本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





松田黎光

没年月日:1941/07/25

国民総力朝鮮美術家協会理事松田黎光は7月25日腸チブスのため逝去した。行年43。本名正雄、鮮展初期以来の作家で鮮展参与となり帝展文展にも出品し、また江西双楹塚壁画の模写を成したので知られる。

佐藤功一

没年月日:1941/06/22

工学博士早稲田大学教授佐藤功一は肺炎症状で小石川区の自宅で療養中22日心臓衰弱を起して午後3時逝去した。享年64。明治11年栃木県に生れ、36年東京帝大建築科卒業後、42年には早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学、43年同大学教授となつた。大正8年工学博士の学位をうけ、爾来わが国建築学会の重鎮として活躍、幾多の建築を残した。過去39年間に建設された作品数は233の多きに及んだといふ。その他工芸審査会委員、日本学術振興会委員、会計検査院技術顧問員、大日本忠霊顕彰会顧問等となり、去る5月には建築界を代表して帝国芸術院会員に推薦されたところであつた。略年譜明治11年 7月2日栃木県下都賀郡に生る、大越東七郎次男、後佐藤茂八の養子となる明治36年 7月東京帝国大学工科大学建築科卒業、9月三重県技師明治41年 6月宮内省内匠寮御用掛明治42年 1月早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学明治43年 9月帰朝、早稲田大学教授大正8年 6月工学博士の学位を受く大正10年 9月東京女子高等師範講師大正12年 11月帝都復興院建築局事務嘱託大正14年 4月日本女子大学校教授昭和4年 8月大礼記念京都美術館建設委員会委員昭和8年 3月日本学術振興会学術部第十一常置委員昭和10年 12月帝国飛行協会評議員昭和11年 10月会計検査院技術顧問員昭和14年 3月国史館造営委員会委員昭和15年 5月大日本忠霊顕彰会顧問昭和16年 4月大日本国防衛生協会理事 6月22日死去主要作品には、宮城県庁舎、帝室林野局庁舎、栃木県庁舎、滋賀県庁舎、三会堂、東京市公会堂、飛行館、東京動産火災保険株式会社、日清生命保険株式会社本社、共同建物株式会社マツダビルデイング、藤本ビルブローカー証券株式会社東京支店、東京府農工銀行、不動貯金銀行本店、早稲田大学大隈記念講堂、津田英学塾校舎、駒沢大学講堂、日清製粉株式会社鶴見工場、神田神社、頼山陽先生遺蹟顕彰記念館等がある。

四谷正美

没年月日:1941/05/20

彫金家四谷正美は糖尿病のため5月20日逝去した。享年66。明治9年1月5日岡山県に生れ、明治32年東京美術学校彫金科卒業、大正14年には商工省東京府の依嘱をうけて外遊し、巴里万国工芸博覧会の審査員を命ぜられた。昭和9年帝展審査員となり、その他日本彫金会顧問、日本美術協会委員等にあげられてゐた。作品には帝展文展等の出品のほか、昭和4年作伊勢大神宮御神宝消金火桶や昭和10年作満洲国宮内府御用品銀製花瓶等がある。

鹿子木孟郎

没年月日:1941/04/03

京都の洋画家鹿子木孟郎は脳溢血のため左京区の自宅で静養中、尿毒病を併発し4月3日逝去した。享年68。明治7年岡山市に生れ、早く洋画に志して松原三五郎、小山正太郎にまなび、その後渡欧3回、ローランス、ルネ・メナールに師事した。第2回文展に出品した滞欧作「ローランス画伯の肖像」等は良く知られる作で、このほか明治神宮絵画館の「奉天入城図」支那事変に際して遊就館に納めた「南京入城図」等の大作がある。忠実な手がたい作風を示し、ことに肖像画は得意であつた。昭和7年には仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈られた。略年譜明治7年 11月9日岡山市東田町に生る、父は池田藩士宇治長守明治14年 この頃伯父の家をつぎ、鹿子木を姓とす明治21年 岡山高等小学校卒業、松原三五郎の天彩学舎に入る明治23年 東京に遊学せしも脚気のため帰郷、岡山中学予備校図画教員となる明治24年 10月肖像画家として岡山香川、徳島諸県を漫遊明治25年 11月東京へ再遊学、小山正太郎の不同舎に入る明治28年 中等教員図画免許状をうく、6月滋賀県彦根中学助教諭明治29年 8月三重県津中学校助教諭、教諭明治32年 4月埼玉県師範学校助教諭明治33年 11月渡米明治34年 4月渡米、6月仏国着、ジヨン・ポール・ローランスに師事、10月住友家の給費を受くるに決す明治36年 ベルギー、スヰス、イタリアに遊ぶ明治37年 4月帰朝、京都室町に住し、画塾をひらく、9月京都高等工芸学校講師明治38年 11月中沢岩太、浅井忠等と関西美術院創立明治39年 2月住友家の後援にて再渡仏、ローランスにつく 滞仏中仏国サロンに入選、アカデミー・ジユリアン一等賞牌をうく明治41年 1月帰朝、京都工芸高等学校講師、6月関西美術院長、第2回文展審査委員「ローランス画伯の肖像」「漁夫の家」「ノルマンデーの海岸」文展出品明治42年 第3回文展審査委員「新夫人」「浅間山中」「河原氏の肖像」文展出品明治43年 第4回文展審査委員、9月伊太利万国博覧会美術品出品監査委員「紀州勝浦」「林泉」文展出品明治44年 第5回文展審査委員、9月名古屋高等工業学校講師「アンスピラシオン」「舞子の浜」文展出品大正元年 第6回文展審査委員「鴨東の妓」「若王寺滝」「某未亡人の肖像」文展出品大正2年 第7回文展審査委員「加茂の競馬」文展出品大正3年 「水の流れ」「逍遥」文展出品大正4年 4月京都名古屋両学校講師辞職、6月関西美術院長辞職、12月渡仏、「札幌郊外」「書斎に於ける平瀬介翁」文展出品大正5年 2月仏国着、ローランスに師事、滞仏中ルネ・メナールにつく大正6年 11月出発、スペイン、米国に寄る大正7年 3月帰朝、5月京都下鴨に住し下鴨画塾を創む大正11年 11月京都美術協会常設委員「ボア・ド・ブーロンニユ」「牛」帝展出品大正13年 帝展審査員「加茂の森」「牧童」帝展出品「大正十二年九月一日」大正14年 「赤手空拳」帝展出品昭和元年 9月明治神宮絵画館壁画「奉天入城図」成る、11月京都美術協会評議員「和辻博士像」「紀州潮の岬」帝展出品昭和2年 「尾張磯浦」帝展出品昭和3年 1月大阪画塾を創む、8月大礼記念京都大博覧会美術鑑査員、12月国際美術協会美術展覧会審査員 帝展審査員 「田島博士」帝展出品昭和4年 8月大礼記念京都美術館委員、12月日仏協会京都支部理事「一つの林檎」帝展出品昭和5年 北海道へゆく、「北海道層雲峡」帝展出品昭和6年 6月大阪画塾閉鎖、帝展審査員「マドモアゼル喜多」帝展出品昭和7年 10月仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈らる、帝展審査員「大台ヶ原山中」帝展出品昭和8年 11月京都美術館評議員「大台山中の渓谷」帝展出品昭和9年 2月大阪三越にて個展、3月京都美術館美術展覧会顧問、同委員「浴女」帝展出品昭和11年 「陸中中野海岸」文展招待展出品昭和12年 「白薔薇」文展出品昭和13年 松風嘉定より「南京入城図」を依頼さる昭和15年 「南京入城図」成る、12月陸軍省へ献納昭和16年 4月3日没

山本瑞雲

没年月日:1941/03/13

彫刻家山本瑞雲は3月13日中野区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年75。号護月、慶応3年9月13日静岡県熱海市に生れた。明治13年出京、15年高村光雲の門に入り、明治23年内国勧業博覧会には「亀」を出品し、東京彫工会競技会には「鹿」を出して共に褒状を得た。25年大阪に移り33年再び上京したが、この間の諸種の展覧会に出品し、米国シカゴ博覧会出品の「垣野王」は銅賞牌を得た。その後仏像の製作補修にあたり、また諸種の模型を製作し、明治41年には東京彫工会競技会審査員におされ、43年には日英博覧会のため東京市から依嘱をうけて英国へ出張した。大正6年栴檀社を組織して木彫界の新運動のため気を吐いた。大正11年聖徳太子奉讃委員となり、昭和に入つてからも本郷東片町大円寺の聖観音、六臂如意輪観音、八臂不空羂索観音、八臂馬頭観音、十八臂準捏観音脇侍二龍人等を製作し、昭和11年には浅草寺待乳山祥天の毘沙門天、三方荒神両脇侍を作つて努力精進を重ねてゐた。

斎藤八十八

没年月日:1941/03/04

南支沿岸封鎖作戦に従軍中の洋画家斎藤八十八は3月4日西江右岸地区で戦死をとげた。年50、明治25年東京麻布に生れ、東城鉦太郎に師事し文展にも出品した。支那事変以来上海方面をはじめ、漢口、山東方面にも従軍し、今回は4回目の従軍であつた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

大塚金吾

没年月日:1941/03/04

南支沿岸封鎖作戦に従軍中の画科大塚金吾は3月4日西江右岸地区で斎藤八十八とともに戦死をとげた。年48、仙台に生まれ大正元年葵橋研究所に入学、黒田清輝に師事し、その後河北新報社東京支局に勤務してゐた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

渡辺小五郎

没年月日:1941/02/28

二科会の彫刻家渡辺小五郎は2月28日逝去した。享年31、明治44年宮崎県延岡に生れ、昭和10年東京美術学校卒業、同年以来毎年二科会に出品死後二科会々員におされた。

伊藤赳

没年月日:1941/02/16

帝室博物館鑑査官伊藤赳は2月16日東京滝野川の自宅において脳溢血のため急逝した。享年54。明治21年広島県に生れ大正9年東京帝大国史科卒業、翌年より帝室博物館に入り、服飾調度を担当して今日に及んだものである。

阿部七五三吉

没年月日:1941/01/23

図画手工教育に多数尽瘁した阿部七五三吉は1月23日逝去した。享年68。号見山。明治7年大分県に生れ、大分県師範学校を経て明治34年東京高等師範学校卒業、同年佐賀県師範学校教諭となり、38年東京高等師範学校助教授に転じた。大正14年同校教授となり、昭和10年退官、その後日本手工研究会々長、創作工芸会々長として斯界に貢献するところが大きかつた。著書多く「高等小学校手工科新指導」「小学校手工作方教方の実際」「手工作業工業、木材加工法」等々がある。

坂谷良之進

没年月日:1941/01/04

国宝建造物の調査と保存に一生を捧げた坂谷良之進は1月4日逝去した。享年59。明治16年坂谷明廬先生の孫として東京市に生る。明治40年東京美術学校卒業後内務省に入り、古社寺保存調査を嘱託せらる。大正7年奈良県技師に任ぜられ、同10年京都府技師に転じ、国宝建造物の修理を監督すると共に、京都帝国大学工学部及び神戸高等工業学校に建築史或は工芸史を講じた。昭和4年文部技師に任ぜられ、国宝建造物保存事業の技師的統率者として、専ら意を修理技術の向上と、後進の指導とに致した。国宝建造物修理技術が今日の如き発達を見るに至つたことは一に氏の努力の賜物である。昭和15年12月病によつて官を辞した。

船越春珉

没年月日:1940/12/26

鋳金家船越春珉は肺炎の為め下谷病院に入院中12月26日逝去した。享年73歳。日本美術協会顧問、日本彫金会々員であり、工芸界の長老であつた。

岩井尊人

没年月日:1940/12/18

岩井尊人は12月18日逝去した。享年49歳。奈良県の出身で、渡欧、ジヨージ・クラウゼン、スタンレー・アンダーソン、ピブワス等に絵画彫刻を学び、英国RBAの会員であつた、法学士で広田内閣の際には文相秘書官となつた。

小村雪岱

没年月日:1940/10/17

日本画家小村雪岱は10月17日脳溢血の為急逝した。享年54歳。明治20年埼玉県川越町小村繁門の長男として生れ、後書家安並賢輔の養嗣子となつて本名安並泰輔と称した。明治40年東京美術学校日本画科卒業、在学中は下村観山教室に学んだ。卒業後松岡映丘の門に入り画道精進の傍ら国華社に入り、古名画の模写に従事し、又「北野天神縁起」「平家納経」の一部の模写を東京美術学校の依囑により完成した。その間風俗考証によく通暁するところとなり、その独自の画風は国画院同人として認められるところがあつた。特にその舞台装置には異才を発揮し、その作品は大正13年以来300余の多きに達したが、就中「安土の春」「桐一葉」「藤娘」等はその最も代表的なものと称されて居る。尚一方挿画家としても令名があり、その繊細な風趣ある人物図は世に愛好せられ、泉鏡花作の「日本橋」に染筆したのをはじめとして多くの作品が遺されて居る。次にその遺作に就いて主要なものを列記する。舞台装置(脚本名) (作者名) (上演年月及劇場名)忠直卿行状記 菊池寛原作 林和脚色 大正13年8月 公園劇場安土の春 正宗白鳥 大正15年3月 新橋演舞場淀君小田原陣 松居松翁 大正15年4月 歌舞伎座黄門記 岡本綺堂 昭和2年1月 歌舞伎座桐一葉 坪内逍遥 昭和2年10月 歌舞伎座春日局 福地桜痴 昭和4年1月 歌舞伎座大菩薩峠 中里介山 昭和5年9月 歌舞伎座治承の秋 高山樗牛原作 姉崎正治脚色 昭和6年6月 歌舞伎座一本刀土俵入 長谷川伸 昭和6年7月 東京劇場岩倉具視 松居松翁 昭和8年4月 歌舞伎座藤娘 岡鬼太郎補 昭和12年3月 歌舞伎座秀頼の最後 真山青果 昭和12年4月 東京劇場挿絵(作品名)(作者名)(掲載年月及新聞名)多情仏心 里見弴 大正11年12月 時事新報闇に開く窓 里見弴 昭和4年9月 朝日新聞おせん 邦枝完二 昭和8年9月 朝日新聞突かけ侍 子母沢寛 昭和9年3月 都新聞お伝地獄 邦枝完二 昭和9年9月 読売新聞忠臣蔵 矢田挿雲 昭和10年10月 報知新聞浪人倶楽部 村松梢風 昭和10年12月 読売新聞旗本伝法 土師清二 昭和12年1月 東京日々新聞喧嘩鳶 邦枝完二 昭和13年8月 東京日々新聞両国梶之助 鈴木彦次郎 昭和13年9月 都新聞

長谷川利行

没年月日:1940/10/12

二科出品の洋画家長谷川利行は10月12日東京市養育院に於て逝去した。享年49歳。京都の生れで、大正14年以降二科に出品、昭和2年に樗牛賞を受けた。又屡々新宿天城画廊に個展を開催、奇矯な人柄と作風を知られてゐた。

金復鎮

没年月日:1940/08/18

彫刻家金復鎮は8月18日京城の自宅で逝去した。享年40歳。朝鮮忠清北道清州郡に生る。大正14年東京美術学校卒業後、左翼運動のため昭和3年より6年間囹圄の身となり、同10年より暫く京城中央日報学芸部長を勤務、又朝鮮美術院を創立して後輩の指導に当つた。帝展、文展に入選3回、鮮選では6回特選となり推薦であつた。大作に全北金堤郡金山寺の丈60尺の弥勒仏があり、又忠北報恩僧離山法住寺の丈80尺の弥勒仏を未完成のままで逝去した。

川北霞峰

没年月日:1940/08/14

京都の日本画家川北霞峰は8月14日逝去した。享年66。本名源之助、明治8年9月京都に生れ、幸野楳嶺、菊池芳文に師事した。文展初期より帝展に亘つて出品し、第6回帝展には審査委員となつた。その主なる作品に「晩秋」(第1回文展、3等)、「竹径春浅」(第2回文展、3等)、「浦の夕」(第3回文展、3等)、「渓間の秋」(第8回文展、3等)、「立川」(第9回文展、3等)、「海辺八題」(第10回文展、特選)、「吉野の奥」(第11回文展、特選)、「暮色」(第1回帝展)、「山寺の月」(第6回帝展)、「琵琶の音」(第13回帝展)等がある。又京都市立美術工芸学校に於て後進を指導した。

坂井犀水

没年月日:1940/07/31

美術記者坂井犀水は7月31日逝去した。享年70歳。本名義三郎、明治4年3月石川県に生れた。明治24年帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手に任ぜられしも、後辞し、関西学院等にて宗教を研究す。34年「東京評論」を発行、傍ら「美術画報」を編輯す。38年雑誌「月刊スケツチ」を発行、又白馬会機関誌「光風」の編輯に当る。42年「美術新報」主幹、後「美術」及び「美術週報」主筆となる。43年白馬会会員となる。大正2年国民美術協会創立に参与し、同会理事兼主事となつた。その著書に「画聖ラフアエル」(明治35年)、「日本木彫史」(昭和4年)及び「黒田清輝」(昭和12年)がある。

岡不崩

没年月日:1940/07/29

日本画家岡不崩は7月29日逝去した。行年72。本姓名和氏、名吉寿、初め蒼石と号す。明治2年7月福井県に生る。弱冠東京に出で、狩野友信及び狩野芳崖に師事し、明治22年東京美術学校に入学した。翌23年9月東京高等師範学校講師となり、毛筆画の教育に尽瘁す。28年辞し、一時九州に赴いたが、33年東京に帰り、府立第二高等女学校教諭兼女子師範学校教諭に任ぜられた。35年同志と謀り、真美会を創立し、自ら理事となり活躍す。晩年画界を退き、専ら意を古事、古典の研究に注ぎ、就中万葉集に関する貴重なる研究を遂げた。即ち刊行されたるものに「万葉集草木考」「古典草木雑考」があり、外に未定稿本多し。

乾南陽

没年月日:1940/06/29

日本画家乾南陽は6月29日瀧野川の自宅で逝去した。本名長光、明治3年高知に生る。同30年東京美術学校を卒業、橋本雅邦、山名貫義、下村観山に師事、一時教職にあつた。旧文、帝展に数回出品せるほか、聖徳記念絵画館の「五箇条御誓文之図」及び東京府養正館の壁画等を執筆し、最近は東台邦画会、日本画会の会員であつた。

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