本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





武井直也

没年月日:1940/02/05

日本美術院の元同人、日本彫刻科協会々員武井直也は、2月5日チブスのため東大病院に於て急逝した。享年48歳。 明治26年6月16日長野県岡谷に生れ、大正3年戸張孤雁に師事、翌年東京美術学校彫刻科に入学した。同7年日本美術院に初入選となり、同9年卒業、同12年日本美術院研究会員となる。翌年渡仏、ブールデルに学び、昭和2年帰朝、同年の院展に滞仏作を発表した。同7年日本美術院同人となつたが、同11年に脱退し、日本彫刻家協会を設立、現在に及んだもので、又文展の無鑑査に推されてゐた。精力的な作家で、多くの作品を残したが、今春の日本彫刻家協会展に於て遺作の一部が陳列された。

邨田丹陵

没年月日:1940/01/27

日本画家邨田丹陵は1月27日逝去した。享年69歳。弱冠吉沢素山に就学、次いで土佐派の川辺御楯に師事し、明治23年内国勧業博覧会に「石橋山合戦図」を出品、褒賞を受け、若くして頭角をあらはした。翌年岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立に与り、同協会共進会の委員、審査員として活動し自らも幾多の力作を発表した。明治30年同会が日本絵画協会と改称し、31年日本美術院と聯合して共進会を開くに至つた後も審査員となり、又自らも出品した。其の後同37年日露役に際して海軍に従軍す。文展第1回に「大宮人図」を出陳、3等賞となつたが、爾後自ら省る所あり、画壇を退き一切の展覧会と交渉を絶つた。昭和10年に明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「大政奉還図」を揮毫してゐる。晩年は東京府下北多摩郡に住居し、悠々画作に従ひ、又菊作りの大家として知られてゐた。略年歴明治5年 7月20日東京に生る。本名竧(タダシ)、父は旧田安徳川藩士村田直景明治13年 素山吉沢利喜に就て画技を習ふ。母の生家邨田氏を継ぐ。明治16年 6月、川辺御楯の門に入り丹陵と号す明治17年 第2回内国絵画共進会「藤原光頼諌惟方図」「神南川図」明治19年 東洋絵画共進会「佐藤忠信芳野戦図」褒状明治23年 第3回内国勧業博覧会「石橋山合戦図」褒状明治24年 日本青年絵画協会を創立明治25年 日本青年絵画共進会「豊太閤観花醍醐図」明治26年 同第2回共進会「新田義興」銅牌明治27年 日本美術協会展「小早川隆景破明軍図」銅牌、第3回日本青年絵画協会「両雄会湖畔図」明治28年 第4回内国勧業博覧会「富士牧狩図」妙技3等賞、宮内省御買上明治29年 日本青年絵画協会の組織改組さる、宮内省御下命画「黄海々戦図」(屏風三隻)謹作明治31年 日本絵画協会日本美術院第5回共進会「森蘭丸」銅牌明治32年 同第7回共進会「雪月花」銅牌明治35年 讃岐琴平神社の襖「富士牧狩図」揮毫明治37年 日露役に際し海軍に従軍、寺崎広業と共に記念画帳「二龍宝台」を作る明治40年 東京勧業博覧会「佐野の雪図」2等賞、東宮職御買上 文展第1回「大宮人図」3等賞、宮内省御買上、爾後展覧会に発表せず昭和10年 聖得記念絵画館の壁画を揮毫す昭和15年 1月27日没

久保田鼎

没年月日:1940/01/15

美術行政及教育の為に多年尽瘁した久保田鼎は1月15日奈良に於て逝去した。行年86、安政2年江戸小石川に生れ、幼名を理三郎と称した。明治7年文部省に写字生として職を奉じ、同10年には同省属に昇進し、同23年帝国博物館主事に任命され、美術界に歩を進める契機となつた。即ち同年東京美術学校幹事、同25年臨時全国宝物取調掛、同28年には同館理事、次いで翌29年古社寺保存会委員を仰付けられた。尚同31年東京美術学校教授を兼任、同33年同校々長心得を命ぜられた。同40年に至り奈良帝室博物館長、大正3年には京都帝室博物館長、同13年には再度奈良帝室博物館長を歴任した。而して大正12年には帝室技芸員選衡委員、昭和5年には宮内事務官として勅任され、同6年帝室博物館評議員仰付られ、それと共に要職を隠退したが、我が黎明期博物館事業に殆んど其生涯を捧げた功績は特記さるべきであらう。

佐藤慶太郎

没年月日:1940/01/13

佐藤慶太郎は1月13日別府の自宅に於て逝去した。享年73。佐藤新興生活館の創立者であり、又大正9年東京府美術館建設費として百万円を寄付する等美術界に貢献するところあつた。

大島如雲

没年月日:1940/01/04

鋳金界の老大家大島如雲は1月4日東京市瀧野川の自宅に於て逝去した。享年83歳。本名勝次郎、安政5年2月2日江戸小石川に生れた。父高次郎に就て蝋型及鋳浚彫刻術を学ぶ。明治14年第2回内国勧業博覧会に「龍神」を出品せるをはじめ、爾後東京彫工会、日本美術協会、東京鋳金会等に出品し、又同33年巴里万国博覧会に出陳せる「稲穂群雀」に依り金賞牌を受けた。之より先同23年東京美術学校に用ひられ、大正7年には同校教授に任じ昭和7年に至る迄後進の指導に当つた。又民間に在つては前記諸会の審査員或は委員として斯界に貢献する所大であつた。

to page top