本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松山省三

没年月日:1970/02/02

洋画家松山省三は、2月2日死去した。享年86歳。明治41年東京美術学校を卒業し、その後、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、藤島武二らに師事して、白馬会系統に属し、官展にも出品した。大正4年、院展洋画部が出来て以来ここにも出品した。また画業のかたわら、明治44年わが国喫茶店の草分けとして知られるカフェー・プランタンを開店し、当時文人墨客の集合所となった。なお俳優河原崎国太郎は長男にあたる。

高橋辰雄

没年月日:1970/01/25

春陽会々員高橋辰雄は1月27日逝去した。明治37年仙台市に生れ、中学卒後代用教員を暫らく務めたのち昭和の初め上京、山本鼎の研究所、次で春陽会洋画研究所に学び、昭和4年「代々木の一部」、6年「放水路風景」などが同展で入選、殊に戦後は仕事も順調で昭和23年春陽会々友、26年会員に推され、風景、静物・花を主とし、澄んだ色調の、温雅で詩情に富んだ作品をのこしている。

小泉繁

没年月日:1970/01/22

創元会委員小泉繁は、明治31年8月11日東京下谷に生れた。東京美術学校製版科、並びに同校師範科を中途退学、大正14年第6回帝展に出品入選、以後帝展、日展に随時出品、昭和27年第8回日展「画室」は特選となった。翌年無鑑査、更に出品依嘱者待遇をうけ、また創元会にも出品、同会委員であった。主な作品は「画室」のほか「椅子の上の静物」(50号・第12回日展出品)、「静物」(50号・第33回創元会展出品)など。又、日本山岳画協会々員として毎年同展に出品していた。

光安浩行

没年月日:1970/01/19

日展評議員、示現会常任委員、光安浩行(本名、弥市)は、1月19日胃ガンのため逝去した。享年79歳。明治24年1月福岡市に生れた。県立修猷館中学校卒業後太平洋画会研究所に入り、中村不折、岡精一の指導をうけ、大正時代は主に郷里福岡で画業につとめていた。大正13年結婚、翌年上京し、15年の第7回帝展に「静物」が初入選となった。その後は帝展、文展、また太平洋美術画会展に出品、戦後は日展と示現会に作品を発表して、昭和25年第6回日展で「明日」が特選となっている。なお、晩年近く、山林美術協会を結成して同展にも出品をつゞけていた。作風は写生をもととしながら単純化、装飾化に独自の特徴があり、明快でしかも重厚な色調の婦人像、風景を画いている。明治45年 太平洋画会研究所に入る大正9年 郷里福岡で画業に勤む大正13年 結婚、翌年上京、上海旅行、個展開催。大正15年 第7回帝展初入選「静物」(30号)昭和3年 第24回太平洋画会展出品「静物」(50号)昭和4年 太平洋美術学校教授を勤む昭和16年 文展無鑑査待遇をうける昭和20年 福岡市へ疎開昭和22年 示現会を同志と創立昭和25年 第6回日展「明日」(100号)特選昭和27年 日展依嘱作家となる昭和29年 5月、山林美術協会結成、翌年第1回展開く。昭和42年 日展評議員となる。昭和45年 1月19日没

甲田栄佑

没年月日:1970/01/17

重要無形文化財「精好仙台平」伝承者で織物研究家の甲田栄佑は、1月17日肝硬変のため仙台市東北大付属病院で死去した。67歳。明治35年宮城県に生れ、大正8年東京府立八王子織染工業、学校専門科を卒業、同年甲田機業場技術員として勤務した。仙台平の伝統技術を伝授され、同12年甲田機業場を経営、仙台平機業協同組合理事長、仙台織物協同組合理事長などを歴任、昭和31年精好仙台平(重要無形文化財)保持者として人間国宝に指定され、同43年紫綬褒章を受けた。

森本健二

没年月日:1970/01/12

第二紀会々員森本健二(旧姓吉沢)は大正2年9月6日奈良県生れ、奈良師範学校卒業ののち東京美術学校(現東京芸大)図画師範科に学び昭和16年卒業した。昭和22年第二紀会創立より同会に参加し鍋井克之に師事、昭和27年受賞、28年同人に推挙され、30年第二紀会委員に推挙された。抽象派の作家。大阪教育大学教授で、昭和32年には沖縄に文部省より美術教育指導者として派遣されている。

村田良策

没年月日:1970/01/11

東京芸大名誉教授村田良策は、1月11日脳出血のため神奈川県鎌倉市の自宅で逝去した。74歳。村田良策は、明治28年1月15日栃木県佐野市に生れた。大正8年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、昭和10年迄、法政大学、東洋大学の教授をつとめ、昭和8年~15年まで文部省社会教育局嘱託講師をした。昭和18年東京美術大学教授となり、同24年には東京美術学校長兼新制東京芸術大学美術学部長となった。同27年には、神奈川県立鎌倉近代美術館初代館長に就任、同37年東京芸術大学名誉教授となり定年退官した。同41~44年にわたり神奈川県立博物館初代館長をつとめた。同42年には文化勲章選考委員になり、同43年美学美術教育に尽くし、美術館の運営指導、美術界の発展に寄与した功績で勲三等旭日中授章を受けた。

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