斎藤忠 (さいとうただし)

没年月日:2013/07/21
分野:, (学)

 考古学者で元東京大学教授、大正大学名誉教授の斎藤忠博士は7月21日、老衰のため死去した。享年104。
 1908(明治41)年8月28日生まれ。生後ほどなく仙台市に移る。1926(大正15)年3月宮城県仙台第二中学校卒業、同年4月第二高等学校文科甲類入学、1929(昭和4)年4月東京帝国大学文学部国史学科入学、32年3月卒業。卒業論文題名は「本邦古代に於ける葬制の研究」。考古学を学ぶため、同年6月黒板勝美の紹介で京都帝国大学文学部考古学研究室に移り、濱田耕作の斡旋で同大学文学部副手に就任。33年年6月、奈良県史蹟名勝天然記念物調査嘱託となり県内の遺跡調査に従事、12月には朝鮮古蹟研究会研究員として有光教一とともに慶州の古墳調査に参加する。京都帝国大学文学部副手併任のまま34年5月に朝鮮総督府古蹟調査及び博物館嘱託の辞令を受け、慶州博物館陳列主任となる。慶州では皇吾里109号墳・14号墳などの調査を、また石田茂作とともに扶餘軍守里廃寺の調査に参加する。37年12月には京城の総督府博物館勤務となり、引き続き軍守里廃寺や平壌の上五里廃寺調査などを行った。
 40年5月、文部省史蹟調査嘱託として東京に戻り、47年9月には文部技官に任命される。戦時中から戦後にかけては全国各地の史蹟調査やその現状変更要望への対応等を行ったが、この頃保護に尽力した史蹟には北海道モヨロ貝塚、福山城、福岡県王塚古墳といった重要遺跡がある。48年4月に設立された日本考古学協会では幹事に選任され、50年8月の文化財保護法施行に伴う文化財保護委員会の設置に従い保存部記念物課に初代の文化財調査官として任命された。この時期には国営調査の責任者あるいは地方自治体調査の団長や顧問などとして、愛知県吉胡貝塚・秋田県大湯環状列石・岩手県無量光院跡・日光男体山頂遺跡・信濃国分寺遺跡・下野薬師寺跡・静岡県賤機山古墳・平城宮跡・山口県見島ジーコンボ古墳群・福岡県志登支石墓など多くの発掘調査を行っている。
 55年5月に戦前の半島での遺跡研究の成果などにより東京大学文学博士学位を授与された(学位論文「新羅文化の考古学的研究」)。また53年以降には文化財調査官のまま東京国立博物館学芸部考古課、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長を歴任し、各地の大学にて教鞭を取った。さらに65年4月には文化財調査官との兼務で(1966年3月まで)、東京大学文学部教授に就任した。69年3月に東京大学を退官し、翌70年4月大正大学教授就任、83年3月に定年退職した。大学勤務以降は国(宮内庁書陵部委員会委員ほか)や地方自治体委員など多くの役職に就くが、大正大学退職前年の82年4月に就任した静岡県埋蔵文化財調査研究所所長の職は、2008(平成20)年3月に100歳で退任するまでの26年もの間務めることとなった。
 これら一連の業績により、78年に勳三等瑞宝章を授与され、また死去により天皇・皇后両陛下より祭粢料を賜った。
 氏の学問的足跡は中学生時代の遺跡調査に始まり、大学での文献史学専攻を挟んで、その後再び考古学へと至る80年を優に超える長きにわたる。またそのフィールドは戦前の朝鮮半島各地での調査から、帰国後の日本全国に活動の場を広げた数多くの遺跡に及んでいる。こうした経歴や多くの人々との交流を基にした氏の研究成果は幅広く、それに裏付けられた著作物は700編を凌駕し、単著の単行本は90冊を数える。こうした氏の業績について簡潔にまとめるのは困難であるが、美術史に関連するものを上げれば、日朝壁画古墳についての研究や、半島の古代および高麗時代寺院や文様〓などの仏教美術研究、また中国の寺院史研究といった、日中韓の文化交流に関する研究などが注目される。さらに生涯を通じた文化財の保全活動や日本考古学史に関する多くの著作も重要な事績である。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(460頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2019年02月13日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「斎藤忠」が含まれます。
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