本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





木村定三

没年月日:2003/01/21

読み:きむらていぞう  美術品収集家の木村定三は1月21日午前7時7分、肺炎のため名古屋市中区の病院で死去した。享年89。1913(大正2)年3月1日、名古屋の肥料米殻仲買を生業とする家に生まれる。1929(昭和4)年、旧制熱田中学校を卒業、第八高等学校文科甲類に入学し、32年同校を卒業、東京帝国大学法学部に進む。同大学在学中の35年に高級官僚への道が約束される高等文官試験行政科に合格するも、翌年法学部政治学科を卒業すると直ちに名古屋に戻り家業に従事する。66年には新納屋橋ビルを建設し、大名古屋建物株式会社の社長に就任した。その美術好きは書画骨董に関心を寄せた父と兄の影響とみられ、コレクションの幅は中国北魏の彫刻から現代の作品にまで及んだが、とりわけ38年に名古屋丸善の画廊で開かれた熊谷守一の日本画の個展で強い感銘を受け、以後熊谷の芸術を賞揚し続けた。“法悦感”と“厳粛感”を第一義とする独特の芸術観を持ち、両者を兼ね備えた画家として熊谷を、また前者を代表する画家として小川芋銭、次いで池大雅を、後者の画家として浦上玉堂を第一とし、与謝蕪村がそれに続くとした。晩年には与謝蕪村「富嶽列松図」、浦上玉堂「山紅於染図」等の重要文化財、また熊谷守一、小川芋銭の作品を含む近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に寄託、さらには寄贈することを決め、これを記念し同館にて2003(平成15)年「時の贈りもの―収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」展が行なわれるが、その開催を目前にしての逝去であった。同館では展覧会開催後も木村定三コレクション室を設け、寄贈品を常時公開している。

秋山庄太郎

没年月日:2003/01/16

読み:あきやましょうたろう  写真家の秋山庄太郎は、1月16日心筋梗塞のため、東京都中央区の病院で死去した。享年82。1920(大正9)年6月8日、東京市神田区に生まれる。東京府立第八中学、第一早稲田高等学院を経て、1943(昭和18)年早稲田大学商学部卒業。中学時代にカメラを手に入れたことを機に、写真に熱心にとりくむようになり、大学でも写真部に所属、大学卒業の年、卒業後の応召を見据え「青春の墓標」として写真集『翳』を自費出版する。東京田辺製薬に入社後、陸軍に応召し中国戦線に赴き、45年内地に転属となり終戦を迎えた。復員後の46年、写真を職業とすることを決意、東京・銀座に秋山写真工房を設立するが、資金難のため47年解散、工房時代に知己を得た林忠彦の推薦で近代映画社に入社し、女優のポートレイトに才能を発揮する。同年林忠彦らが結成した銀龍社に参加、53年にはそのメンバーを中心に二科会に新設された写真部の創立会員となる。51年近代映画社を退社、フリーランスとなり、『週刊文春』、『週刊サンケイ』など数誌の週刊誌の表紙写真やグラビア連載を並行して担当するなど、女性写真を中心に活動を展開。71年第1回日本広告写真家協会展・東京ADC賞受賞、74年には『週刊現代』表紙連載および『週刊小説』の「作家の風貌」連載により第5回講談社出版文化賞を受賞した。雑誌の表紙写真の女性ポートレイトにはタブーとされていた黒い背景を最初に採り入れるなど、新鮮で明解な表現により大衆的な人気を博したが、人物の撮影においても過度な技巧や演出に走ることなく、上品な抒情性のうちに対象の美を発見しようとするその作風は、モティーフの如何を問わず、初期より晩年まで一貫していた。写真家としての評価を確立した女性写真に加え、『作家の風貌―159人』(美術出版社、78年)、『画家の風貌と素描』(サン・アート、80年)などにまとめられた男性の肖像にも優れた仕事を残し、四十代半ばからとりくみはじめた花の写真は、ライフワークとして晩年まで続けられ、新たな代表作群となった。日本写真家協会(50年設立)、日本広告写真家協会(58年設立)の創設に参加、日本写真家協会副会長(63―64年)、日本広告写真家協会会長(71―79年)などを歴任した他、日本写真協会やアマチュア写真家の団体である全日本写真連盟などでも要職を務め、写真界の発展・普及に尽力した。また日本写真芸術専門学校の校長を長く務めるなど写真教育にも携わった。86年紫綬褒章、93年勲四等旭日小綬章を受章。1991(平成3)年には横浜市民ギャラリーで「往時茫々:秋山庄太郎写真展」、98年には徳山市美術博物館で「秋山庄太郎展:美しい記憶」、2002年には東京都写真美術館で「遊写三昧:秋山庄太郎の写真美学」展など、その業績を回顧する展覧会が開催されたほか、99年に開館した町田市フォトサロンには「秋山庄太郎常設展示室」が設けられている。

城ノ口みゑ

没年月日:2003/01/16

読み:じょうのぐちみえ  重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」の保持者、城ノ口みゑは、1月16日、三重県鈴鹿市白子町の自宅で心不全のため死去した。享年86。1917(大正6)年1月2日、三重県鈴鹿市白子町に生まれる。同町は、小紋などの型染めに用いる、いわゆる伊勢型紙の主要産地として知られる。伊勢型紙は、楮紙を柿渋で貼り合せたもので、これに専用の彫刻刀で文様を透かし彫りする。透かし部分の多い型紙は、補強のため、いったん文様を彫り上げたあとから二枚に剥がして、あいだに細い絹糸を挟み入れる「糸入れ」の工程を施す。伊勢地方の女性達を主要な担い手として伝承された、家内手工の補強法であったが、ひじょうに難しく、習得にも時間がかかる技術であったため、やがて、紗を裏張りする簡便な補強法のほうが普及してゆくことになった。城ノ口みゑは、「糸入れ」の需要がまだ高かった昭和戦前期に、祖母や母・すえを通じて、この伝統の型紙補強技術を習得し、家政女学校を卒業した頃から、家族とともにこれに従事した。以来、さまざまな技術革新や型紙業界自体の変革にともなって後継者が減少する中でも、変わらず高い水準の技術を保持し続けた。1955(昭和30)年2月、初の重要無形文化財保持者30名が認定された際には、他の型紙技術者5名とともに、重要無形文化財「伊勢型紙糸入れ」保持者として認定を受けた。63年に鈴鹿市が「伊勢型紙伝承者養成事業」を開始すると、講師に就任し、以後これに長くたずさわって後継者の育成に尽力した。城ノ口の死去によって、55年認定時の伊勢型紙関係の重要無形文化財保持者はすべて世を去ったことになるが、糸入れを含む伊勢型紙の制作技術そのものは、現在、伊勢型紙技術保存会によって伝承されている。同保存会は、1993(平成5)年に重要無形文化財「伊勢型紙」の保持団体として認定を受けている。

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