品川工

没年月日:2009/05/31
分野:, (版)

 版画家の品川工(本名関野工)は5月31日、老衰のため死去した。享年100。1908(明治41)年6月11日、新潟県柏崎市に生まれる。もともと美術に興味はあったものの、銀座で大勝堂という貴金属店を経営していた伯父の勧めで、東京府立工芸学校金属科(現、都立工芸高校)に進む。1928(昭和3)年に卒業し、伯父の紹介で彫金家宇野先眠に師事。しかし、型にはまった彫金の仕事への関心が薄れたため、宇野先眠のもとを去り、兄である品川力とともに東京帝国大学の近くでペリカンという喫茶店を開く(のちのペリカン書房)。そこで、当時帝大生だった立原道造、織田作之助、串田孫一、岡本謙次郎、三輪福松北川桃雄、宇佐見英治らと出会う。彼らに翻訳してもらったモホイ・ナジの著作に感銘を受け、また、ペリカンの賓客だった晩年の古賀春江の知己を得るなどして、「本当に芸術に目醒めた」という。この頃、紙彫刻、板金、オブジェなど様々な作品を制作していたが、35年に版画家恩地孝四郎に師事したことをきっかけに、本格的に版画制作を始める。39年に一木会に参加。第二次大戦中は、37年に徴用されて株式会社光村原色版印刷所で軍の作戦地図などを作成するかたわら、作品制作を精力的に行い、44年に銀座三越で初の個展を開く。終戦直前に、農商省工芸指導所の玩具研究室長となるが、終戦後に退所し独立。47年日本版画協会第15回展に出品し日本版画協会展受賞。同年第21回国画会展に「海辺」を出品し国画奨学賞を受賞。翌48年にも「海辺の幻想」で国画奨学賞を受賞。二年連続受賞の栄を受け会員に推挙され、翌年から国画会会員。53年東京国立近代美術館で開催された「抽象と幻想」展に「円舞(終曲のない踊り)」を出品。翌54年には、ルガノ国際版画ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、英国国際版画展などの国際展に出品。56年には日本橋高島屋で開催された「世界・今日の美術」展に「家族」を出品するなど、版画家としてのキャリアを積んでいった。また、この頃には、光村原色版印刷所での経験をもとに、写真の印画のプロセスを利用した作品制作を試みている。印画紙の上に色セロファンやインクをおいて感光させるカラーフォトグラムを53年に、ダイトランスファー法(レリーフ法)による写真プリントのプロセスに手を加えて制作したヌード写真を55年に、型紙を使って絵の具を定着させるステンシルの手法を写真の現像プロセスに応用し、型紙から漏れる光で印画紙を感光させて像を定着させる「光の版画」シリーズを翌56年に、それぞれ中央公論画廊での個展でモビールや版画とともに発表した。また、63年には、乾板ガラスを用い、絵具の質の違いや油性絵具と水性絵具の反発によって画面を構成するアンフォルメール(白と黒)を、74年には、感光材を塗った鏡面の上にポジフィルムを載せて感光、硬化させ、他の部分は取り除き、そこに樹脂塗料を塗るという手法で、プリントミラーと呼ばれる作品を制作した。こうした版画の原理にもとづいた実験的作品の制作と並行して、オブジェやモビールも継続して制作・発表し、68年に『たのしい造形 モビール』(美術出版社)を、71年には『新しいモビール・動く造形』(日貿出版社)を出版した。食器や工具を利用したオブジェと、周囲の空気に応じて動くモビールは、版画と並んで品川の制作の中心にあり続けた。73年東京国立近代美術館で開催された「戦後日本美術の展望―抽象表現の多様化」に出品。79年椿画廊「過去と現在」、80年りゅう画廊「品川工・35年の歩み」展と、それまでの業績を振り返る個展を開催。85年『楽しいペーパークラフト』(講談社)を出版。その後の主な展覧会としては、88年「品川工展:素材との対話」(札幌芸術の森センター)、1990(平成2)年「品川工とその周辺の版画家たち」(町田市立国際版画美術館)、96年「現代美術の手法(2)メディアと表現 品川工 山口勝弘」(練馬区立美術館)などがある。また2008年には練馬区立美術館で生誕100年を記念した特集展示「品川工の版画展」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(468-469頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「品川工」が含まれます。
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