福本章

没年月日:2011/07/06
分野:, (洋)

 1960年代後半からフランスを拠点として活動を続けた洋画家福本章は7月6日、胃がんのため死去した。享年79。
 1932(昭和7)年5月16日岡山市に麺類製造業を営む福本勘吉の三男として生まれる。本名章一(しょういち)。49年頃に独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦(1916-73)を知り、絵を描き始める。52年東京藝術大学美術学部油画科に入学。林武教室に学ぶ。56年、同学を卒業して油画専攻科に進学。同校の絵画学生の奨学金のひとつである大橋賞を受賞する。57年第25回独立展に「追はれる子」を初出品して入選するが、以後は不出品。58年、油画専攻科を修了し、同科副手として62年まで同校に在籍する。59年、黒土会の創立に参加し、同年第1回展に「横臥裸婦」を出品し、以後、65年まで毎年出品を続ける。60年第3回国際具象派展覧会(朝日新聞社主催)に重厚なマチエールで裸婦坐像を描いた「赤の裸婦」を出品。61年新樹会に「樹」「裸婦」を招待出品し、以後64年まで出品を続ける。62年第4回国際具象派展に「黄の中の二つの裸婦」「黄の中の裸婦」を出品。63年第2回国際形象展に「樹」「裸婦」「靴下の裸婦」を招待出品し、不出品の年もあるものの1981年まで7回、同展に出品する。抽象表現が盛んに行われる洋画壇にあって、具象画における表現を模索して注目され、63年、第7回安井賞展に「裸婦」が出品される。64年東京の日動サロンで初めての個展を開催し、風景や静物を描いた作品を発表。65年に国立近代美術館京都分館で開催された「具象絵画の新たなる展開」に「靴下の裸婦」「樹間」「泰山木のある静物」他を出品する。また同年第9回安井賞展に「風景」を出品。66年第1回昭和会展に「静物」「卓上静物」を出品し、翌年の同第2回展では「模様の上の裸婦」で昭和会賞を受賞。同年渡欧し、ローマを経てパリに居を定める。69年日動サロンで滞欧作展を開催。70年、スペインを訪れる。また同年フランスのサロン・ドートンヌに「オンフルール」を出品する。72年フランスのニースにアトリエを持ち、南仏での制作を開始する。73年にヴェニスを訪れて以後たびたびに同地に旅行。74年、パリ郊外に居を定める。同年、第1回東京国際具象絵画ビエンナーレにヴェニスに取材した「河口(ヴェニス)」「運河」を招待出品。75年には日動サロンで個展を開催し「運河」「リアルト橋」などヴェニス風景を主題とする作品を発表した。76年毎日新聞夕刊に掲載された辻邦生による連載小説「時の扉」の挿絵を担当。78年第21回安井賞展に「運河」を出品する。80年パリ郊外に居を定める。85年、朝日新聞朝刊の連載小説、辻邦生「雲の宴」の挿絵を担当。同年、野村本社ビル(京都)のモザイク壁画「レダ」を制作。1990(平成2)年立軌会に参加し2007年の退会まで出品を続ける。91年、「在仏三人展―福本章、桜庭優、小杉小二郎」の第1回展を名古屋画廊で開催。同展は以後第3回展まで開催された。93年に東京藝術大学出身の画家たちによる「杜の会」展に初出品し、以後同展に出品を続ける。97年小山敬三賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催。同年から2002年までヴェニスにアトリエを構えて制作する。98年倉敷芸術科学大学芸術学部教授となり04年まで教鞭を取る。00年より「両洋の眼」展に出品。同年第23回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞し、同賞記念展覧会を開催する。01年郷里にある大原美術館にて「福本章」展を開催。02年週刊朝日の連載小説、山崎朋子「サンダカンまで」の挿絵を担当。没後の13年5月「二都物語~プロヴァンスからヴェネツィアまで~」と題して日仏会館で「福本章-青の世界」、イタリア文化会館で「福本章-ヴェネツィアの光」展が共同企画として開催された。一貫して具象絵画を描き、対象のかたちを幾何学的形体に分割して捉えた上で再構成し、簡略化した色面であらわす作品を描いた。1960年代には赤や黄といった原色に近い色も用い、厚塗りのマチエールを示したが、60年代後半から青を基調とする穏やかな中間色を主に用いるようになり、次第にマチエールも平滑になっていった。画面全体が紫を含んだ柔らかい青灰色に包まれる独自の画風で知られた。画集に『福本章画集』(日動出版部、1981年)『福本章画集 パリの空』(朝日新聞社、1986年)、『福本章画集 1956-2005』(求龍堂、2005年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成24年版(434頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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