丹下富士男

没年月日:1962/08/04
分野:, (洋)

一陽会員丹下富士男は8月4日、日本歯科医科大で死去した。享年60才。父は農林省技官で、日本馬の品種改良に尽した人で、その四男として明治35(1902)年岩手県種馬所で生まれたが、その直後上京し東京で育った。番町小学校、成蹊中学校卒業大正8年(1919)後川端画学校を経て、東京美術学校油絵科に入学(大正10年)藤島教室に学んだ。在学中に「オーケストラ」で帝展に初入選したが、酒を好み体をこわして、美術学校卒業後(大正14年)病床につくことが多かった。昭和3(1928)年の暮に山川亮子と結婚した。同7年19回二科展に初入選(「波止場」)。それ以後二科展会に毎年出品し、昭和14年には特待となり、昭和16年には会友に推薦される。また古河電気株式会社の宣伝部に、昭和17年まで週2回勤務してインテリア・デザインを主に担当した。この間昭和10年には5ケ月間ほど台湾に滞在。二科会出品作品を列挙すると「室内」(20回)、「遊ぶ馬」(21回)、「コンポジョン」(22回)、「岡と桃畑」(23回、焼失)、「晴れ間」(24回)、「庭」(25回)、「中間種応召」(26回)、「障害(馬の)」(27回)、「えんばくがら」(28回、「新馬図」(29回)、「帰厩」(30回)、であり、このころから戦争が激化して絵を描くことが困難になり、日本ゼラチン株式会社に入った。昭和19年10月には二科会も一時解散し21年に31回展が開かれるが、丹下富士男が出品するのは23年(33回展)からである。26年から再び会友になった。「踊り」(34回)、「スポットライト」(35回)、「スポットライト」「バレー」「サーカス」(36回)、「人と馬A、B」(37回)、「曲馬」「海」(38回)、「月」「曲馬」(39回)と二科会に出品して来たが昭和30年7月二科を脱退して一陽会創立会員となる。一陽会への出品は「隅」「台所」「海」「食後」「曲馬」「明暗」(1回)、「静物」「漁港」「静物」「登山電車」「台所」(2回)、「台所」「キュイジーヌ」「静物」「静物」「楽器をもつ女」(3回)、「魚の静物」「灯台のある風景」「山幸海幸」「富士のみえる風景」(4回)、「静物」「仔馬」「舟」(5回)、「灯台」「静物」「桃」(6回)、「碁盤乗」「海」「駒」(7回)、「馬の群」「花束を持つ少女」「海」「二人」「花」(8回、遺作陳列)であり、この間昭和33年4月には新橋の画廊ひろしにおける個展に25点の作品を出品している。

出 典:『日本美術年鑑』昭和38年版(140頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「丹下富士男」『日本美術年鑑』昭和38年版(140頁)
例)「丹下富士男 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9136.html(閲覧日 2024-04-26)

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