本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年

 九月二十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしこともだいげんきニてさる十七日にぶれはと申しまからかへつてまいりました なかむらさんと一しよにかへりましたからとちゆうもさみしくなくよいことでした それからなかむらさんハすぐニべるじつくのほうへかへつていきました くめさんハひとりでぶれはじまへのこつてをります しまでのはたごだいだのまたかへりのきしやちんなどみんなくめさんニたてかへてをいてもらいました このなつぢゆうかゝつてほネをおつておりますなつのすゞみのゑハなかなかむづかしくどうもよくできそうでございませんからこのゑハまづしばらくうつちやつてをいてまたほかのものをかきはじめようとおもつてをります なニしろしたがきのまゝでせんせいニみせてみてなんとせんせいがおつしやるかまづせんせいのおかんがへをきいてみようとおもつております なニしろゑのことでいろいろしんぱいするほどおもしろいことハございません(中略) なニしろらいねんハかへつていきますからまつていてくださいまし かへりましたらだい一ばんニあなたさまおんはじめこどもなんかのかほをかいてがくニしてかけようとたのしんでをります(後略)〔図 写生帳より〕 母上様  新太拝

1892(明治25) 年9月27日

 九月二十七日 火 病気も全クよく為た様だから今日から画をかき始む 朝ハ十時から十二時迄昼後ハ三時から六時頃迄やる 六時半頃ニ画部屋から内へ帰ろうとする時貧ニ出つこあす 貧ハ昨日オレが出した手紙ヲ受取急ニ思ヒ立ち春日村ニ住居ヲ構へて居る白耳義国の画師リユドビツク某ヲともなひやつて来たのだ 久振で貧ニ逢てうれし 奴等と一緒ニ夜食す 奴等ハ今夜此処ニ泊る

1892(明治25) 年9月28日

 九月二十八日 水 天気が悪く為て来た 朝貧ニ起さる 後一緒ニ舟で方々連れて行て見せてやる オレの画部屋も見す オレの画ニ付色々面白い評ヲして呉れた 仕合也 打ちすてゝ置いた夏の画を又描て見様と云気ニ為る 奴の御かげ也 昼めしも宿屋で一緒ニやらかす 三時頃ニ奴等自転車で帰て行ふとしたら雨が盛ニ降て来た 又引返へして内へ来て十五分間計雨宿をして少し小降ニ為た時ニ立て行く 夕方迄ずうつと降たから奴等ハびしよぬれニ為たニ違ヒなし 今日宿屋でレムスデルの妹と云人ニ始めて逢ふ

1892(明治25) 年9月29日

 九月二十九日 木 朝夏の画をかき直す 昼後茶碗皿ヲ洗てから画かき部屋ニ行 庭で下画をかく 六時頃迄居る 久米 河北と連合の手紙 長田と川村からの端書を受取る 河北はいよいよ島に行たな 長田は Hotel de Carnes へ引越との事 川村ハ瑞典から帰て来て来月の始頃ニブリユクセルへ行くとの事 夜食後ジヨルジユトモンクール迄行く 後久米ト河北へやる手紙と川村 長田 曾我へやる端書ヲかく 今日ハ冬の日見た様ナ日が出て気候寒シ

1892(明治25) 年

 九月三十日附 グレー発信 父宛 封書 八月二十六日附の後尊書並ニ二百五十円の為換券本日慥ニ相届難有後礼申上候 御全家御揃益御安康の由大慶此事ニ奉存候 新二郎よりも二度程便有之候 元気にて勉学の趣申来候 御安心可被下候 ミシガンよりハ手紙も十二三日目ニ届候間隣ニ住ひ居るの心地致し候事ニ御座候 鹿児島伯父様ニハ近頃御上京中の由しばらくの内なりとも御賑にてよろしき事と奉存候 私かきかけ居候夏の画思ふ様ニ出来不申一時打すて置候得共友人共是非仕上致す様申呉候間又々少しく力を得再ひ取り懸り申候 此の下画一通り出来候上ハ教師へ見せ意見承り度存候 若シ教師の気ニ入候ハヽ共進会へ持ち出し可申候 何ニしろ来年限りの事故例の大きな共進会の外の小さな共進会へも一二枚出品致し度存候 此の方ハ先づ私立中の私立とも可申ものにて数十人の画工集て一つの会を立て其会員のみ出品の権利を持つ組立ニ御座候 其会員と為るニハ一ケ年ニ何ニがしかの会費ヲ出す事ニ御座候 如此会の会員と為り居れバ日本へ帰り候ても矢張毎年巴里へ画を送り人ニ見せて評を得るの便有る事ニ御座候 私の考にてハ日本人を相手に画をかく様ナ事ニては進歩ハむづかしく何と云ても敵ハ巴里ニ在りと存候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝 御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年10月1日

 十月一日 土 今朝鞠屋巴里へ立ツタカラ手本無シト為ル 昼めし後二時頃ニブルス氏ヲ訪ふ 奴の妻ニ日本から来タきぬの布ニ多賀城の碑文の織出シテ有ルノヲ呉れてやつた 豆茶など飲でしばらく話ヲし後ブルスの妻の仕事部屋を見ニ行ク 大きな男のはだかぼが腕の傷ヲ布でくびつて居る処の形ヲ作りかけて居る 女で之れだけ彫刻が出来ると云のハ感心さ 処で色々話の末オレの面ヲ作り度いから此の冬暇の時ニ来て呉れないかとぬかした 阿保糞だ阿保糞だ之レだから美術家なんてものハこまつたもんだ 少しちかしくなると直ニこんな事ヲぬかし上る アヽもう之レで御付合ハいやニ為た いつかムールの野郎ニ久米が此の流ヲやられそれからもう一切奴の内ニハ行かぬ事として仕舞た事など思ヒ出すわい ブルス夫妻ニ別れてからコリンスニ出逢ふ 奴ニオレの画部屋ヲ見せてやる それから奴の画部屋ニ一寸行ク 奴も大きなものをかきかけて居る 矢張オレの様ニ心ハ矢竹ニはやれ共の風有り 後画部屋ニ帰て夕方迄布の張り直シなどやる 夜食後七時半頃ニモーリ氏ニ逢ニ行く 妻ト二人連で来て居る あすの晩巴里へ帰て行くとの事 奴の内の庭で画をかきたけれバ勝手ニかけと云た 仕合也 巴里ニ行たら奴の内ニめし食ニ行くと云約束ヲして置て帰る 朝鮮国の郵便切手に書てある字の翻訳ヲしてもらをうとの事 昨日日本から為換が来たと今日久米公ニ威張て端書で知らしてやつた

1892(明治25) 年10月2日

 十月二日 日 朝九時頃ニ画部屋ニ行 額ぶちのつくろひなどやらかす 十時ニ手本ニ頼だ洗濯屋の娘がやつて来た 十二時迄勉強 内へ帰て見るとちやーんとめしが持て来てある 仕合 一時半頃ニ又画部屋ニ行 家主の寿留親爺とストーブのすへつけ方をやらかす 此頃の様ニ寒く為て来てハもう火がほしく為つた 今日ハ又ひる後ハ盛ニ雨が降るわい すとうぶニ木の片ヲたゝき込で少し火をこしらへいゝ加減なはだもちニ為た 其処で長椅子ニぶち倒れ今年の共進会の絵入番付ヲ開て見て居たら古巣〔ブルス〕夫婦がやつて来た 時ニ三時過 先づ奴等ニ武烈坡島で描て来た画など持ち出シテ見せてやる それから古巣の亭主と二人でルクローズの方の森の中ニ茸狩に行ク 此時ハ雨ハ止だ 露だらけの木の下をあつちこつちとくゞつて薄暗ク為る迄ぶら付たもんだから足だのひざだのぬれてつめたし 帽子なんかびしよぬれニなつたが頭ハ平気 帰へり道で夕立を食ヒ傘は持て居たが股引から足へかけてハびつしより 去年のルリユドランからゼラルメニ行た時の事ヲ思ヒ出ス 内へ帰り着た時ニハ全ク夜 六時少し過也 被物を替へて美陽家ニ行く 今夜此処でめしヲ食ふ事と為る 鞠屋巴里から帰て来て巴里で金持の米人の住ヲ見た事や寄ニ行た事の話などす 毛利親爺の内の番ヲして居る鞠屋の姉の鞠も鳥の冷肉など持てめしニやつて来た 毛利夫妻ハ今晩立たとの事 あすの晩から鞠の番して居る明家ニ泊りニ行てやろうと云相談極まる 今日昼に内へ帰つた時八月十七日附の父上様からの御手紙ト巴里の曽我からの手紙が着て居た

1892(明治25) 年10月5日

 十月五日 二時半頃大雨 大騒で額など内ニ取り入る 庭ニ人来り窓よりのぞく 煙草屋のむこ也 オレが鞠屋とカナツペへ座て居たので驚た風ニて直に立去る 之レニ付てハ色々色事流の奇談が村ニ出来るなる可し 鞠屋ニ取て気の毒ナレドモ仕方ハネへや どう為るか知らん 時の立のを待て笑ふ可し

1892(明治25) 年10月6日

 十月六日 毛利の明屋敷ニ泊りニ行く事ハ其後取止メニ為て仕舞タが鞠と相談して奴と一緒ニめしヲ食ふ事とした 今朝がはじめで朝八時半頃ニ出懸て行 今日も矢張雨だ ちんまりとした座敷ニ火など焼き込で待て居た 其処で二人で西洋汁粉を飲むと云しやれ中々以て面白し 食て仕舞てから書物など読ながら火ニあたつて股引を干してやつた アヽもう丸で冬だ 九時半頃ニ鞠屋もやつて来る 雨の止だ間をうかゞつてちよいと庭で描く 三人で昼めしを食た 二時半頃から画部屋ニ行て夕方迄居た 今夜ハ鞠が鞠屋の処ニめし食ニ行と云ので内へ帰て食た メシハ鞠屋がちやアーんとこしらへて置て呉れたから仕合也 後一寸鞠屋の内へ夜話ニ行く 之レから終始鞠と一緒ニめしヲ食ふと云策はあした限でお止メと云事ニ為た それと云のハ奴等の母が生レ付ての小言好でオレが鞠の処ニめし食ヒニ行くと云のを種として鞠屋なんかニ当る事必せりと云のヲ怖れて也と云話だ 実ハ会計上内で独で食方が余程徳だけれど鞠と云奴中々いゝ奴で此頃ハ主人なしで明家の番をしてぶらつとして居るから奴ニオレのめしヲこしらへさして其代りニ奴の食分迄一緒ニ払つてやつたら奴ニ取てハ只で食て行の道理で余程徳又オレは奴の居る屋敷で勉強するのだから其処でめしヲ食のハ中々便利と云ので奴と一緒ニ食ふ事としたのさ だがだめだ 鞠もしきりに残念がってる様子也き

1892(明治25) 年10月7日

 十月七日 金 今朝ハ一寸日が照た様ニして居たが矢張雨だ 朝めしも昼めしも晩めしも鞠の処で食た 晩めしニハ鞠の妹鞠屋も弟のジヨルジユもばあやもやつて来た 今朝ハ画部屋ニ仕事ニ行 昼後ハ古巣と二時半か三時頃からこないだの様ニ森に茸さがしニ行た 此処のあめハ降たり止だり 森の中で大雨ヲ食ふ なニしろびしよぬれニぬれて居る草をふみ分ケ一寸さわると露がばらばらと落る木の枝をくゞつて歩く事だからたまらない 足だの股引だの水ニ突込だ同然さ 併し今日ハ脚半を当て居たから此の前の時より余程ましさ 六時頃ニ内へ帰て来た それから煙草屋ニ蝋燭を買ニ行たら煙草屋の娘とあのいやな下品なリセツトが居て外ニどこかの娘が居た 煙草屋の娘とリセツト変ニうそ笑た様ニして居た体 アヽなる程此間の窓からのぞいた時の事がなんとか云面白い話ニ為て仕舞たかナと思ハさしむ こいつハ面白い物ニ為れば一寸話の種だぞ 先づ拙者ハそしらぬ体ニてあいさつなど云ヒ茸狩ニ行た事など話して笑ふて別れたり 昼後の便で日本へ端書を一つ出す 夜食後ジヨルジユと庭ニ出て川の上ニあかりを出すと云と魚が寄て来ると云が本当かなんだか蝋燭の火でためして見たり 魚が寄て来るどころかだめ あかりニも依るだろう魚ニも依るだろう 今日ハ市日で鞠屋が清泉駅ニ行たので小さなのこぎり一本とのみを一本買て来テ貰た 美天の親爺が小さなのみを一本副へて送て呉れタ

1892(明治25) 年

 十月七日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 只閉口ナノハ天気の悪き事ニ御座候 此頃ハはだもちも余程寒く相成候 四五日前より二人の大きな肖像一枚相始申候 庭ニてかき候間風がわりニて面白く候 併シ雨の止だ間をうかゞひちよいちよいかく事故思ふ様ニ進み不申候 天気全く上り候ハヾ大憤発致し可成早目ニかき上る積ニ御座候 さなくバ直ニ寒く成り外ニての仕事出来難く相成べく存候 早草 以上 父上様  清輝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年10月13日

 十月十三日 木 朝十時の気車で巴里へ出る 着くと直ニ曽曾我ヲ訪ふ(吸風呂宿屋)寺尾亨氏ニ始メテ逢ふ 寺尾氏と一緒ニめしヲ食ヒ久米の道具ゆづり渡一件相談ニ及ぶ 事が大抵極たから別れ曾我ト一緒ニ醜婦楼で飲ム 銀行でハ百仏の札の中ニ五十仏ヲ一枚ちよろまかして入れて置かれタノヲ気が付かす持て帰へりひどい目ニ逢つたが仕方がネへ 夜食も曾我の処で食ふ 曾我 寺尾氏等とスーフレ茶屋ニ行一杯頂く 帰へり懸ニ翁ニ立寄り書物ヲ四冊計り買ふ 久米公等へ出す手紙ヲかく 銀行から出ルト直ニ鞠屋の注文の鉱泉ヲ買ヒニ行く 又安物屋ニ行く 逆壺ヲ訪ふたけれど番地が違て居テ分らず

1892(明治25) 年10月14日

 十月十四日 金 起きると直ニ内の片付ケ方ヲ始む どこから手ヲ付ケ始メテいゝか分かネへ様だ 十時頃から寺尾氏の処ニ出懸て行きそれから一緒に先生が見付ケテ置たかし家ヲ見ニ行く いよいよ之レヲ借リテ久米の道具ヲ引受ケル事ト極まる 先生ヲ内ニ連れて来て道具ヲ一と通り見せた 昼めしも吸風呂屋で一緒ニ食ふ 昼後ハ新宅の家主の処ニ一緒に行やら安物屋に行やらした 引越引受所ニも行ていよいよ来る日曜の昼後引越ヲやらかす事と極む 吸風呂屋の前の髪結床ニ立寄り頭の毛ヲつませた 夜食も亦吸風呂屋で 醜婦楼及びソルボンヌの前通りの赤茶屋とかなんとか云処で飲む 此の茶屋近頃の大流行にて引張なども大抵此処ニ集り来るとの事也 祖山 大鳥及植木屋和助等来る 大鳥氏ニハ今夜が初メテの面会也 いゝかげんニ皆さんニ別れてぼつぼつ歩て帰る 昼めし後直ニ寺尾氏と小僧ヲ尋ぬ 小僧も杉も居らず 小僧の部屋ニ這入込で待つ 植木屋和助も元吉もやつて来た処で麦酒ナド取り寄せ元吉のデロレンを聞き暇ヲつぶす 三時頃迄居て去ル とうとう小僧ニハ逢ハズ 夜醜婦連では寺尾 曾我と三人連だつたが曽我は少しく病気且試験前と云ので早々と引き取る いつか奴にかした姿に為て居た銭を昨日是非受取テ呉れと云テ返へした 借リテ返へさぬが近頃の風習金ヲ返へして呉れるやさしき心有ル人有りとハ珍らしい

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