林昌二

没年月日:2011/11/30
分野:, (建)
読み:はやししょうじ

 建築家の林昌二は11月30日、東京都内にて心不全のため死去した。享年83。
 1928(昭和3)年、東京市小石川区(現、東京都文京区)に生まれる。45年東京高等師範学校附属中学校卒業。東京工業大学工学部建築学科で清家清に学び、53年に卒業後、日建設計工務株式会社(現、株式会社日建設計)に入社。以後、同社のチーフアーキテクトとして活躍し、73年取締役、80年副社長、1993(平成5)年副会長・都市建築研究所所長を歴任し、2011年3月の退任まで同社顧問を務めた。
 55年の旧掛川市庁舎に始まる担当作品は、62年の三愛ドリームセンター(日本におけるDOCOMOMO100選)を経て、代表作となる66年のパレスサイドビルディング(日本におけるDOCOMOMO20選)を生む。戦後日本のオフィスビルとして最高傑作の一つと言えるこの建築では、欧米で主流となっていたセンターコアシステムを採らずにエレベーターや水回りを収めたシャフトを両端部に配する独創的プランを考案し、当時としては最大規模の容積率を充足しながら、新技術に裏打ちされた美しいプロポーションや各所にちりばめられた細やかなディテールなど、五十年近くを経た現在も全く古さを感じさせない。
 林は建築誌上等に多くの文章を書いているが、74年に建築史家の神代雄一郎が発表した論考に端を発した、いわゆる「巨大建築論争」では組織設計事務所の立場を代表して「その社会が建築を創る」(『新建築』1975年4月号所収)と反駁しており、総合的技術力が初めて可能にする建築を生み出し続けていることへの強い自負が感じられる。
 日本建築学会作品賞を受賞した71年のポーラ五反田ビルや82年の新宿NSビルなど、オフィスビルを最も得意としたが、妻の林雅子と共同設計した自邸「私たちの家」(Ⅰ期1955年、Ⅱ期1978年)も佳作として知られる。
 90~92年新日本建築家協会会長。同名誉会員、米国建築家協会名誉会員、日本建築学会名誉会員。80年「筑波研究学園都市における研究および教育団地の計画と建設」で日本建築学会業績賞受賞。
 著作に『建築に失敗する方法』(彰国社、1980年)、『私の住居・論』(丸善、1981年)、『オフィスルネサンス インテリジェントビルを超えて』(彰国社、1986年)『二十二世紀を設計する』(彰国社、1994年)、『建築家林昌二毒本』(新建築社、2004年)、『林昌二の仕事』(新建築社、2008年)などがあり、主要作品は『空間と技術 日建設計・林グループの軌跡』(鹿島出版会、1972年)などにも収録されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成24年版(439-440頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「林昌二」『日本美術年鑑』平成24年版(439-440頁)
例)「林昌二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204372.html(閲覧日 2024-04-27)

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