本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





長谷川春子

没年月日:1967/05/07

国画会会員の女流洋画家長谷川春子は、5月7日午後、東京大田区の自宅で死去していることが発見され、死亡時刻は、7日午前2時頃と推定された。享年72才。長谷川春子は、明治28年(1895)2月28日、東京・日本橋に生まれ、双葉高等女学校を卒業。25才の時、長姉である作家の長谷川時雨のすすめで画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学び、ついで梅原龍三郎に洋画を学ぶ。昭和4年フランスに行き、同年末と翌年パリのザック画廊で個展を開く。昭和6年帰国し国画会展に出品、同7年会友となり、同12年会員制廃止同人制となる時、同人となる。以後、国画会展に出品を続けたが、満州事変、支那事変に際しては大阪毎日新聞社、改造社の特別通信員として前線に赴き、太平洋戦争時には、女流美術家奉公隊委員長となって活躍した。また、昭和10年、尾崎士郎の新聞小説「空想部落」の挿画を描き、随筆・漫筆もよくし、「戯画漫文」、「大ぶろしき」(講談社)、「恐妻塚縁起」(学風書院)、「ニッポンじじい愛すべし」などの著書がある。戦後は、あまり作品を発表せず、昭和32年からはライフワークとして「源氏物語絵巻」(54帖)の制作に没頭、同40年6月には「長谷川春子源氏物語絵巻展」を開催し、その後も描き加えて完成、福岡市の筥崎神宮に所蔵された。生涯を独身で過し、辛辣な毒舌家として知られていた。作品略年譜昭和6年6回国画会展「人物犬」「男の在る風景」「抱かれた猫」「笛吹き」、同7年7回展「人物構図」「樺色の服装」、同8年8回展「俳優の像」「花と娘」、同9年9回展「狩の構図」、同11年11回展「春夜興」「ヘレネとパリス」、同12年12回展「ヴヰナスの誕生」、同13年13回展「胡人胡歌」、同14年14回展「春のイタリア」、同15年15回展「南粤小婦」、同16年16回展「麗人」、同17年17回展「安南薫風」、同22年21回展「春風」、同23年22回展「古典春興」、同24年23回展「春雷」、同25年24回展「妖しい夢」、同26年25回展「花の幼」、同27年26回展「春爛漫」、同30年29回展「春の夢の海」、同32年31回展「趙飛燕のような人」、同36年35回展「おもかげ(長谷川時雨女史像)」、同32年~40年「源氏物語絵巻」

大矢峻嶺

没年月日:1967/04/01

日本画家大矢峻嶺は、4月1日直腸ガンのため京都市左京区の自宅で死去した。享年75才。本名貫一。明治25年岐阜県美濃加茂市に生れた。竹杖会に属し、大正8年第1回帝展に「木曽路の夏」が初入選以来、次のような出品が見られる。「大悲閣」(第2回帝展)「夏の片山津」(第3回帝展)「御嶽溪谷」(第7回帝展)「室津港」(第8回帝展)「塩田風景」(第9回帝展)「天竜寺の朝」(第11回帝展)「朝の霧島」(第15回帝展)「雲仙高原の初秋」(第1回新文展)「牧場の朝」(第6回新文展)など。

伊藤熹朔

没年月日:1967/03/31

舞台装置家、芸術院会員伊藤熹朔は、3月31日肺ガンのため東京都杉並区の自宅で逝去した。享年67才。明治32年8月1日東京に生れる。大正12年東京美術学校西洋画科を卒業、在学中から舞台美術を志し、土方与志模型舞台研究所に基礎を学び、舞台装置家としての第一歩を踏みだした。本格的な仕事をはじめたのは築地小劇場においてで、1925年(大正14年)、上演の「ジュリアス・シイザア」が最初の装置となり、ゴードン・クレイやアドルフ・アッピアなどの反写実的、象徴的な斬新な表現で注目された。しかし、後年は写実主義的な舞台装置の研究に進み、「土」「夜明け前」「大寺学校」など多くのすぐれた作品を創り出している。著書“舞台生活三十年”の中で、自分たちは戦前、写実主義その他のイズムを通ってきたような錯覚を持っているが、どれも徹底していない。こうした、やりのこした仕事を今度こそしっかりと世界的水準にしたい、写実主義にしても、これを徹底して研究するには生涯を必要とする、と述べている。この一章は、そのまま、明治以降の近代絵画への批判にも通じるが、彼の写実主義への指向も、念願の舞台美術におけるアカデミズムの樹立を実践しようとしたものであった。写実的な装置をすすめる傍ら、戯曲によっては、彼が好んだと思われる、きわめて象徴的な優れた装置も少くない。単純化された、簡潔な装置は俳優の動きを引きだし、ひき立たせるとともに、その動きによって空間は生き生きと見事な精彩を放っていた。彼程、戯曲を理解し、俳優の動きを生かした装置家は少ないといわれるが、その独創的な構成からもうかがえるように豊かな天分の持主でもあった。作品の幅は広く、新劇から歌舞伎、新派、新国劇、舞踊、歌劇、更に映画、テレビとあらゆる分野に亘り、作品は4,000を越えると伝えられている。舞台装置家の仕事の、全く確立されていない時代にあって、大道具師の古い手法から舞台装置を独立させ、舞台美術として高め、また詳細な設計図によって、組織的な製作法をとり入れるなど、舞台装置の近代化を身をもって開拓し、装置家の地位を高めた功績者の一人であった。受賞歴-昭和24年、芸術院賞。37年菊池寛賞。38年朝日賞、芸術院会員。著書「舞台装置の研究」(小山書店)「舞台装置三十年」(筑摩書房)

黒田鵬心

没年月日:1967/03/18

美術評論家黒田鵬心、木名朋信は3月18日脳軟化症のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年82才。明治18年1月15日世田谷区に生れ府立一中、第一高等学校を経て明治43年7月東京大学文科大学哲学科を卒業した。明治44年2月から大正3年2月まで読売新聞社勤務、同年より6年9月まで「趣味の友」社、児童教養研究部主宰、7年8月より13年8月にかけて三越勤務、同8月より黒田清輝の推挙で日仏芸術社をフランス人デルスニスH.D’oelsnitzと共同主宰した。日仏芸術社は昭和6年まで9回にわたってフランス美術展を日本各地と満洲国で開催して新旧のヨーロッパ美術の輸入をはかり、かたわら雑誌「日仏芸術」(大正14年7月創刊、第2巻1号(通巻7号)より荒城季夫編集)を発行して美術の啓蒙に貢献するところが大きかった。昭和4年5月から9月に同社主宰のパリ日本美術展には代表として渡欧した。一方大正14年4月から昭和24年3月まで文化学院、東京女子専門学校教授、24年4月から41年10月まで東京家政大学教授として美学・美術史学を担当した。この問都市の美観や美術に関する時事的な問題について新聞等に投書して卒直な意見を表明することがしばしばあった。(主要著書、「奈良と平泉」(大正2年)「趣味叢書」(大正3年)「美学及び芸術学概論」(大正6年)「大日本美術史」(大正13年)「芸術概論」(昭和8年)「日本美術史概説」(昭和8年)「美学概論」(昭和9年)「日本美術史読本」(昭和9年)「黒田鵬心選集」十巻他。

久保孝雄

没年月日:1967/03/12

彫刻家、新制作協会会員の久保孝雄は、3月12日午前1時30分、十二指腸乳頭部ガンのため仁和会八王子病院で死去した。享年49才。告別式は3月13日府中市の自宅で新制作協会葬として行なわれた。大正7年2月17日東京・新宿区に生れた。早稲田中学を経て、昭和13年3月第二早稲田高等学院を卒業し、更に同年4月東京美術学校彫刻科に入学、同17年9月同校を卒業し、まもなく軍隊へ終戦で復員するまで応召した。美校卒業直前の第29回二科展には「Nの首」が初入選したが、本格的な製作活動は戦後まで延期される。昭和22年第11回新制作派展に「刑務官吏の像」が初入選し、以来20年近く新制作に終始所属し、27年には会員に推挙されたが、戦後の混乱期のなかでのスタートは、清新な感受性が好評で、むしろ順調な進展ぶりをみせた。彼が会員に推された頃からは、戦後学校を出た新人たちが活躍しはじめ、先輩も含めて彼の周囲からは抽象彫刻が現われ出し、更に彫刻に対するものの考え方がはげしくゆれ動いた時期であったが、彼はそうした動きに強い関心を寄せながら、質実な写実的作風を頑強に固執するところがみられた。加えて、第18回展(昭29)「ボス」、第20回展「貯金箱」、第22回展「敗け鬼」「捕われた鬼」などには諷刺的で彼独特の自虐内攻型の製作態度がうかがわれ、第25回展(昭36)「真夜中の椅子」になると、意識的に一種のシュールレアリズムヘの志向をみせた。そのように基本的にはマッシヴな量塊の構築にありながら心理的な陰影をこめた作品に特色を示した。晩年の39年、第6回現代日本美術展でコンクール賞を獲得した「留学生M」(ブロンズ)や第7回現代展(41年)出品の「Jの首」(木彫)など、従来の堅実な写実から一歩進めて確信にみちた彼独自のフォルムを示し始めながら、中絶してしまったことは誠に惜しまれる。作品年譜昭和17年 現代彫塑院「胸像」努力賞。第29回二科展「Nの首」入選。昭和22年 第11回新制作派展「刑務官吏の像」初出品東京駅大レリーフ制作。昭和23年 八王子市立第5中学校奉職。第12回新制作派展「Mさんの肖像」出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「男の首」出品。7月、八王子第5中学校退職。第13回新制作派展「Uの顔」新作家賞受賞。昭和25年 サロン・ド・プランタン出品佳作賞。第14回新制作派展出品。昭和26年 第15回新制作展「少女の首」「O君の胸像」出品。昭和27年 第16回新制作展「俘囚習作」「彫刻家N」「農夫H」出品、会員に推挙さる。昭和28年 第17回新制作展「首」「坐像」出品。「牧野富太郎博士像」。昭和29年 新制作協会会員展「上林さん」出品。第18回新制作展「ボス」出品。「野上豊一郎博士像」「大内隼人氏母堂像」。昭和30年 第19回新制作展「N氏の像」「私の像」出品。「永戸久四郎氏像」。昭和31年 中央公論社画廊個展(少女像、関取、桃太郎と鬼、他)。第2回現代日本美術展「Sの像」出品。新鋭15人展出品。第20回新制作展「貯金箱」出品。「渡辺氏母堂大黒像」「上林暁氏像」「府中市立プール・少女像(セメント)」。昭和32年 第4回国際美術展「四股」出品。第21回新制作展「歓喜天」「顔」出品。「大西氏像」。昭和33年 木内岬と二人展(於・村松画廊)。第22回新制作展「敗け鬼」「捕はれた鬼」出品。「林譲治氏像」「仙波繁雄氏像」「林国蔵氏像」。昭和34年 第5回国際展「鬼」。木内岬と二人展(かがむ裸婦、他)。第23回新制作展「Aの像」「時代」出品。昭和35年 木内岬と二人展。第4回現代展「腕組む男」「顔」出品。第24回新制作展「Jの像」「O像」「トルソ」出品。昭和36年 第25回新制作展「真夜中の椅子」「女の像」出品。「船堀鍛工所社長像」「夏苅伸光氏像」。昭和37年 2月、扇儔彫塑展(於・新宿第一画廊、戦中世代の彫刻家11名、中村伝三郎協力)「女」「生存のための秩序A」「生存のための秩序B」出品。春の野外彫刻展(於・日比谷公園)「母子(セメント)」出品。第26回新制作展「Uの像」「力士T」出品。「菅礼之助氏像」「朝汐像」「栃光像」。欧州旅行。昭和38年 第27回新制作展「Yの像」「将軍と兵1・2・3」出品。「田辺尚雄氏像」。昭和39年 第6回現代展「留学生M」コンクール賞受賞。第28回新制作展「稽古」「Oの像」出品。「小川氏像」「本田弘敏氏像」。昭和40年 3月、第2回扇儔展(新宿・さくらぎギャラリー)「Iの像」「Mの像」出品。第8回国際展「壁(セメント)」出品。第29回新制作展「トルソ」「Iの胸像」「Tの像」出品。昭和41年 第7回現代展「Rの像」「Jの像(木彫)」出品。第30回新制作展「女立像」「Sの像」出品。10月、国際造形芸術連盟展「留学生M」「Jの像」招待出品。昭和42年 2月入院、3月12日逝去。「水戸清雄氏家族レリーフ」、「女の立像(絶作)」。

田中佐一郎

没年月日:1967/02/09

洋画家、独立美術協会会員の田中佐一郎は、2月9日午前3時52分、肝硬変のため東京・築地の聖路加病院で死去した。享年66才。葬儀は独立美術協会葬として12日文京区白山の大谷派寂円寺で行なわれた。法名は荘厳院釈一道。明治33年10月24日、京都市上京区に染屋、田中常次郎の次男として生れた。はじめ14才の頃、円山派の国井応陽について運筆の手ほどきをうけ次いで阿部春峰の門に入り、更に大正11年22才の折、京都市立絵画専門学校予科2年に編入学し、そこで入江波光の教えをうけた。大正14年絵専を卒業、7月上京して川端画学校石膏部に籍を置き、京都からの紹介で安井曽太郎に師事した。かねがね日本画の線描法や見方に疑問をもっていたところ、洋画のデッサンの研究を深めることによって、そのまま洋画家への道に直結して行くことになる。大正15年には二科展に搬入したが落選し、第7回帝展に「立教遠望」が入選した。昭和3年代々木山谷に開設された1930年協会研究所に移り、ここで里見勝蔵や川口軌外、林武らの指導を受けた。昭和4年から1930年展に出品し始め、翌5年には同展で受賞した。第16回二科展(昭4)に「波太」を、第17回二科展に「二人の女」を出品。昭和5年11月、1930年協会解散、続いて独立美術協会が結成され、同会に参加。翌6年1月第1回独立展に「裸婦三像」「窓際」「黄衣少女」を出品して独立賞を受けた。第2回独立展には無鑑査推薦となり「静物」「裸婦」を出品。昭和9年第4回独立展(「風景」出品)で会員に推挙された。以来、独立展には死去前年の第34回展に至るまで、死病にとりつかれた昭和36年の第29回展にのみ不出品で、あとは1回も欠かさず毎年発表を続けた。その間、昭和7、8の両年にわたって渡仏。昭和13年従軍画家として翌年まで中支へ、15年には再び南支、竜州に行き「転進」(昭16、第11回独立展・第2回聖戦美術展出品)等を描いた。16年11月には、国民徴用令により比島派遣渡集団軍報導部員として比島に向い、バターン半島総攻撃に参加、「コレヒドールの夜」(第13回独立展出品)、「キク高地」等を描く。同行部員に向井潤吉、栗原信、今日出海らが居た。昭和17年には泰、ビルマに従軍、更に18年7月から2ケ月にわたって南方作戦記録画資料蒐集のため、ビルマに行きマヤ山脈方面に取材した。翌19年召集解除されるまで、戦中の数年を記録画の製作に捧げた時期があり、しかも当時記録画の製作には消極的だった独立の会員の中では、率先してそれと取り組んだ一人で、そのこと自身、デッサン力に対する自信の程を物語るものであった。昭和36年紺綬褒章を受く。代表作に、「漁夫(デッサン)」(大正12年頃)、「黄土」(昭12、第7回独立展)」、「辺土」(第8回独立展)、「風雨の出陣」(第12回独立展)、「モヨロの夢」(昭23、第16回独立展)、「もののけ」(第25回独立展)、「親鸞(連作)」(昭35・6、独立展・第4回現代日本美術展)等がある。 因みに、没後関係友人らによって編まれた「田中佐一郎作品集」(昭和42年9月1日発行・美術出版デザインセンター製作。-詳細なが附載されている)に先輩林武が寄せた追惜の一文を抜粋しておくと-「独立美術協会が創立され、画壇の想望を担って発足した時、最初に受賞したのが田中佐一郎君であった。爾来、田中君はその作品と、男性的な、正義感の強い人柄とで、独立の若い層に重い鎮めとなっていた。その作品は、彼の人としての純粋さから、おのずとにじみ出るものとも思われる。日本文化の伝統深い京都出身である彼に、生得的に備ったとも思われる色とマチェルににじみ出る、微妙なニュアンスで、これは、彼の作品を他と分かつ美しい特質である。それが優雅な、大らかな構想の上で、渾然とした絵画が彼の芸術だ。我々は、彼の仕事を見守りつつ来たのであったが、惜しくも、数年来宿痾の人となり、ついに帰らぬ人となったのは、誠に残念に絶えない。……」とある。

磯部草丘

没年月日:1967/01/09

日本画家磯部草丘は、1月9日敗血症のため死去した。享年69才。本名覚太。明治30年3月24日群馬県佐波郡に生れた。大正8年上京し、伯父である帝大文学部大塚保治教授の下に身を寄せ、川合玉堂の門に入った。大正13年「冬ざれ」が第5回帝展に初入選し、つづいて児玉希望の戍辰会に入った。その後昭和3年から帝展に連続出品し、作品に「簗の豊秋村」(第9回)「梅花村図」(第10回)「房南間居」(第11回)「空山流水」(第12回)「岬」(第13回)「虹」(第14回)「葉月の潮」(第15回)などがあり、「葉月の潮」は特選になった。その後新文展に「秋立つ浦」(招待展)「東海の冬」(第2回)「妙義」(第3回)などを出品した。昭和18年召集により台湾に派遣され、同地で終戦を迎えたが、復員後は郷里伊勢崎郊外にあって制作に親しんだ。戦後は日展に依嘱出品の他個展を開いたが、日展では「夏の山」(第5回)「晨朝」(第8回)「雲と花栗」(第10回展)「ふるさとの山河」(第11回展)などがある。作品は、水墨と色彩を融合させ、溌色に特色があった。

伊庭伝次郎

没年月日:1967/01/05

洋画家伊庭伝次郎は、1月5日心臓衰弱のため京都市左京区の自宅で死去した。享年65才。明治34年滋賀県近江八幡市に生れ、大正12年関西美術院に入り、伊藤快彦、黒田重太郎、沢部清五郎等の指導をうけた。同15年には太平洋画会研究所に入り石井拍亭、中村不折に教えをうけた。昭和2年二科会に「下加茂風景」を初出品し、全関西展で朝日賞をうけた。翌年全関西洋画協会賞を受け、昭和4年同協会会員となった。昭和7年二科会々友となり、同18年二科三十周年記念賞を受領し同会会員となった。これよりさき昭和10年に全関西届出品の「五月の谷」が京都市美術展買上げとなっている。戦後は大阪市美術展、京都市美術展他関西諸展の審査員をつとめ、昭和27年には京都大学建築科講師、昭和33年成安女子短大教授、同37年京都市立美術大学教授などを歴任している。

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