深瀬昌久

没年月日:2012/06/09
分野:, (写)
読み:ふかせまさひさ

 写真家の深瀬昌久は、6月9日脳出血のため東京都多摩市内の老人養護施設で死去した。享年78。1992(平成4)年に新宿ゴールデン街の行きつけの店の階段から転落、脳挫傷により障害を負い、以降、療養を続けていた。
 1934(昭和9)年、北海道中川郡美深町に生まれる。本名昌久(よしひさ)。実家は祖父の代から写真館を営む。家業の手伝いとして早くから写真に触れ、高校時代にはカメラ雑誌公募欄に作品を投稿するようになる。56年日本大学芸術学部写真学科を卒業、第一宣伝社に入社。64年日本デザインセンターに転職、67年に河出書房写真部長に就任するが翌年同社が倒産し退社、フリーランスとなる。
 第一宣伝社に勤務していた60年に初個展「製油所の空」(小西六ギャラリー、東京)を開催。翌61年個展「豚を殺せ!」(銀座画廊、東京)を開催。芝浦の屠畜場で撮影したカラー作品と、妊婦のヌードや死産した嬰児などを撮影したモノクロ作品からなる二部構成の展示で注目され、以降、『カメラ毎日』などに作品を発表するようになる。63年に出会い64年に結婚した鰐部洋子(1976年に離婚)をモデルとし、演出された状況での撮影、日常生活や旅先でのスナップなど、さまざまな場面で彼女をとらえた写真による一連の作品は、この時期の深瀬の仕事の中核を成し、71年に出版された最初の写真集『遊戯』(映像の現代シリーズ第4巻、中央公論社)や『洋子』(ソノラマ写真選書、朝日ソノラマ、1978年)などに結実する。74-76年東松照明、荒木経惟ら6人の写真家がそれぞれ教室を開講するWORKSHOP写真学校の設立に参画、講師を務める。74年には「New Japanese Photography」展(ニューヨーク近代美術館)、「15人の写真家」(東京国立近代美術館)に出品。
 76年から82年にかけて『カメラ毎日』に「烏」と題する連作を断続的に連載。76年開催の個展「烏」(新宿ニコンサロン、東京他)で第2回伊奈信男賞を受賞。86年、同連作による写真集『鴉』(蒼穹社)を出版。また71年に『カメラ毎日』に連載した「A PLAY」のために撮影を行ったことをきっかけに、実家の写真館のスタジオで肖像写真用大型カメラを使って家族を撮影する仕事を約二十年にわたって継続し、写真集『家族』(アイピーシー、1991年)にまとめた。87年には病床の父とその死を記録した作品による個展「父の記憶」(銀座ニコンサロン、東京他)を開催、後に写真集『父の記憶』(アイピーシー、1991年)にまとめる。故郷への旅と自らの分身のような烏を中心的なモティーフとした「烏」連作と、故郷の家族をめぐる一連の作品に区切りをつけたのち、90年代初頭に深瀬の仕事は、自分の姿を画面の一部に写し込んだ旅のスナップ「私景」の連作や、入浴する自分を水中カメラで撮影した「ブクブク」、飲み屋で出会った客と舌を接触させて撮影した「ベロベロ」など、自分自身の存在をさまざまなかたちで見つめる仕事へと展開していった。これらの作品からなる92年の個展「私景 ’92」(銀座ニコンサロン、東京)の数か月、転落事故に遭い、写真家としての活動は中断された。
 92年、伊奈信男賞特別賞(ニコンサロンでの計10回の個展に対して)、第8回東川賞特別賞(写真集『鴉』、『家族』他一連の作家活動に対して)をそれぞれ受賞。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(415-416頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「深瀬昌久」『日本美術年鑑』平成25年版(415-416頁)
例)「深瀬昌久 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204396.html(閲覧日 2024-04-20)

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