本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年10月15日

 十月十五日 土 小僧ニ招かれ奴の処でひるめしヲ食 丸毛の試験料ヲ出シテヤル事の相談ニ預ル 又あした日本人会で云事などの打合せヲ為ス 夜カツフエアメリカンと云茶屋ニ行ク こんな女郎衆の多い茶屋ハ始メテ見タ(寺尾 小僧 祖山 和助等と一緒) 夜食ハ祖山の処ニ押懸て行て日本めしヲやらかす

1892(明治25) 年10月16日

 十月十六日 日 昨夜小僧が内ニ来て泊た 難儀話など聞く 起きると直ニ書物の片付などやらかす ばあやニひるめしヲこしらへて貰て内で小僧ヲ相手ニ食ふ 約束通り一時頃ニ人足二人来る 二時過迄仕事して重ナルものハ大低車ニ積て仕舞た 跡ハ婆やニ打まかせて置て出る お車に被召寺尾氏ヲ新宅ニ訪ふ 一緒ニ日本人会へ行 夜帰へり懸マドレンの方へ行ク サントノレ町で鶴田君ニ麦酒の御馳走ニ為 鶴田君ハ今でハ一番古キおなじみ也 近々の内ニ日本へ帰るとの事 後小僧 杉 植木屋等に別レマドレヌより乗合ニ乗て帰る 今夜ハもう内の道具ハ皆寺尾氏の方へ送て仕舞てないけれども小僧が残して置た寝台ニばあやのお憐みで奴の布やかぶり物を懸けてねる事と為た 此の内ニネるのも今夜限り 夜中ニちよいと虫ニ食れて目がさむ

1892(明治25) 年10月17日

 十月十七日 月 昼めしハ曾我氏宿秋風楼(吸風呂屋と今迄書た)でやらかしそれから森江婆 逆壺 毛利等ニ逢ニ行く 毛利家ニ行た時ハ三時だつた 色々日本字の翻訳ナド持ち出し上つてとうとう今夜田舎へ帰て行事ハ出来なく為る 昼後の一時から雇て居る車代など四時半頃ニすつかり手代に申付ケテ払ハして仕舞ヒ上つて夕めしニ引とめた 五時頃迄仕事してそれから一緒ニ大通りを散歩しホテル・デ・ハントと云せり売の市場ニ連れて行て見せて呉れた 又豆茶屋ニ立寄る 奴の友達と云おぢいが独り来て居て一緒ニ飲む 其おぢいを奴の内のめしニ引張て行ふとしたけれどとうとう門に迄行ておぢいにげて仕舞ふ 夜食後フオリベルジエールに案内した なかなかナお取持ちさ フオリベルジエールで鶴田君ニ出逢ふ 今夜はホテルペレニ一泊 我が宿の無い身と為た 不自由ナもんだわい

1892(明治25) 年10月18日

 十月十八日 火 のこして置た荷物を御本丸ニ取りニ帰る もう之れが此の家の見おさめ也と思ふと心地よろしからず 門番の婆やハ居らず 婆やの母が居たから奴ニ金を渡して別れを云た またお目に懸り度いもんでございますなんと云ハれたのニハ益面白からぬ気分ニならせ上つた 過し年ブランケンベルクから記念として持て帰て来た枯れ草を紙ニ包で持て居たのを見てアヽ田舎の草私の在所に其草が沢山ございますが其シヤルドンの葉ニ置た露ハ目のお薬でございますと云のを聞てしきりにブランケンベルクニ遊ビし頃の事を思ヒ出しぬ  かたみとて君かつみてし草の葉ニ置く白つゆハそのなみたなり

1892(明治25) 年10月20日

 十月二十日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)天気も秋ニ為りて雨計り 之レハ私ニ取りてハコレラより閉口 外にての稽古出来ざるが為メニかき懸けの夏の画ハちつとも進まず 今と為てハ好き天気ヲのぞむ事ハ六け敷く候間何ニか別ニ冬向の画かき始むるより外ニ手ハなき事と存切角其用意致し居候 去る十五日ハ借家引払の期日に有之候間荷物片付其他色々面倒ナ事ども処置の為去十三日出巴一昨日迄滞留又々田舎ニ引返へし申候 巴里にてハ先づ銀行にて金を受取り久米氏ヘの借金三百仏も返へしそれより大憤発にて家の引払致し候 道具ハ大抵久米氏の物故同氏の望ニ任せ寺尾氏へ引渡シその運送の序ニ私のカバン書物又一二の家具等も寺尾氏方へ持ち込み預け申候 寺尾氏と申ハ寺尾亨と云人ニ御座候 先年私の仏語の教師として御頼み被下候寺尾寿と申天文博士の弟ニて法律学を以て日本の大学校の教員を被勤候由ニ御座候 小松宮の御肖像其他景色画なと上出来の分二三枚今度是非差送り度兼而考居候得共右引越かれこれにて思の外物入多く懐中たつた二百五十仏丈に相成候故とても今の力ニは及ビ難く思ヒ切り申候 書物なども集めて見れバ中々沢山ニテ之レニも随分運賃ヲせしめらるゝ事と存候 余附後便 早々 頓首 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年10月31日

 十月三十一日 月 終日鞠の番して居る内ニて暮す おくれ咲きのけしの花を描て楽む 昼後の二時過からずうつと雨 此の間から降りつゞく雨で川の水が非常ニ増し野の方へ少し溢れ出た

1892(明治25) 年11月1日

 十一月一日 火 終日雨でいやな天気 今日ハ祭で天気がよくつても手本を雇ふ事の出来ない日だから雨で却て仕合ナ処も有り 体屈だつたから端書ヲ方々ニ出す(白耳義の松方 中村 英国の平田 米国の蓑田 清秀等へ)久米 河北への昨夜書た手紙も出す 又 Fantome d’Orient ヲ読で暮す 夜食ハ霜菜(鞠屋事)の内へ食ひニ行た 食後婆やなどと一緒ニ少シかるた遊をなす

1892(明治25) 年11月2日

 十一月二日 水 今日は随分いゝお天気也 終日仕事す 夜鞠兄弟三人と橋の上ニ川の流ヲ見ニ行く 今日ハ格別ニ水が増して野ハ一面湖水の様也 橋の上でジユル シュビーヨンと出逢 色々村の者の失錯話など聞キ時ヲうつしたり 内へ帰りて日本へ出す手紙ヲ書く

1892(明治25) 年

 十一月二日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)かきかけのゑもだんだんすこしづゝできあがつていきますからおもしろいことです なニしろらいネんかぎりのことですから一しようけんめいニなつてほネををつてをります かごしまニかへつたらぜひさくらじまにいつてとうぢばのゑをかきたいもんだとおもつてをります につぽんへかへつたらかきたいものがたくさんでてくるだろうとぞんじます こまることニはにつぽんにハせんせいがないのとかいたゑがうれないのとです(中略) いつかおくつてあげましたおゝきなゑももうとつくについてをることゝぞんじます いまあれとおんなじおゝきさのを一まいにはでかいてをります(中略) くめさんはぶれはじまニやつぱりをります かわきたといふゑをかくひともそのしまニいつてをります わたしがいつていたころニハなつのことでしたからあそびニきてをるひともたくさんございましたがこのごろハもうみんなかへつてしまつてくめたちがふたりだけになりしづかでいゝことだそうです(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年11月3日

 十一月三日 天気よし 朝仕事す 二時の気車で巴里へ出る 着て直ニ曾我 長田等ヲたづぬ 二人とも留守 夫レから公使館ニ行日本めしの御馳走 十二時迄居る 天長節ニめしヲ公使館で食たハ今年が始也 併しごたごたした様ニして日本人会めきたり 宮さん方や女の面が無いからの事と知られたり 矢張御酒の席ニハ女が居るニ限る 歌もなニも一向ニはづまず大鳥と長田と三人で出てゝ川辺をぶら付乍らぼつぼつ歩く 今夜のセイヌ川の景色ナントモ云ハん方なし 霧が立ちたるが為め月がぼんやりと為り水の色ハ牛乳然と白つほくして居る ピエールロチの書いたイスランド猟師中のイスランド近海の風景もかくやあるらんと思ハれたり とうとうしまいニ大通の引張の来るジユリアンと云茶屋ニ行く事と為る 女の近づき得ないお座敷で一杯飲む 二時近く為る迄居る 見世ヲ仕舞ふから止を得ず出る 大鳥ニ衆議院前ニテ別れ車ヲ引ツヽかまへて小僧とホテルデカルム(小僧の下宿)へ行き小僧が前以テオレの為に借りて置て呉れた部屋ニネる ネる前ニ丸毛ト少し四方山の話す ネる時ニハ三時半頃ニ為た 丸毛ハ小僧の部屋の長椅子(カナツペ)の上にごろりとして居上つたからたゝき起して話してやつたのだ

1892(明治25) 年11月4日

 十一月四日 曇 九時頃ニ起き小僧の部屋で豆茶ヲのみ夫れから小僧と一緒ニ湯ニ行く 寺尾君の処ニ被物ヲ取りニ行たら橋本氏が来て居た 寺尾君と一緒ニ小僧の内ニ昼めしヲ食ひニ行く 途中元老院の処で電信ヲ出す 田舎へ今日の二時ニハ帰られないと云てやつたのだ 大鳥も食事ニ来て居た 大鳥ニ別れて翁の茶屋ニ行き被聞召 其処ヲ出てて寺尾と長田ニ別れた 五時の気車で田舎へ帰る ブーロンノ停車場で森江老婆ニ逢フ 三条公ノ娘サンモチラト見懸く 久米等の手紙と和郎の手紙ヲ受取る 和郎ハいよいよ親達と議合はず家ヲ飛ビ出すとの事 実ニ奇体サ 自分の気ニ食ハぬ女ヲ無理ニたゝき付けられたらいくら親のスキだと云ても其女ヲジーツと持て居る事ハ出来めへが自分のほれた女ヲ貰ふ事が出来ナイと云テ親と敵ニ為るとハ変だ 親達も親たちサ そんなニむす子が気ニ入つてる女ナラ自分達の気ニ入らずともよめニしてやれバいゝのニ

1892(明治25) 年11月5日

 十一月五日 和郎ニ電信で此の暮村ニ居るから来いと云テやる 朝僅ニ一時間位しきや稽古出来ず 昼後霜菜ヲ手本として一寸始メテ居た処ニ人が来て岩村がオレヲ尋て居ると云て来た 之レデ仕事ハだめと為る 村三条ノ娘ニ扇子ヲ送る 岩村ニオレの画など見せてやる 後兎馬の車でマルロツトヲ経てお化の池だの狼が谷など見ニ行く 森の景色中々よろしく帰へる時ニハ暗く為つて鹿の声があすここゝニ聞えた 鹿のこう云様ニ鳴くのハ始めて聞た なんだかすごい様ナ淋みしい様なもんだ 淋みしい様ナ処で聞からそう聞えるのかも知れない 岩村が七時の気車で帰へつて行くと云からブーロンの停車場ニ車ヲ付ケテしばらく待合部屋ニ居た なニしろ七時ニハ未だ一時間の余も有る どうだ村ニ来テ泊てあしたの朝六時過の気車で立つたらどうだと云たらとうとうそうする事と為る 即ち村へ帰る 食後岩村ヲオレの部屋ニ連れて来てつまらない下画だの又画写真や画入の本など引出シテ見せる 十時過ニ宿屋ニ一緒ニ行き台所でマント水を飲みそれからねると云ので部屋迄送て行き別れを云て帰る 今夜ハ雨

1892(明治25) 年11月8日

 十一月八日 火 今朝九時ニ羊が着たと云てブーロンの鉄道局からの知らしが来た 直ニ人を取りニやつた 例の如く鞠の料理で其羊を食ふ 実ニ結構 霜菜ハ来らず 今日ハいやニ寒くしめりけが骨迄這入込む様だつたから昼後ハ外での勉強ハおやめニし画部屋の掃除などやらかし後庭ニ日の当て居る景色の中ニ人物を置く 夜八時に古巣の処ニ話しニ行く 十一時頃迄て居た

1892(明治25) 年11月9日

 十一月九日 水 朝十時ニ古巣の処ニ行き奴をオレの画部屋に連れて来てオレのかきかけの肖像ニ付意見を聞く ひるめしハ鞠の処で羊の御馳走也 ひる後ハ霜菜を手本として勉強す 古巣の説ニ従ヒ地の色を変ゆ 今朝の使で十月六日と七日附の御両親様よりのお手紙が着た オレが送た此年の共進会ではねられた肖像が着たのハいゝがあんまり皆様のお気ニ入らないとの事余儀なき話とハ云ものゝあてがはづれて面白き心地せず 今夜は外ニモ不出手紙も書かず書物を読だ 村ニハ寄せ芝居が有るとの事

1892(明治25) 年11月10日

 十一月十日 木 今日ハなまぬくい天気也 朝ハ一寸いと日が出たが昼後ハ曇 終日明家敷で勉強す ひるめしハ矢張鞠の料理の羊也 夜食後霜菜の内ニ夜話ニ行く 九時頃ニ帰る それから日本へ出ス母上様への手紙ヲ書く 一時過ニ床ニ入る

1892(明治25) 年

 十一月十日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしはやつぱりまいにちごちごちべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし いつかおくつてあげましたゑもとゞきましたよしあんしんいたしました こんどのゑハあんまりおきニいりませんとのこといたしかたハございません らいねんハいろいろなゑをたくさんおめニかけますよ こんどのふねでいわむらさんといふひとがにつぽんへかへつていきます そのひとハもとかごしまのけんれいをしていたいわむらさんのむすこだとかいふことです いまはきようとにすまつてをるとのことです こちらでハやつぱりあぶらゑのけいこをしていたのです わたしなんどゝハせんせいがちがうもんですからぱりすでもあんまりつきあいハいたしませんでしたがこないだてんちようせつのおゆわいにこうしくわんででつこわしましていろいろはなしをいたしましたらちかぢかのうちニにつぽんへかへるとのことそれぢやおたちなさるまへニちよつとわたしのをるいなかニあそびニおいでなさらぬかといゝましたらくるとのことニてすぐそのよくよくじつニやつてきました わたしがいまかきかけてるゑをみせるやらなニやらしてそれからちいさなにぐるまをかりてそれをろばニひかせこのきんぺんのけしきのいゝやまのなかにあそびニいきました かへるときにハもうくらくなつてしかのこゑなどがあつちこつちニきこへました そのばんハこゝにとまつてよくあさの一ばんきしやニのつてかへつていきました そのいわむらさんハはじめハあめりかニいつてをりそれからこつちへけいこニきたのです おとつあんがごびようきなのでかへるのだそうです だがまたぢきにこつちへくるとゆつてをりました(後略) 母上様  新太拝

to page top