毛利教武

没年月日:1963/08/27
分野:, (彫)

 彫塑家、日展委嘱、日本彫塑会会員、毛利教武は、8月27日午後8時、かねて療養中だった胆石症のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年77才。明治17年4月2日東京で生まれ、はじめ松本正春に彫刻の初歩を学び、明治32年高村光雲に師事、のち東京美術学校彫刻科に入り36年卒業した。同年及び翌37年東京彫工会出品、つずけて銀賞牌をうけた。38年陸軍看護兵として出征。39年海軍省銅像懸賞に応募、2等賞、また40年春行われた東京勧業博覧会には2等賞及び協賛賞を受けた。同年秋の第1回文展では、彫刻部に出品した「ゆくへ」が3等賞に挙げられ、米原雲海の「神来」と共に、僅か2名の受賞者の1人となり、記念すべき歴史的な栄誉をになった。翌41年には東京彫工会展審査員となり、若くして頭角をあらわした。以後文展に出品したが、43年第4回文展に落選したので暫らく出品を控え、大正元年第1回フューザン会に只1人の彫刻家として参加出品した。その後、意のおもむくままに官展に作品を発表したが、昭和3年御大典博覧会美術顧問及び審査員、翌4年名古屋市美術展の審査員をつとめた。6年帝国美術院の推薦となり、16年文展審査員また直土会結成に参加。戦後の晩年は、つとめて日展に依嘱の資格で、作品を発表した。戦災で過去の作品は殆ど焼失したが、現存の代表作には、「手」「クレオパトラとカルミニヨン」(ともに大正8年作)などがある。彼はわが彫刻界の先達的な耆宿作家であり乍ら、作風には、初期の「ゆくへ」のような浪漫的な作調にはじまって、常に一歩時流に先んじた尖鋭な近代的要素を示す作調を示し、むしろ官展系としては破格で進歩的な制作態度が窺われた。一方、彫刻界の煩瑣な俗流人事にも恬淡とし、それは晩年の現日展の委嘱出品のままの処遇でも知られよう。長男に武彦(新制作・日本画)、次男に武士郎(無所属・彫刻)、三男に建築デザイナーと美術一家として知られる。

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(135頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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