎に洋画の初歩を学び、同37年浅井忠の研究所に入り、のち関西美術院に移つて浅井、鹿子木孟郎の指導を受けた。同40年渡仏、アカデミイ・ジュリアンに入つてジャン・ポール・ローランスの薫陶を受け、素描コンクールにおいて屡々首席を占めた。滞仏中ミレー、ピサロの感化を受け、更にセザンヌに傾倒し、またイタリア、スペインに遊んでイタリア・ルネッサンス彫刻或いはグレコの芸術に惹かれた。大正3年帰国し、同4年二科会第2回展覧会に滞欧作品44点を特別陳列して識者の注目を集め、二科会々員に推挙された。その後、毎歳二科会に発表、ドラン、ボナール等の感化を示しながら遂に昭和5、6年頃に至つて肖像画或いは静物画、風景画に自己の様式をきずき、いくつかの名作を描いた。昭和10年帝国美術院会員に任命されると共に二科会々員を辞し、同11年同志と一水会を創立してその会員となつた。同12年帝国芸術院の創設に際し芸術院会員を仰付けられた。なお此の年門下生たちによつて連袖会が結成された。この頃満洲、朝鮮に遊んで熱河、京城などの風景画を製作し、以後2、3年の間しきりに上高地風景を描いた。昭和19年梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、同校が芸術大学となつて後まで熱意をもつて後進を指導した。昭和18、9年には北京に赴き、風景、肖像画を描いた。昭和23年以来湯河原に移り、病身をいたわりながら製作をつづけ、多くの人物画や静物、風景を描き、明快な色調と平明な描写に線描を加え、独自の画境を示しつつあつた。同24年日本美術家連盟の創立とともにその会長に推され、終生同連盟の発展につくした。同27年多年の功労によつて文化勲章を受けた。以上のほか、国立近代美術館評議員、神奈川県立近代美術館運営委員であつた。 安井は、大正初年以来終始梅原竜三郎と並び称せられた。滞欧作以来絶えず発展を示したその芸術は、わが近代洋画の中軸をなしたが、その作風は写実精神に貫ぬかれている。昭和10年前後のいくつかの作品は、わが洋画史上記念碑的な作品として後世に遣るであろう。略年譜明治21年 5月17日、京都市中京区、木綿問屋を営む安井元七の五男として生る。母よね。明治27年 4月、京都市生祥尋常小学校に入学。明治31年 4月、卒業、京都市立商業学校に入学す。明治36年 4月、洋画家を志して同校本科1年修了後中途退学し、それより同校の図画教師平清水亮太郎につき鉛筆、水彩画を学ぶ。明治37年 夏、浅井忠の研究所に入り、浅井忠、鹿子木孟郎の指導を受く。明治39年 3月、関西美術院創立され、同院に移る。明治40年 4月末、津田青楓と同行渡仏、6月パリのアカデミイ・ジュリアンに入学し、ジャン・ポール・ローランスに師事す。リュ・ドゥ・テアートルに住み、12月パリ郊外ヴィトリーに移住。明治41年 夏、津田青楓と共にグレに遊びグレ風景を描く。明治42年 6月、津田青楓と共にフロモンビール村に、7月、更に藤川勇造を加えた3人でオーヴェルニュ・ビルロング村に遊ぶ。作品に「田舎の寺」等あり。明治43年 リュ・ドウ・シュル・シュミディのアパートに移り、夏再度ビルロング村に遊ぶ。その後、アカデミイ・ジュリアンのジャン・ポール・ローランス教室を去り、自由研究に入つてリュ・ドゥ・ヴォージラルにアトリエを持つ。作品「林檎」「パンと肉」「藁屋の庭」等。明治44年 夏、ブルターニュに赴き、秋再びビルロング村に遊ぶ。作品「垣」「村の道」「曇り日」「春の家」等。大正元年 5月、福見尚文と共にヴェトイユに製作旅行し、夏イギリス、オランダ、ベルギーを回遊、また秋には長谷川昇、沢部清五郎とスペインに見学旅行す。作品「青き壷」「少女」「肖像」「巴里の縁日」等。大正2年 秋、小川千甕と共にイタリアに見学旅行す。作品「足を洗ふ女」「黒き髪の女」「赤き屋根」等。大正3年 リュ・ドゥ・バルイエールのアトリエに移る。更にリュ・ドゥ・ババンのアトリエに転居せるも、この頃より健康を害す。8月第一次世界大戦勃発と病のため留学中の主要作品45点を携えてロンドンに逃れ、初秋ロンドン発帰国す。11月、京都の自宅に帰る。作品「孔雀と女」「下宿の人々」等。大正4年 冬、紀州湯崎温泉に避寒、夏但馬の竹野梅岸に避著し、専ら健康の回復につとめる一方、10月第2回二科会展に滞欧作品44点を特別出陳し、二科会々員に推挙さる。なおこの年鹿木孟郎の後任として関西美術院に教鞭をとる。大正5年 冬、熱海伊豆山に静養、健康回復し、5月豊島区に居を定む。「ダリヤ」「丘の道」「女」「芽出し頃」「林檎」を第3回二科展に出品。大正6年 7月6日水野はまと結塘。「肖像」「女」「グロキシニヤ」「少女」(公開を禁ぜられ撤去)を第4回二科展に出品す。大正7年 「孟宗薮」「静物」「早春」「支那服を着たる女」「梅林」「林檎と密柑」「少女」(公開禁止撤去)を第5回二科展出品。大正8年 「樹蔭」「ダリヤ」「春」を第6回二科展に出品。大正9年 秋、2ケ月程比叡山麓に滞在製作す。「薔薇」「化粧」「静物」を第7回二科展に出品。大正10年 「人物」「静物」を第8回二科展に出品。大正11年 平和記念東京博覧会洋画部審査員となる。「椅子による女」を第9回二科展に出品。大正12年 6月9日長男慶一郎出生。震災後しばらく京都に滞在す。大正13年 「黒き髪の女」「裸女」「桐の木」「女立像」「風景」「京都郊外」「薔薇」「素焼壷の薔薇」「新緑」「ダリヤ」を第11回二科展に出品。大正14年 9月京都画箋堂に於いて個展。「柿実る頃」「薔薇」「裸女」「秋の村」を第12回二科展に出品。昭和元年 燕巣会創立され、その同人となり、第1回展に「松林」「ダリヤ」「画室」「京都郊外」を出品。昭和2年 「ダリヤ」「モデル」を第2回燕巣会展に出品、「ダリヤ」「林檎と莓」「初夏」「薔薇」「桐の花咲く庭」を第14回二科展に出品。昭和3年 春、奈良に滞在製作す。「静物」「早春」を第3回燕巣会展に出品、「菊」「桃」「花と少女」「小菊」を第15回二科展に出品。昭和4年 熱海に製作旅行す。「樹間の海」を第4回燕巣会展に出品。「熱海附近(一)」「熱海附近(二)」「座像」を第16回二科展に出品。昭和5年 「婦人像」「芍薬」を第17回二科展に出品。昭和6年 外房太海にて風景画を製作。「ポーズせるモデル」「外房風景」「薔薇」を第18回二科展に出品。昭和7年 国立公園協会の依嘱を受け、7月十和田湖奥入瀬に旅し、風景画の連作をなす。「薔薇」を第19回二科展に出品。昭和8年 4月清光会創立され、その同人となつて毎回出品す。「湖畔の道」「雉子」を第1回清光会展に出品。「奥入瀬の渓流」「風吹く湖畔」「モデル」を第20回二科展に出品。昭和9年 3月末犬吠岬へ旅し、秋十和田湖奥入瀬に再遊す。12月東京都新宿区に自宅、アトリエを新築転居す。「裸女」「薔薇」を第2回清光会展に出品。「金蓉」「T先生の像」を第21回二科展に出品。昭和10年 3月末鵜原に旅行し、「鵜原風景」を製作。6月帝国美術院会員を仰付けられ、二科会会員を辞す。秋、裏磐梯に旅行し製作す。「少女」「風景」を第3回清光会展に出品、「果物」「紅葉する黄櫨」「松と睡蓮」を藤島武二、梅原龍三郎、安井曽太郎新作洋画展に出品す。「三宝柑」を現代10大家洋画展出品。昭和11年 春、仙台に赴き「本多先生の像」を描き、5月朝鮮美術展審査のため、朝鮮に旅行す。12月同志と一水会を結成し、逝去まで同会に属して委員をつとむ。「女児」を第3回現代10大家洋画展に出品、「菊」を青樹社洋画展に出品。昭和12年 4月満州国美術展審査のため藤島武二と共に新京に赴き、帰途熱河承徳にて製作、7月帰国す。6月官制改正により帝国美術院は帝国芸術院と改められ、帝国芸術院会員を仰付けらる。この年門下生等により連袖会組織さる。「少女像」「ばら」を第4回清光会展に出品、「深井英五像」「承徳喇嘛廟」を第1回一水会展に出品。昭和13年 7月末より3ケ月間上高地に滞在、風景画を連作す。「薔薇」「京城府」を第5回清光会展に出品、「薔薇」を第1回連袖会展に出品。昭和14年 「白樺と焼岳」「薔薇」を第6回清光会展に出品、「福島夫人像」「霞沢岳」を第3回一水会展に出品。昭和15年 5月銀座三昧堂にて「安井曽太郎作肖像画観賞会」を開催、6月より10月中旬まで上高地に再遊す。「女と犬」を第7回清光会展に出品、「黒扇」を紀元二六〇〇年奉祝展、「菊」を第4回一水会展に出品。昭和16年 12月紀州白浜と瀞峡に遊び、太平洋戦争開戦に遇う。「果物」を第8回清光会展、「焼岳」「池と穂高」第5回一水会展に出品。昭和17年 痔疾手術、湯河原に静養して製作す。「読書」を第9回清光会展、「上高地晩秋図」を第6回一水会展、「鏡の前」を満洲国建国10週年慶祝展に出品。昭和18年 夏、野尻湖に遊び、秋展覧会審査のため北京に赴き、同地にて宇佐美寛爾の肖像を描く。「ばら」を第10回清光会展、「玉笛(崔承喜の像)」を第7回一水会展に出品。昭和19年 6月梅原龍三郎と共に東京美術学校教授に任ぜられ、7月帝室技芸員を命ぜらる。夏北京、北満に旅し、秋北京にて「宇佐美氏像」を描く。また華北交通依嘱の「連雲港の日の出」を描くため冬連雲港において製作。年来北京にて病む。「静物」を芸術院会員陸軍献納展に出品。昭和20年 3月帰京、直ちに埼玉県大里郡に疎開す。「藤山愛一郎氏像」製作。昭和21年 第1回日展審査員となる。秋、帯状疱疹により眼を病み出京、治療を受く。「安倍先生像」を第1回日展に、「桜」「栗」を第11回清光会展に、「T夫人の像」「大観先生像」を第8回一水会展に出品。昭和22年 11月埼玉から新宿の自宅に帰る。「紫禁城」「静物」第12回清光会展、「北京の図」「連雲の町(一)」「連雲の町(二)」第9回一水会展出品。昭和23年 2月静養のため湯河原、熱海に滞在、7月帰京す。眼病回復し「小坂氏像」製作。「上高地」「秋の明神岳」を第13回清光会展、「藤山氏像」を第2回美術団体連合展、「徳川氏像」を第10回一水会展に出品。昭和24年 初夏、神奈川県湯河原天野屋別荘(旧竹内栖鳳画室)に居を移す。なお5月銀座松坂屋において「安井・梅原自薦展」開催せられ、重要作品85点を陳列。6月日本美術家連盟創立せられると共に同連盟会長に推さる。「薔薇」を第14回清光会展に、「M子氏像」を第3回美術団体連合展に、「湯河原風景」「小坂氏像」を第11回一水会展に出品。昭和25年 雑誌文芸春秋の表紙絵を1月号より担当以後毎号執筆す。「櫟の若葉」を第15回清光会に、「小宮君像」「孫」「桃」「大内氏像」を第12回一水会展に出品。昭和26年 10月学制改革により東京芸術大学美術部教授に配置換え、11月神奈川県立近代美術館運営委員となる。「画室にて」を第13回一水会展に出品。昭和27年 3月自己の便宜により芸大教授を辞任、9月国立近代美術館評議員となり、11月梅原龍三郎と共に文化勲章を受領す。「楠の新芽」を第17回清光会展に、「黒卓の桃」を第1回日本国際美術展に、「来の宮風景」「立像」「天津桃」「腰かける裸女」を第14回一水会展に出品。昭和28年 5月酒田市本間美術館に「安井・梅原展」開催、10月神奈川県立近代美術館に「安井曽太郎自薦展」を開催。12月天野屋に静養中の大原総一郎の肖像に着手(未完)。「湯河原の若葉」を第18回清光会展に、「銀化せる鯛」を第2回日本国際美術展に、「腰かけのポーズ」「湯河原風景」を第15回一水会展に出品。昭和29年 2月国立近代美術館の「近代の肖像画」展に安井作の肖像画15点陳列さる。5月九州に飛行機旅行、坂本繁二郎に会う。8月神奈川県湯河原に自宅、アトリエを新築転居す。「櫟と楠」を第19回清光会展に、「桃」を第1回現代日本美術展に、「赤き橋の見える風景」を第16回一水会展に出品。昭和30年 2月渡辺忠雄の、7月河上弘一の肖像を描きはじむ。6月国立近代美術館の「巨匠の二十代」展に安井の作品31点陳列。11月市立神戸美術館の「安井曽太郎と前田青邨展」に安井の作品20点陳列さる。12月14日午後5時25分心臓麻痺のため逝去。12月18日東京築地本願寺に於て葬儀を執行。この年「安倍能成君像」を第3回日本国際美術展に出品、「葡萄とペルシヤ大皿」を七大家新作展に出品。なお日本美術家連盟主催年末連盟展出品のため製作中の「秋の城山」が絶筆となつた。

居串佳一

没年月日:1955/10/05

独立美術協会々員居串佳一は、10月5日北海道に於ける独立展開催のため同地旅行中急性肺炎のため札幌の宿舎で急逝した。旧姓水野。明治44年2月26日北海道網走に生れ、昭和6年網走中学枚を卒業した。同9年上京して画業に専心したが、その前同7年第2回独立展に「風景」「船着場」が初入選したのをはじめその後毎回入選し、同11年第6回展の「群」「海に生く」「氷上漁業」によつて海南賞を受け、翌年会友、同16年会員に推された。紀元二六〇〇年奉祝展に出品した「弓」はイタリア政府買上となつた。同19年千島に従軍したが、戦後北海道に疎開し、26年再び東京に居を定めて活躍していた。彼は、終始北海道の風物やアイヌの生活を主題とした写実的な作品を描いた。

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