互井開一

没年月日:1967/10/12
分野:, (洋)

洋画家、三軌会委員長の互井開一は、10月12日午前6時15分クモ膜下出血のため、東京・中野医療組合病院で死去した。享年63才。告別式が三軌会葬として中野区宮前の宝仙寺で行なわれた。明治37年7月20日埼玉県北葛飾郡に生れた。大正13年埼玉師範卒業。昭和3年文部省図画科検定試験合格。7年に上京するまで県下に教鞭をとる。同年日本水彩展、太平洋画会展に出品し、その後両展とも数回出品した。8年光風会展出品、以後4回出品。9年第21回二科展に「男鹿風景」が入選し、旺玄社展にも出品受賞した。10年第二部会展に「八丈島風景」を出品。11年文展(鑑査展)に「真夏の海(水彩)」、14年第3回文展「男鹿風景(水彩)」、15年紀元2600年奉祝展「男鹿風景(水彩)」がそれぞれ入選、この年銀座・天元画廊で個展を、あと満洲各地で個展を開催した。翌16年には銀座・青樹社でも個展を開く。18年古郷八郎、滝沢清らと三紀会を結成し、第1回展を銀座・さざれ画廊で開催したが、同年戦争のため解散した。20年岐阜県下に疎開。戦後22年白日会会員となり(翌年退会)、第3回日展に「波切」を出品したのをきりに、生来の野武士的反骨の精神は従来の官展の封建的なぬるま湯にひたることを潔しとせず、官展系団体と絶縁し、24年2月には自ら同志を誘い、新水彩作家協会を創設(30年三軌会と改称)し、会の育成と発展に非常な努力を重ねてきたことはいうまでもなく、水彩画の従来おかれている、油彩に対する水彩の主従関係をくつがえして、水彩画芸術の主体性を確立するために専念してきたたくましい反抗の姿勢は高く評価されよう。彼の作風には、晩年に向うに従い、色彩は鮮麗明快さをますます加えるとともに、軽妙濶達なフォルムを交錯させて、リズミカルでさわやかな独自な表現様式がうち立てられた。ほとんど彼の主宰の感があった三軌会展が、43年3月に祝賀すべき第20回記念展を前に控えて、巨星・互井開一を失ったことは誠に惜しまれる。晩年の代表作には、「魚と花」「枯草」「オンフール」「海浜」「リスボン郊外」「札幌郊外」「ヨットハーバー」等が数えられる。なお三軌会展以外の主な活躍の事蹟を列記しておくと、28年日本橋・白木屋で個展。30年<造形>誌にて互井開一・特集を行なう。31年銀座・兜屋画廊にて個展。32年埼玉名栗観音堂の大ガラス絵完成<平沼弥太郎建立>、渡欧(ヨーロッパ各地・エジプト・東南アジア1年間)。33年日本橋・白木屋にて滞欧作発表。35年名古屋松坂屋にて個展。37年より東京電機大学主任講師となる。39年4月北海道札幌にて個展。再び渡欧(ヨーロッパ各地6ケ月間)。41年銀座・松屋にて大個展を開く。互井開一画集を自費出版(三彩社)する。

出 典:『日本美術年鑑』昭和43年版(150-151頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「互井開一」『日本美術年鑑』昭和43年版(150-151頁)
例)「互井開一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9186.html(閲覧日 2024-04-27)
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