北岡文雄

没年月日:2007/04/22
分野:, (版)
読み:きたおかふみお

 日本と中国の木版技法を融合した作風で知られる版画家の北岡文雄は4月22日、肺炎のため東京都渋谷区内の病院で死去した。享年89。1918(大正7)年1月11日東京都に生まれる。東京美術学校油画科本科3年であった1939(昭和14)年、平塚運一に習い初めて木版画を手がける。この時の作品「静岡風景」は同年の第8回日本版画協会展に出品され、以後同展への出品を続ける。初期の作品は「表現をできるだけ単純にして、対象の核心に迫る表現」が意識され、太い輪郭線に平塚の影響がみられる。42年、平塚主催の「きつつき会」に参加、43年には日本版画協会会員となり、恩地孝四郎や関野準一郎らと知り合う。45年1月新京(現、長春)にあった東北アジア文化振興会に赴任、敗戦後もしばらく安東(現、丹東)に留まり、東京美術学校に留学していた同期の田風と白山芸術学校で再会、中国木刻に出会う。白と黒による劇的リアリズムから受けた衝撃の跡は、本国への引き揚げを描いた「祖国への旅」シリーズ(47年)にみられるが、その表現は政治色や激情を交えない平明なものである。帰国後も、戦前から関わっていた「一木会」(恩地孝四郎主宰)に出席、51年には春陽会会員となる。また続けていた中国木刻風の作品から次第に抽象的作風へと傾いていく。この傾向は50年頃から明確となり、キュビスムや構成主義を経て幾何学的作風へと至るが、やがて再び写実に目覚める。その契機となったのが55年からのフランス留学である。長谷川潔のとりなしでエコール・デ・ボザールのロベール・カミに木口木版を習い、「憩うモデル」「道路工事」等を制作するが本格的な制作は帰国後の60年前後で、北海道の漁村をテーマに「海辺の老人」や「鮭網」等を制作。木口木版と並行して、板目木版による作品も手がけているが、これらは概して幻想性の強い作風となっている。札幌版画協会(現、北海道版画協会)設立にも尽力しており、56年には全道美術協会会員となる。64年フルブライト交換教授として渡米、ミネアポリス美術学校で木版画とデッサンの指導にあたるなどして一年半ほど滞在。この地の風景を描いた「ジョージタウン(ワシントンD.C.)」「樹間」などは幻想性の払拭されたクリアな写実表現となっている。このスタイルは以後北岡の制作の基本となり、日本各地に足を運び風土色溢れる風景版画を次々制作する。78年台北市国家画廊で個展を開いた後、80年には中国政府の招待により北京中央美術学院にて木版図講習と個展を開催。87年に再び同政府より招待され、同美術学院及び、四川美術学院、浙江美術学院にて木版図講習と個展開催。85年の「風土連作」や92~93年の「七曜画譜」といった装飾性の強いモノトーンの連作は、北岡風景版画の集大成ともいえる大作。88年町田市立国際版画美術館にて「北岡文雄木版画展」を開催。1990(平成2)年版画家として初めて日本美術家連盟理事長就任。93年北海道立近代美術館にて「光と風の版風景 北岡文雄の世界」展開催。90年代中頃からは海外の取材も積極的に行い、梅原画廊・NHKサービスセンターの企画により95年から、ユネスコ登録世界遺産自然文化遺産シリーズの制作を始める。97年、勲四等旭日小綬章受章。2006年、日本橋髙島屋にて米寿記念展、09年文芸春秋画廊にて回顧展が開かれる。上記以外にも、生涯を通じて日本国内のみならず、世界各地で精力的に個展を行っている。主な出版物に『木版画の技法』(雄山閣、1976年)、『版木の中の風景 北岡文雄画文集』(美術出版社、1983年)、『北岡文雄 木版画60年 版と造形の探求』(美術出版社、2003年)等がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(380-381頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「北岡文雄」『日本美術年鑑』平成20年版(380-381頁)
例)「北岡文雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28390.html(閲覧日 2024-04-26)

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