松久宗琳
延暦寺東塔五智如来像、大阪四天王寺丈六仏等を制作したほか、京都仏像彫刻研究所を設立するなど仏像制作の普及、教育にも尽力した仏師松久宗琳は、3月15日午後11時、心筋こうそくのため、京都市の自宅で死去した。享年66。大正15(1926)年2月14日、仏師松久朋琳の長男として京都市下京区に生まれる。本名武雄。昭和13(1938)年、朱雀第三尋常小学校を卒業して仏像彩色師八木秀蔵の内弟子となる。一方、日本画も学んだ。同15年12月、脊椎カリエスを患い実家に戻る。この病気により右脚の自由を失う。同16年仏師を志し、奈良、京都を巡って飛鳥、白鳳、天平時代の仏像を研究。同19年10月、陸軍の要請により成吉思汗像に金箔を施すため渡満し翌月帰国。同年12月京都高島屋の家具製造部員として再び渡満して翌年3月帰国する。戦後の同23年、木彫家佐藤玄々に入門。同25年陶芸家河井寛次郎のもとに通い、以後も交遊を続け、「用の美」等、芸術概念をはじめ多大な影響を受けた。同年父朋琳と共に愛媛県出石寺の「仁王像」を制作し、鎌倉時代以降希少となった「賽割法」を復活させた。同36年より宗琳を名のる。同37年、京都市山科区九条山に「京都仏像彫刻研究所」を設立し、工房による仏像彫刻の制作を目指す。同38年、戦災で失われた大阪四天王寺の「仁王像」を制作。同38年滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」(父と共作)を制作。同48年、京都山科区大宅に工房を設立する。同50年、京都大覚寺「五大明王像」を父と共に制作し、翌51年、京都金閣寺の「岩屋観音像」「四天王像」を制作する。同53年大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」、同54年同寺太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」を父朋琳と共に制作し、同寺より「大仏師」の称号を受けた。同55年延暦寺総持院の「五智如来像」を父と共に制作。同58年千葉成田山新勝寺の「五大明王像」「五智如来像」の制作にかかり、4年を費して完成。同寺より「大仏師」号を受けた。同寺には、平成3(1991)年にも「千手観音像」「弥勒菩薩像」「普賢・文殊菩薩像」を制作している。同59年1月、インドへ、同62年5月中国桂林へ、平成元(1989)年5月中国雲崗石窟へ赴く。晩年は国内の古寺をも多く訪れた。天平期の仏像を好み、天平仏の研究を基礎とする鎌倉期の仏師快慶を崇拝し、義軌や古典的様式を守って、流麗な像様を特色とした。個人様式を重視する近代の芸術観に対し、長い仏教彫刻史の蓄積が生んだ古典様式を貴重な遺産と見て踏襲する姿勢と共に、工房による制作を大規模に展開した点でも注目される。一方で、仏像制作を広く一般に普及させるべく、昭和39年に第1回宗教美術展を開催。同40年代前半には彫刻刀の電動研磨機を開発。同48年「宗教芸術院」を創設して講習会を開くなど一般への教育につとめた。著書も多く、『仏像彫刻のすすめ』(昭和48年 日貿出版社)、『仏像彫刻の技法』(同51年 同社)、『仏画と截金』(同52年 中川湧美堂)、『新しい仏像彫刻』(同59年 日貿出版社)などがあり、作品集に『松久宗琳の仏像彫刻』(同63年 秀作社)、『大仏師 松久宗琳』(平成4年 光村推古書院)、伝記に『日本人の魂を彫る』(長尾三郎著 平成2年 講談社)がある。作品の多くは、昭和60年に設立された松久仏像彫刻会館(京都市中京区御幸町三条下ル)に安置されている。
出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(313頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)
例)「松久宗琳」『日本美術年鑑』平成5年版(313頁)
例)「松久宗琳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10340.html(閲覧日 2024-11-01)
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