1892(明治25) 年11月23日


 十一月二十三日
 朝ブランシヤル本屋シヤルボ絵具屋 曾我 長田 川村等へやる端書ヲかく 昼後ハ又庭でばらの花を論ず 四時少し前ニ十五分間程鞠屋を手本ニした 今日ハ昨日と寒さ加減は大抵似た様ナもの也 今日の方が霧が少し強い様だった 今日ハ膝の上ニ置く花をかく 和郎ハ例の如く話しニ来た 鞠の処から帰りがけニ宿屋ニ立寄り和郎が十日分の下宿料など払つて仕舞た 此の払ハ霜菜から銭をかりてやつゝけた 夜奴の内ニ行てオレの食料だのなんだのかんだのいろいろ差引勘定ニ及だらオレ様はもう一文なし 今日から今度金の着く迄ハ借金で暮す可き事也 美天小僧が強情を張て戸の外に出されるやら帰る時ニ置て居かれるやらの事有りたり 小供なんてものハ実ニ調子の取りにくいもんだ 九時ニ和郎ニ逢ニ宿屋ニ行く(ラウスタト・エバ壺が着て居た) 和郎の部屋で色色美術上ニついての説などを十時十五分頃迄承つた それから宿屋を出て橋を渡て向ふの野でうんち 内へ帰つて茶碗など脂気の無いもの丈洗ふ 湯がぬるく為て居たから皿などハあしたのことゝした

同日の「久米圭一郎日記」より
枯木ノ景色ヲ内デカイテ暮ス十一月二十三日 雨