本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年11月11日

 十一月十一日 金 曇 朝の九時の便で和郎からの手紙着く 土曜日ニ此処ニ来ると云てよこしたから車など申付けて置く 日本へ手紙を出ス 和郎の手紙ヲ久米公ニ送てやる ひるめしハ鞠の処で食ふ 食後二時頃から夕方迄手本なしで描ク 四時頃ニ和郎からの電信届ク あしたハ来ズニあさつて来るとの事 其通り都合す 夜八時から九時迄美陽方で遊ぶ 如類寿とかるたを取る 今日のひるめしニ鞠が鶏の汁デ米ヲにテ食ハした 中々甘し 夜食ニハ例の羊ヲ食た もう今夜限であの羊ハ食ヒ取たのだろうと思ふ 夜食ハちやアーんとこしらへてオレの穴蔵に霜菜が持て来て呉れた 丸デ牢屋に這入て居る人間の生活の如シト思ハれて面白シ

1892(明治25) 年11月12日

 十一月十二日 土 朝川村純蔵からの端書が届く ひるめしハ鞠の処で食ふ ひる後うす暗く為る迄ケシの花を描ク 霜菜の内ニ夜話ニ行テ豚のあぶらみのきりかたの手伝ヲやらかす ひる後の便で久米 河北からの手紙が来た 今日出シタ手紙ハ久米等へ一通と祖山 曾我 小僧等へ端書

1892(明治25) 年11月13日

 十一月十三日 日 酒一本と缶詰の海老を持て鞠方へ昼めしを食ヒニ行く(めし前ニ一時間半程ケシの花を研究す) 二時の汽車ニ和郎を迎ニ行 和郎来らず 村へ帰つて鞠方にて奴類寿が大きなブロツシエ魚を釣り上げるのを見た 五時ニ又気車ニ迎ニ行く 今度ハ来た 一緒ニ宿屋で食事ス 九時過ニ別れて内ニ帰る 留守に鞠連がおみき頂ニきたと書置がして有つた 内へ帰て居たら又やつて来た 二三分間がやがやつまらネえ笑ヒ話シナドシテ行て仕舞上つた 鞠の内の門口迄送て行て帰る 時ニ十時半也 今日ひる後ニ久米公からの端書受取 古巣にやつた本の事の返事也

1892(明治25) 年11月14日

 十一月十四日 月 朝の便で久米 川村 寺尾等へ端書を出す 朝めしハ宿屋で食ふ ひるめしハ穴蔵也 食後和郎と鞠の処ニ酒徳利一本持て行く 外聞が悪いと云て其切角持て行た徳利を又持て帰る事さ 後庭で四時迄勉強す 朝も一時間半程やつたが和郎が居たのでいつもの様ニハ身が入らず 和郎が我が内ニ来る或ル人ニ出す手紙の下書だと云テ奴の色事ニ付て今迄起た事の云ヒ訳とどうかして親達が婚礼を承知して呉れる様ニ世話して呉れと云頼みの文の長たらしいものを読で聞かした 今日ハ非常ニ天気がいゝので草原ニふつてる露が日ニ照らされて青だのなんだのの色ニきらきらして居るのを見ながら聞て居た処で一句浮だり  世の中ハ秋のあれ野ニをくつゆのきえうせぬ間の色々の玉 四時から五時半頃迄和郎と散歩ス それから和郎が内ニ来て六時半頃迄話す 今夜のめしハ霜菜がちやーんとこしらへて置て呉れたから心配なし 和郎が帰たので直ニめしヲ食ヒ始メた 殆んど食ヒ終らんとして居る処ニ昨日如類寿が釣た魚の料理したのを一皿霜菜が持て来て呉れた 食後美陽家ニ一寸行き後宿屋ニテ九時半頃迄和郎 ブツフアール(巴里の美術家)と夜話ス 昼後の便で新二郎からの手紙が来た うれしい

1892(明治25) 年11月15日

 十一月十五日 火 天気よし 朝九時少し過美天の妻が巴里ニ立て行ので別れを云て来たから一緒ニ美陽方迄行て見送る 後屋敷ニ仕事シニ行く 和郎がやつて来たが直ニ帰て行た 昼めし後一寸宿屋ニ立寄る 二時頃から夕方迄霜菜を手本として仕事とす 和郎 ブツフアールと舟遊をやらかす 五時半頃から七時頃迄和郎が内ニ帰て話した オレが筆を洗ていたら霜菜がそうつと来てオレを驚かそうと思ヒわアツと云たからオレが二階ニ和郎が居ると指したらあつちやこつちらニびつくり大笑 七時半頃から八時少し過美陽方にて寿とカルタを取る それから宿屋ニ行て九時半頃迄和郎のしやべるのを聞く 帰へる前ニ野ニ行て極楽浄土 内へ帰て久米へやる手紙をかく 今朝新二郎へやる端書を鉄道局の箱ニ入れて呉れと美天の壺ニ頼で出す

1892(明治25) 年11月16日

 十一月十六日 水 朝新二郎へ出す手紙ヲ書く 昼後ハ例の如ク庭で夕方迄仕事す 今日ハ曇天気だがあたゝか也 昼後の便で寺尾君からお金が返へして来た 四時十五分頃丁度画をやめ様として居る処ニ和郎とブツフアールと舟で迎ニ来た一緒ニチヤドウイクの明屋敷を見学す 和郎が内ニ来て七時迄話す 夜食後美陽方ニて寿とカルタを取る 八時頃ニ鞠 美天 寿等を門口迄送て行てから墓場の上の方を散歩しのぐる 内へ帰つてから茶碗皿の洗ヒ方をやらかす 今日小僧ニ端書で Ecole des Artist metiers の規則書を貰て送て呉るゝ様ニ頼でやる 新二郎の為也

1892(明治25) 年11月17日

 十一月十七日 木 朝ケシの葉ヲ研究す 昼後ハ肖像 夜食後ハ美陽家に行てから宿屋ニ行く 加奈陀人のキルナと米人のコリンが着て居た お酒ナドの御馳走ニ為り九時半頃迄話ス コリンハ二年振計に此の村ニ来たのだ 親しく付合た事ハネへけれど米人中でハ中々いゝ奴也と思はる 内へ帰てから小説ナド読み十時頃から日本へ出す手紙を書き始む 一時過ニ床ニ入る 和郎の色事一件の略を書てやつた 和郎ハもう自分の身の上話をすつかりブツフアールニして仕舞たそうだ ブツフアールも和郎のしやべる事ニハ閉口して居るとの事 話し好きと云者も随分困たもんだわい

1892(明治25) 年

 十一月十七日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益安康奉大賀候 次ニ私事元気にて勉強致し居候間御休神可被下候 新二郎よりも二三日前ニ便有之達者ニテ修行の由学校も十一日限とかにて休暇ニ相成候との事ニ御座候 友人バンハルトランと申白耳義人五六日前より此村ニ逗留致し居候 此の者ニハ去る明治十九年ニ松方氏の引合せにて始めて知り合ニ相成其翌年から三夏つゞけて奴の別荘なるブランケンベルクと申処ニ招かれて参り厄介ニ相成候 其後今日ニ至る迄始終手紙のやり取り致居候処今度家内ニ苦情が起り一と先づ国を去ると云段ニ為て見れバ仏蘭西ニハ私と久米氏の外ニハ別ニ知人も無くこれニ私の居る処山水もよく閑静なりと云ので私を尋ねて参り候事ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年11月18日

 十一月十八日 金 今日ハ又少し寒く為た様也 曇也 早お昼で鞠の処ニ行く 奴等と一緒ニ豆茶ヲ飲み直ニ仕事ヲ始む 四時迄勉強す 一昨日から被物の模様を描てるがなかなか暇が入るわい 仕事を仕舞て和郎と舟こぎをやらかす 後宿屋に行てキルナ コリン等ニ一杯づゝおごる 夜食後ハ美陽方でちよいと寿とカルタを取りそれから宿屋で皆が玉突をするのを八時半頃迄見て帰る それから人形造りを始め十二時半ニネる

1892(明治25) 年11月19日

 十一月十九日 土 朝ハ人形造をやらかした計也 昼後ハ気候が寒いので霜菜を手本ニする訳ニ行かず洗濯屋の娘を雇テ仕事す 夜食前和郎が話ニ来た 夜古巣の内ニ行て十時半頃迄話す 内へ帰つてから又人形をいぢくり一時頃ニ為る

1892(明治25) 年11月20日

 十一月二十日 日 朝十時半頃ニ古巣の処ニ行く 二三日前からひネくつて居る人形を見す 古巣がオレの大きな肖像用ニ夏の景色を二枚程かして貰れた 古巣の妻君がオレの額ニ描くばらの花を取りニシヤドビツクの留守宅ニオレを連れて行つた 門迄行たが鍵を取てる婆がのらニ出て居ネへので内へ這入訳ニ行かずそれから鞠の処ニ古巣の妻君を連て行てオレのかきかけの肖像を見せた 色々面白い意見を云て呉れた 昼後ハ其肖像を手本なしでいぢくる 又寿と池に網を引た 小さな魚が二三匹取れた計也 三時半頃から和郎が来てしやべる 四時半頃ニ昼を仕舞て内へ帰る 和郎七時頃迄話す 夜食後直ニ美陽家ニ行き米の菓子の御馳走ニ為る 後宿屋ニ焼酎買ヒニ行く 村の若い者共六七人台所ニ集て豆茶など飲て居たので皆ニ酒を一杯づゝおごつてから美陽家ニて御みきを戴きながら十時少し前迄話す 鞠と美天小僧を奴等の内迄送ってから又宿屋ニ立寄る 和郎ハ早寝て仕舞たとの事 ブツフアールトコリンニ逢ふ 昼後の便で久米公からの手紙着 奴の為換券が這入て居た 夜の十二時十五分頃迄かゝつて久米と河北へやる手紙をかく 今日ハ大きナ肖像の額の中のケシの葉をすつかり消て仕舞た

1892(明治25) 年11月21日

 十一月二十一日 月 曇で寒し 古巣の神さんがばらの花の立派ナノヲ見事ナ籠ニ入れて鞠の内ニ持て来て置て呉れた 難有仕合也 朝も昼後も其ばらの花を描く 夜食後鞠ヲ奴等の内迄送て行てから古巣氏の内ニ礼を云ながら夜話ニ行く 十時半頃迄話して帰る 古巣が貸して呉れた本ヲ見て十二時過ニネる

1892(明治25) 年11月22日

 十一月二十二日 火 今日ハ昨日より又一層寒い様だ 雲空也 朝も昼後も庭ニ居テばらの花を研究す 色々かいて見ても中々位置が甘く行かぬのでけして仕舞た もうやめると云時ニ為てから一寸出来て来た様だ 籠ヲ置く事ハやめた 和郎が例の如く七時頃迄話しニ来た 夜ハ美陽方て九時頃迄小美天などゝ数つなぎをして遊ヒそれから墓場の上の方ニ行て北風のピユーピューする処で野ぐり裏道を通つて帰る 昼後の便で久米 河北からの端書がつく

1892(明治25) 年11月23日

 十一月二十三日 朝ブランシヤル本屋シヤルボ絵具屋 曾我 長田 川村等へやる端書ヲかく 昼後ハ又庭でばらの花を論ず 四時少し前ニ十五分間程鞠屋を手本ニした 今日ハ昨日と寒さ加減は大抵似た様ナもの也 今日の方が霧が少し強い様だった 今日ハ膝の上ニ置く花をかく 和郎ハ例の如く話しニ来た 鞠の処から帰りがけニ宿屋ニ立寄り和郎が十日分の下宿料など払つて仕舞た 此の払ハ霜菜から銭をかりてやつゝけた 夜奴の内ニ行てオレの食料だのなんだのかんだのいろいろ差引勘定ニ及だらオレ様はもう一文なし 今日から今度金の着く迄ハ借金で暮す可き事也 美天小僧が強情を張て戸の外に出されるやら帰る時ニ置て居かれるやらの事有りたり 小供なんてものハ実ニ調子の取りにくいもんだ 九時ニ和郎ニ逢ニ宿屋ニ行く(ラウスタト・エバ壺が着て居た) 和郎の部屋で色色美術上ニついての説などを十時十五分頃迄承つた それから宿屋を出て橋を渡て向ふの野でうんち 内へ帰つて茶碗など脂気の無いもの丈洗ふ 湯がぬるく為て居たから皿などハあしたのことゝした

1892(明治25) 年11月24日

 十一月二十四日 木 今朝十時頃ニ鞠の処ニ行うとして見たら雨が降り上るのでやめて昼部屋ニ這入込み布の張り直し方などやらかす 昼後も霧が降る様で変ナ天気だから手本を外ニすゑて描く事ハとてもだめさ 色々工夫の末画部屋で仕事する事とした 家主が火ナドたきつけて呉れたから大きニ仕合せ 霜菜ヲ手本トシテ二時半頃から夕方迄めつしり稽古す 夜九時少し過迄美陽方で遊ビ(夜食前古巣夫妻がオレの内の前を通りかゝたのニ出つこあしたから一寸いと内を見せてやつた)後宿屋ニ行た サンマルセルの親爺が来て居た しばらくつまらねへ話を聞て居た ブツフアール コリンス 和郎とサンマルセル親爺を墓場の上迄送て行た 今夜ハ少しあたゝか也 全体今日ハ二三日前ニ比ぶれハぬくい方也 十一時十五分前頃ニ内ヘ帰る 夕めし前ニ懸て置た湯がまだかなりあつくして居たので昨日の洗ヒのこしの皿を洗て仕舞た さつきめし前ニ和郎が来て奴の未来の壺がシヤトダンとか云処ニ十五日程遊ニ行くと云てよこしたので其処ニ逢ヒに行かんとするの甘い策ヲ思ヒ付いタ様ナ事を云て聞かす オレハ感服せぬと云てやつた 何ニしろ壺の方でハ和郎があんなニほれてるから夫婦ニ為ろうのなんのかんのと云てるので極内心の処ハ只和郎を可愛そうだと思てる丈の事らしく思ハれていけネへ まあなんでもいゝ 壺ニして見たら安心するだろう 面倒臭へ 早くはめるがいゝや

1892(明治25) 年11月25日

 十一月二十五日 金 ぽしやぽしや雨ノ天気だ 朝ハ昨朝の様ニ画部屋ニ行て布の張り直シ方をやる 和郎が来て居た 昼めしハ鞠の内で食ふ 昼後画部屋で霜菜を手本として描く 和郎は日記のかきかけを画くと云のでずーと来て居た 四時頃ニ画をやめて和郎と舟遊ヒニ行く 後和郎ハ例の如し おれの処ニ七時少し過迄居た 美天の小僧を汁粉飲みニ連て来たら和郎と非常ニふざけた そうして仕舞ニ帽子ヲ目ニうちつけられて哭きそうニ為たから直ニ奴の内ニ送り帰へす 和郎が帰ると直ニ食ヒ物を美陽家ニ取りニ行き夜食す 今夜ハ霜菜が小牛の肉ニ人参ヲ入れて煮て呉れた 食後美陽家ニ行たら鞠と霜菜とどつちがてにはの間違の少ない文章ヲかくと云うぬ惚の云ヒ合最中也 中ニ入つて書取りをやらして見ると大抵似たり寄たり 先づ議論のやり損と云可シ 後銭の表裏の当つこなどして遊ぶ 鞠等を奴等の門口迄送て行て九時少シ過ニ帰る 今日久米 河北からの水曜の晩附の手紙届く 十二時頃迄かゝつて久米公等へ出す手紙ヲかく

1892(明治25) 年11月26日

 十一月二十六日 土 今日ハ終日美陽家の庭で葡萄酒を徳利ニ入れ方をして暮した 之レハ鞠の企で奴と組合で五十二リトル入の樽ヲ一ツ手ニ入れたのだ 昼めし後ニ鞠の内ニ豆茶を飲みニ一寸と行た 夜食ハ美陽家で御馳走ニ為る 夜食後鞠の処でクレプをこしらへて遊ぶ 十時十五分前頃迄居た 霜菜を奴の門口迄送て行きそれから内へちよいと立寄り忘れもの〔原文旁書(新聞紙ノ事也)〕を取り直ニ飛ヒ出し橋向ニ行て安心ヲ得た オレの部屋ニ極楽が付て居ネへのハかへすかへすも残り多い 今朝の便で着たものは日本から母上様のお手紙と 三百円の為換券だ難有てへ お手紙ニ鹿児島の父上様が国分八幡の宮司ニお為りなされた事が記して有つた 大慶至極也 昼後の便で白耳義から川村が手紙をよこした

1892(明治25) 年11月28日

 十一月二十八日 月 朝五時半ニ起して貰ヒ六時四十分の汽車で巴里へ行 銀行で金を受取り本車ニ乗て三味線通りの本屋ニ払をし翁で本を一冊買ヒ夫レから美天ヲ訪ふ 停車場ニ連れて行てめしヲおごり十二時十五分の汽車で村へ帰る 後昨日の礼として嘉蔵等へ名札置きニ行く 今夜も和郎が来て人形造りをやらかす

1892(明治25) 年11月29日

 十一月二十九日 火 終日霧雨 久米公へ三百仏送る 手本代家賃かれこれ都合三百三十仏の払ヲして仕舞ふた 朝も昼後もちよいと画部屋ニ行たがなんニもせず鞠の処ニ行てぐつぐづして居て茶など御馳走に為る 夜食前ニ半分かけ足でブーロンの停車場ニ久米へ送る本の包ヲ持て行た 夜は美陽家で屁の話を聞く 川村へ出す手紙ヲかく 奴から此間  うでのねき黒田まあるをひねり見れば恋しき君のすかたなりけり 黒田トコムシとしてよこしたから 其返歌を読でやつた  うてのかハむらさき色ニなりぬるハ虫ニ食ハれし跡とこそ知れ

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