神原泰

没年月日:1997/03/28
分野:, (洋)

 画家・詩人として大正期の前衛芸術運動の指導者として活躍した神原泰は3月28日午後9時2分、心不全のため横浜市南区の佐藤病院で死去した。享年99。明治31(1898)年東京に生まれる。白樺派の正親町公和、園池公致と従兄弟であり、父親同士が親しかったことから有島生馬と幼少期から親交があり、雑誌「白樺」に紹介された西洋美術の新しい動向に早くから興味を抱いた。大正4(1915)年4月号の「美術新報」に掲載されたウンベルト・ボッチオーニ著・有島生馬訳の「印象派対未来派」に啓発されてマリネッティと直接文通するなど、積極的に未来派の研究を進めた。同6年に雑誌『新潮』や『ワルト』などに強烈な色彩と運動感をうたった未来派的な詩を発表。同年第4回二科展に「麗はしき市街、おゝ複雑ないらだちよ」で初入選。同年石油会社に入社し社員として勤務するかたわら、二科展に出品を続ける。同9年10月に東京丸の内の鉄道協会で「生命の流動、音楽的創造」と題して個展を開催し、同時に「第1回神原泰宣言」を発表。当時の画界を激しく批判して注目をあつめた。同11年中川紀元矢部友衛らとともに、二科会で未来派的作品を発表していた古賀春江、横山潤之助や未来派美術協会に参加していた浅野孟府らに呼びかけて美術団体「アクション」を結成。同12年4月東京三越呉服店7階で「『アクション』第1回造形美術展覧会」を開催し、その作品目録に「『アクション』同人宣言書」を発表した。同宣言は「アクション」が同じ主義を持つ作家の集団ではなく、「前衛たらんとする熱情と喜び」を共にする団体であることをうたっているが、同13年10月に解散する。同月、神原を含む同会の同人の一部を中心に美術団体「三科」が結成される。また、同年11月に「造型」が結成されるとこれにも参加した。同14年アルス社から『ピカソ』を刊行。同年イデア書院から『未来派研究』を刊行する。昭和2(1927)年、「造型」が「造型美術家協会」に再編成されると同会には参加せず、以後、美術界の最前線からは距離をおいた。その後の作品の発表としては、同8年東京神田三省堂で「鎌倉の最後のハイカラな海辺風景」と題する個展があるが、出品作に海水浴風景などが含まれていたため、時節に不適切であるとして即日閉会となり、作品はすべて警視庁に没収された。同11年東京銀座伊東屋で検挙・拷問ののち難渋する岡本唐貴を援助する趣旨で開かれた「画友展覧会」に油彩画2点、素描1点を出品。戦後の同47年5月に東京銀座の日動サロンで「シンガポール・乳房-神原泰絵画展」が開かれ、同61年東京の南天子画廊で「神原泰 戦後作品自選展」が開催されて、大正期の抽象表現を基盤として継続されてきた画業が紹介された。神原は「人類の美術史上初めて絵画である絵画をつくった」画家として、パブロ・ピカソを高く評価し、生涯その研究・紹介に努め、そうした活動のなかで収集した蔵書のすべてを、昭和50年前後に岡山県倉敷市の大原美術館に寄贈した。平成2(1990)年、大原美術館から「神原泰文庫目録」が刊行されている。前述以外の著書に『ピカソ礼賛』(岩波書店 昭和52年)などがある。一方、石油業界でも活躍し、昭和53年に石油統計の業績により第1回大内賞を受賞したほか、世界石油会議日本国内事務局長などを歴任した。

出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(392-393頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「神原泰」が含まれます。
to page top