田中淡

没年月日:2012/11/18
分野:, (学)
読み:たなかたん

 建築史家で京都大学名誉教授の田中淡は11月18日午前2時49分、多発性骨髄腫のため死去した。享年66。
 1946(昭和21)年7月23日、神奈川県に生まれる。65年私立武蔵高等学校を卒業後、横浜国立大学工学部建築学科に入学。69年に卒業後、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻に入学。71年に修了後、博士課程に進むが、同年に中退して文化庁文化財保護部建造物課文部技官に任官。74年に退官し、京都大学人文科学研究所助手として本格的な学究の道に入る。85年京都大学人文科学研究所助教授。1994(平成6)年同教授。2010年同定年退官、同大学名誉教授。
 81年から1年間、南京工学院建築研究所客員研究員。また、京都大学にて教鞭を執る傍ら、ハイデルベルク大学、国立台湾大学の研究所の客員教授をはじめ、他大学での非常勤講師、研究機関での客員研究員等も務めた。
 戦前の関野貞伊東忠太らによる現地踏査によって開始された日本人専門家による中国建築史研究は、戦中にかけての村田治郎竹島卓一らによる研究をもって久しく中断していた。田中自身の言葉を借りれば、以後「絶学というに等しい情況」にあったわが国での中国建築史研究を単独で切り開き、戦後におけるその第一人者として学界の誰もが認める存在であり続けたのが田中淡であった。彼は、1930年代に梁思成らが設立した中国営造学社以来の中国人研究者たちが伝統としてきた現地での遺構調査を主体とする研究手法が不可能に近いという、外国人研究者に課された大きな制約条件を、文献史料の博捜・活用と、急増する考古学的新知見の積極的参照という新たな方法論をもって克服していった。そして、その方法論ゆえに、建築実物遺構が現存しない唐代初期より以前の時代を主な研究の対象とし、「中国建築史のすでに佚われて伝わらない本流の歩みと、その強固な伝統が形成されたさまざまな背景的要因」を蘇生させることに力を注いだ。
 87年に、それまでの研究成果をまとめた「中国建築史の基礎的研究」で東京大学より工学博士号を取得。1989(平成元)年には、学位論文の主要部分をなす各論文を収録した『中国建築史の研究』(弘文堂)を刊行する。これより以後は、庭園史に関する論考が次第に多くなるが、建築史においても庭園史においても、中国の大きな歴史の全体像の中に各時代や各地域にみられる表現を定置しようとする視点が貫かれていた。そのような巨視的思考態度は、日本の中世新様式の一つである大仏様の源流に関する考察や、先史以来の日本固有とされる建築技法を中国南方に残る「干闌式」と呼ばれる建築との関連でとらえた論においても共通するが、各論文や訳書に付された詳細な注釈にも表れる精緻さをもって提示されるところに田中の面目躍如たるものがあった。
 平城宮跡をはじめとする史跡における古代建築復元に検討委員として助言したほか、西安での大明宮含元殿遺址保存修復事業にもユネスココンサルタントとして参加した。
 81年、「先秦時代宮室建築序説」で第10回北川桃雄基金賞、92年、「中国建築史の研究」で第5回濱田青陵賞受賞。
 上記以外の主な著作に、『中国古代科学史論続篇』(共編著、京都大学人文科学研究所、1991年)、『中国技術史の研究』(編著、京都大学人文科学研究所、1998年)、『世界美術大全集 東洋編 第二巻~第九巻』(共著、小学館、1997-2000年)、『中国古代造園史料集成-増補 哲匠録 畳山篇 秦漢-六朝』(共編、中央公論美術出版、2003年)などがあり、主著の中国語訳である「中国建築史之研究」(南天書局、2011年)も台湾で出版されている。また、アンドリュー・ボイド『中国の建築と都市』(鹿島出版会、1979年)、中国建築史編集委員会編『中国建築の歴史』(平凡社、1981年)、劉敦楨『中国の名庭-蘇州古典園林』(小学館、1982年)など訳書も多い。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(422頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中淡」『日本美術年鑑』平成25年版(422頁)
例)「田中淡 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204407.html(閲覧日 2024-04-20)

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