島岡達三

没年月日:2007/12/11
分野:, (工)
読み:しまおかたつぞう

 益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(394-395頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「島岡達三」『日本美術年鑑』平成20年版(394-395頁)
例)「島岡達三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28409.html(閲覧日 2024-03-29)

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