荒井陸男

没年月日:1972/07/06
分野:, (洋)

 明治神宮絵画館の壁画「水師営の会見」の作者として殊に著名な荒井陸男は、7月6日午後3時15分、心不全のため東京・渋谷区富ヶ谷の井上病院で死去した。享年86歳。告別式が8日午前11時から世田谷区松原2の28の5の松原カトリック教会で、喪主とみ子夫人により行なわれた。明治18年9月1日、徳川幕府海軍奉行荒井陸奥守(郁之助=後の初代中央気象台長)の六男として芝区で生れた。芝西久保の鞆絵小学校をへて麻布中学、日本中学、京都・同志社などで学業を修めたが、幼少のころから持って生れた画才に対する自信が強く、一族の反対を押し切って画家を志し、自力で海外留学を思い立ち、明治42年渡英、ロンドンのシッカー美術学校に学び、2年後には当地の新聞雑誌の絵画寄稿家としてその名を唱われるようになった。以来、大正・昭和と三代にわたって活躍した注目すべき画蹟の程は、下記の略年譜によってその大略を窺うことが出来るが、近代日本の洋画界にあって終始無所属をつらぬき、独立独歩、孤高に生きながら、しかも有数の歴史記録画・肖像画・海洋画の類を描きのこした希有で特異な存在として、彼の偉大な画業は、後々までも高く評価されるであろう。なお知己親友らによって書かれた主要参考文献として、「荒井画伯と毛主席肖像 山崎猛」、「洋画家荒井陸男を語る 長谷川如是閑」などがある。
略年譜
明治18年 9月1日、荒井郁之助の六男として東京、芝区で生れる。
明治42年 英国ロンドンに行く。
大正3年 第一次世界大戦中、海軍従軍画家として数多くの海洋画を描く。
大正10年 家族と共にフランスに行く。
大正12年 1月帰国。鎌倉にて関東大震災に遭う。翌年、旅順に行き旅順開城の下絵を描く。
昭和3年 「旅順開城、乃木大将とステッセル会見の図」(明治神宮絵画館)完成。
昭和14年 前年、濠州に行き取材、この年第一次世界大戦中印度洋における日英協同作戦の「軍艦伊吹、濠州ニュージランド軍隊護衛」(濠州カンベラの戦争記念美術館所蔵)を完成。
昭和20年 5月戦災にて東京自宅焼失。26年まで軽井沢の別荘で暮らす。其の間、徳川家正公をはじめ、終戦後米軍アイケルバーカー中将その他の将校、および「最高裁判所三淵長官の肖像」(最高裁判所所蔵)を描く。
昭和31年 「日中貿易協定・東京調印式の図」を夏に完成、晩秋、中国より国賓として招待され、その画を携えて北京に渡る。毛沢東主席の肖像画を側近者から懇請され受諾。折りあしく肺炎にかかり翌春帰国する。
昭和40年 3月14日自宅及びアトリエ全焼、7月新築する。去る32年秋8分どおり完成の毛主席の肖像画をアトリエにて焼失。
昭和47年 7月6日死去。10年以上前より描き始めた海洋気象台を中心に幕末の人物40人を含む群像の大作が未完成のままとなる。

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(81頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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