イサムノグチ

没年月日:1988/12/30
分野:, (彫)

 世界的な彫刻家として活躍した日系米人イサム・ノグチは、12月30日午前2時半(日本時間同日午後4時半)肺炎のため入院中のニューヨーク大学付属病院で死去した。享年84。1904(明治37)年11月17日、英米詩壇にヨネ・ノグチとして知られた詩人野口米次郎とアメリカの女流作家レオニー・ギルモアの長男として、ロサンゼルスに生まれる。1906(明治39)年家族とともに帰国、少年期を過ごし、小学校卒業後1918(大正7)年渡米する。1919年(以下西暦で略記)より翌年にかけて彫刻家ガストン・ボーグラムに彫刻を学び、25年ナショナル・スカルプチャー・ソサエティの会員となる。同22年ニューヨーク・コロンビア大学に入学、薬学を学び、27年卒業する。この間、在学中の24年よりレオナルド・ダ・ヴィンチ芸術学校に学び、27年コロンビア大学卒業後、グッゲンハイム奨学金を得て渡仏。ブランクーシに師事しそのアトリエに出入りする一方、パリのグラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌28年いったん帰米し、ニューヨークのユージン・シェーン・ギャラリーで初個展を開催。30年再渡仏、さらに日本、北京、ベルリン、モスクワを経て31年帰米する。この間、日本で宇野仁松に陶芸、北京で斉白石に水墨を学ぶ。帰米後、35年マーサ・グラハム舞踏団の舞台装置を制作。同35年から翌年にかけてメキシコに滞在し、41年にはアーシル・ゴーキーとアメリカを横断旅行している。38年AP通信ビル玄関に設置するステンレス・スティールのレリーフ・コンペで1等賞を受賞、一躍名を知られる。戦後51年女優山口淑子と結婚(55年離婚)。52年広島市の依頼により設計した平和記念碑が、抽象的すぎることなどを理由に採用を拒否されるといったこともあったが、54年の「あかり展」は、紙、竹、鉄による彫刻として話題を集める。56年から58年にかけてパリ・ユネスコ本部の日本庭園、61年から64年にかけニューヨーク・チェイス・マンハッタン銀行の庭、70年大阪万博噴水、77年シカゴ・アート・インスティテュート噴水、82年カリフォルニアの彫刻庭園「カリフォルニア・シナリオ」の設計、84年フィラデルフィア・ベンジャミン・フランクリン記念のための「ライトニング・ボルト」などを制作。舞台美術からインテリアデザイン、石彫と幅広く活躍する。National Institute of Arts and letters,American Achademy of Arts and letters,American Achademy of Arts and Science,Architectural Leagueなどの会員でもあった。61年ニューヨークのロングアイランドにアトリエを構え、85年にはクィーンズ区ロングアイランドシティに「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」を完成。マンハッタン・イースートサイドの自宅マンションから同館へ通い、同館と香川県木田郡牟札町に設けたアトリエを拠点に世界を飛び回る多忙な生活を送った。当初、その活動は日米の中間で定位置を確保できなかったが、終戦直後ニューヨーク近代美術館で行なわれた「14人のアメリカ人展」に選ばれ世界的に名を知られるようになり、86年のヴェネツィア・ビエンナーレにはアメリカを代表して出品。68年ホイットニー美術館で回顧展、80年には同美術館50周年記念イサム・ノグチ展を開催している。東西両洋を融合させた作品は「三次元に書かれた書」とも評され、晩年の石彫は自然の性質を生かし枯淡の妙味を示した。代表作は上記のほか、広島の平和大橋、イスラエルのエルサレム国立美術館(60-65年)、メキシコ市の浮き彫り記念碑(35-36年)などがあり、著書に『イサム・ノグチ ある彫刻家の世界』(69年)がある。86年第2回京都賞精神科学・表現芸術部門賞、88年春の叙勲で勲三等瑞宝章、87年レーガン大統領より国民芸術勲章を受賞している。88年12月初めよりイタリアのティエトラ・サンタ市のアトリエで制作し、ニューヨークに戻った16日、疲労による肺炎のためニューヨーク大学病院に入院。23日から悪化し集中治療を受けていた。没後89年2月大阪ガレリア・アッカでブロンズによる新作展が開催された。晩年はマンハッタンのマンションに一人住まいだったが、東京に実弟の写真家野口ミチオ、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに妹のアイリス・スピンデンがいる。

出 典:『日本美術年鑑』平成元年版(280頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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