吉田幸三郎

没年月日:1980/03/07
分野:, (美,関)

 古典芸能界に権威ある存在として、また速水御舟の著作権管理者であり、御舟作品の鑑定を専らにすることにより知られた吉田幸三郎は、3月7日腎不全のため北品川総合病院で死去した。享年93。1887(明治20)年2月27日東京市芝区に、天保年間創業の呉服商豊田屋の三男として出生した。父弥一郎。母★う。父弥一郎はのち現在の品川区、目黒区において、貸地業をも兼ね営んだ。1892年同所に移居し、翌年3月芝区白金小学校に入学、1905年私立麻布中学校を卒業した。1907年1月早稲田大学史学科本科に入学、同年4月英文学科に転科した。同年10月坪内逍遥の推挙により文芸協会研究所に入り、1910年5月同所を卒業した。研究所入所後は坪内逍遥、島村抱月、松井松葉の舞台監督助手を勤めたが、協会の業務繁忙のため、大学は1909年11月本科3年の折中退した。12年春研究生出身代表として、文芸協会幹事に推挙された。13年同協会解散後は第1期研究生等の結成した舞台協会の主事となり、約3ヶ年同劇団の演出監督を勤めた。14年12月には今村紫紅を中心に速水御舟、小茂田青樹ら新鋭日本画家と赤曜会を起し、新日本画運動に意欲的に参画、15年秋には舞台協会のことは小宮豊隆、山本有三に托して新劇運動を離れた。この間日本美術院再興に関与し、また原三渓、中村房次郎後援のもとに青年画家育成のため尽力した。1919年より約15年間、七條憲三と協同して芝区西久保広町に印刷所を経営し、主として美術出版に従事した。同年2月、中川忠順、上野直昭福井利吉郎田中親美、小堀鞆音、安田靫彦、七條憲三等と大和絵同好会を企画し、絵巻物複製の刊行に当り、また古典保存会の出版にも関与、三十六人家集その他数多くの水準高い複製類の出版を行い、また別に22年、高見沢遠治、上村益郎とともに浮世絵保存刊行会を結成、会員組織による浮世絵複製の版行に当った。24年1月26日、父弥一郎死亡し兄2人早逝のため家督を相続。第2次世界大戦勃発後は、片山博道、武智鉄二、鴻池幸武等との交誼を得て、関西における芸能運動である断弦会に参画し、東京においては同会の姉妹団体として花友会を起し、戦時中も活発なる芸能発表を催行した。一方田中啓文の主宰した長唄国光会に関与、同人没後はその会の継存に努力した。また古曲鑑賞会を再興し、73年まで、その理事長の任に在った。そのほか関与した芸能団体には、山城会、温心会、声韻会、河東節十寸見会、荻江節荻江会等がある。文部省の外局として文化財保護委員会が設置されてから、51・2年度、専門審議会専門委員(無形文化財)を勤め、50年度より60年度まで芸術祭執行委員に在任、そのほか文部省芸術選賞選考委員、国立劇場建設準備委員、日本文楽協会専門審議会委員、能楽協会三役養成委員を勤めた。55年、古典芸能の保存と育成に対し、文部大臣芸術選賞を、60年、文化財保護委員会より文化財功績者表彰を、昭和61年、日本文学振興会より菊池寛賞を、62年、紫綬褒賞を、65年、日本舞踊協会より功績表彰状を受けた。
なお速水御舟に関する執筆つぎの通り。
速水御舟論 中央美術 5-8 大正8年8月
速水御舟逝く 美術評論 4-3 昭和10年4月
御舟のことども 阿々土別巻2 昭和10年4月
速水御舟特輯号 美之國 11-5 昭和10年5月
追悼速水御舟氏 アトリエ 12-5 昭和10年5月
速水御舟のえらさ 美術評論 4-8 昭和10年11月
人間御舟を語る 産業経済新聞 昭和29年3月1日
速水御舟の偽作談義 画集紫朱-便利堂 昭和51年10月刊。非売品
速水御舟の鑑定 芸術新潮336 昭和52年2月
美しい心の人 速水御舟作品と素描 光村図書刊。昭和56年3月

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(244-245頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「吉田幸三郎」が含まれます。
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