阿部展也

没年月日:1971/05/07
分野:, (洋)

 イタリア、ローマ在住の洋画家、阿部展也は5月7日午前7時30分(ローマ時間、6日午後11時30分)、ローマのサルバドール・ムンディ病院で脳出血のため急逝した。享年58才であった。阿部展也は本名を芳文、大正2年(1913)2月4日、新潟県に生まれ、東京・小石川の京北中学校を4年で中退し、以後、独学で絵画を学び、はじめ独立展に出品、昭和12年詩画集『妖精の距離』(春鳥会刊)を出版、昭和14年(1939)には福沢一郎を中心とする超現実主義の団体、美術文化協会の結成に参加し同人となった。昭和15年ころ満州・蒙古に旅行、昭和16年(1941)からフィリッピンに滞在して、日本軍報道部の仕事に従事しポスター、写真、その他の諸企画にあたった。昭和21年(1946)帰国、美術文化協会に復帰したが、昭和27年(1952)同会を脱退、無所属となった。昭和26年(1951)サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年カーネギー国際美術展、28年インド国際美術展、30年ニューヨーク、ブルックリン美術館主催国際水彩画展、その他国内の国際展にも出品して活躍し、28年(1953)のインド国際展には日本美術家連盟代表として渡印し、約7ケ月インドに滞在した。昭和32年(1957)9月、渡欧してユーゴのドゥブロニックで開かれた国際造型芸術連盟第2回総会に日本代表として出席し、執行委員に選出され、昭和34年(1959)以降はローマに定住した。2期6年間、国際造型芸術連盟執行委員をつとめ、その間、重要事項採決にあたっては東洋諸国代表の中心的存在となって意向をまとめ、西欧諸国の独走をふせぐ役割をはたし、昭和35年(1960)には、グッゲンハイム賞、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展国際審査員にあげられた。昭和38年(1963)サン・マリノ・ビエンナーレ展、40年(1965)アメリカでの「日本の新しい絵画彫刻」展に出品、そのほか、ローマ、ミラノ、ヴェニスなどイタリア各地でグループ展、個展で作品を発表し、知的な探求心、旺盛な活動力と批評活動によって作品はつねに前衛的な作風を保持し、初期の超現実主義から晩年は抽象主義的作風へ移行した。かたわら、ブルガリアからアイルランドの各地を旅行してロマネスクの教会美術を調査し、数多くの写真資料を残している。遺体はローマのサン・ロレンツォ・バジリカ教会近くのカンポ・ベラノ墓地に埋葬された。
作品略年譜
昭和7年 「風景・道」(独立展)
昭和9年 「静物」(独立展)
昭和10年 「作品」(独立展)
昭和11年 「作品A」『作品B』(独立展)
昭和12年 「ムーヴマン」(独立展)
昭和13年 「トルソ」「顕花植物」(独立展)
昭和14年 「芽」「茎」(独立展)
昭和15年 「地球創造説」「ひとで」「デッサン」(美術文化展)
昭和16年 「支那芝居の顔」「内蒙古バタカルスム壁画模写」(美術文化展)
昭和22年 「月環」(美術文化展)
昭和24年 「アダム・イヴ」「生誕」(美術文化展)
昭和26年 「デッサンA、B、C」「オタスケ」「アクロバット」「バレー」「ナメクジ」「航空機」(美術文化展)
昭和27年 「神話(判字絵)」「一人相撲」「裸像」「夜明け」(美術文化展)、「埋葬」シリーズ3点(1回東京国際展)
昭和28年 「座像」「顔」(2回東京国際展)
昭和29年 「雨が降る」「予言者」(1回現代展)
昭和30年 「体操」「人間」(3回東京国際展)
昭和31年 「人間」「人間」(2回現代展)
昭和32年 「Blind」(4回東京国際展)
昭和34年 「作品」(5回東京国際展)
昭和35年 「作品1」「作品2」(4回現代展)
昭和36年 「作品1・マスプロダクション」「作品2・落ちる」(石版)
昭和47年 京都、東京国立近代美術館『ヨーロッパの日本作家』展に「作品」「こだま」「R-15」「R-14」「R-23」「R-49」「R-4」の7点が陳列される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和47年版(83頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「阿部展也」が含まれます。
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