本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年11月30日

 十一月三十日 水 昼迄ハ日がてつたりして中々いゝ天気だつたが昼後ハ雨が降た 夕方ニハ上り夜ハ晴れていゝ月夜だつた 朝川向フヲ少シク散歩ス 今日も亦庭での画ハだめ とうとう三条様から貰た菊の花ヲ描く事として画部屋ニ行ク 花いけニする大キナ壺ヲもとの煙草屋の婆ニ霜菜が借りて呉れた 霜菜ヲ菊のかげニ置キ下画ヲかく 画ヲ始むる前ニ鞠 霜菜と三人でおみきを頂く 鞠が猪口ヲ持て来て呉れた 酒ハいつか鞠の処ニ持て行てたゝき出された酒也 夕方から和郎が手紙かきニ来タ 夜話ニ夜食後ちよいと美陽家ニ行く 八時半前ニ帰る 和郎が九時頃ニ来て十時過迄居る(中略) 昼後の便で島からの画入の手紙ヲ受取る 夜ハ其返事ヲかく 今夜ハ部屋ニ火ヲたいた

1892(明治25) 年12月1日

 十二月一日 木 朝もひる後も画部屋で勉強 ひる後ハ霜菜を手本として少シやつた 和郎も来て居た 例の如く和郎が夜話ニ来た 奴ハ人形ヲ造りたのしむ 日本へ出す手紙を十二時半頃迄かゝつて書た

1892(明治25) 年

 十二月一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)らいはるのきようしんくわいニだしますゑが一まいハたいていできてをります もう一と月はんもかけバかきあげてしまうといふところまでいつてをりますがこのごろハさむいやらあめがふるやらニていかニもおてんきがわるくそとでかくことハちつともできませんのでしかたなくなかやすみになつてをります きようしんくわいにもちだすのハらいねんの三月のすゑですかららいねんになつておてんきがよくなつたところでまたこのゑニとりかゝろうとおもつてをります このゑハこないだおくつてあげましたおんなのゑとおなじおゝきさですがこんどのハひとがふたりでニわにをるところです うちのなかでかくのとちがつてそとでかくのですからよほどむづかしゆうございます につぽんでハこんなふうのあぶらゑハたんとハあるまいとぞんじますがこちらでハそとでのゑがおゝはやりです(中略) かごしまの父上様がこくぶのはちまんのぐうしニおなりなさいましたよしまことニおめでたいことでございます げつきゆうのとれるとれないハまづつぎのこととしてなんニもしないでくらすほどたいくつなことハないのですからこんどおつとめができてさぞおよろこびだろうとぞんじあげます こうがいのうちもりつぱニできあがりましたよしこんどのうちハまるでくわぞくさまのおうちのようだとのことさういふわけでハこうがいニいつてぶたのぞーわたをにてたべるわけニもいきますまいよ わたしのしやしんがとゞきましたよしわたしのあたまがもうすこしはげたらまつとかごしまの父上様ニにてくるだろうとぞんじます こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおたいせつになさいまし

1892(明治25) 年12月2日

 十二月二日 金 雨 朝霜菜ニ起さる 十時頃ニ画部屋ニ行く 和郎が来た 昼めしは鞠の処で食ふ 午後霜菜ヲ手本とし勉強す 和郎も来て居て人形ヲ寝せる寝台ヲ造ると云て木ヲきるやらたゝくやらして暮シ上つた 四時前ニ誰が来たと云人が霜菜ヲ呼ニ来て帰る 暗く為て仕事ヲ仕舞てから和郎とマルロツトの道ヲ散歩シ内へ帰る 和郎やつて来てかちんかちんと七時の食事の時迄やらかす 又八時少し過頃ニやつて来て十時半頃迄(中略) 今朝簔田からの手紙が着た 千田の不幸ヲ聞く 終日其事が頭ニ浮で来て変也 和郎の上気ナ話ヲ聞て笑て居るとハ云ものゝ千田の事の考が其処ニ控へて居るわい 千田の事ヲ話し度ても誰れも居ず

1892(明治25) 年12月3日

 十二月三日 土 曇 朝十時頃ニ画部屋ニ行たが和郎の目懸ニ付ての心配の話を承り勉強不出来 昼後ハ霜菜ヲ手本として描た 画部屋ニ来る前ニ鞠の処ニ立寄り奴の胸のあたりから腕など見たがなかなかかけるわい 御酒の御馳走ニなる 和郎も画部屋ニ来て書キ物す 家主のジユル爺が薪ヲ画部屋の中ニ積み込で呉れた 和郎と画部屋から帰る時宿屋の前でサンマルセルのぢい夫婦ニ出逢ふ 是非酒ヲのもうとの事 一度内へ帰て宿屋ニ出懸て行く 七時頃迄居る 今夜鶏ヲ霜菜が煮て呉れたのでそれヲ取りニ美陽家ニ行く 食後もちよいと出懸て行て豚の脂肉切りの手伝ヲやらかす 九時頃和郎が来た 奴ハ目懸ニやる手紙ヲかく オレハ簔田へやる手紙ヲかく 今朝川村よりの端書ヲ受取 昨日の昼後の便で美陽家ニ着た様子也

1892(明治25) 年12月4日

 十二月四日 日 昼後雹ト雪が少シ降る さむし てつたり曇たり也 朝も昼後も画部屋ニ行て菊の花をかく 昼後ハ和郎ハどこかニ散歩ニ行て来ず 夕方ブルス氏ト墓場の上ヲ散歩ス 夜九時頃ニ和郎来り火ニあたりながらお雪さんの性質ニ付ての心配又手懸ニ安心を得しむるの策等の話ヲ為シ十時半頃迄居た 今日ハ此の村の火消共の祭也 去年ハ義理だと思て銭ナド出シ名誉員ニ為るやら夜食ニ行やらしたが此年ハそんナ馬鹿ハ止ニシた 火ヲおこしたを幸湯をわかして足ナド洗ふ 一時少シ前に床ニ入り二時頃ニあかりを消す

1892(明治25) 年12月5日

 十二月五日 月 朝九時頃ニ起て見たら雲が向の屋根ニ積で居た 美陽家ニ水くみニ行き久米公等からの手紙ヲ受取る 河北から女子話しの説き明シナリ 直ニ其返事ヲ書く 又曾我ニ arts et metiers 学校の規則ヲ記シした□(原文不明)方ヲ頼でやる 昼めし後鞠の処ニ一寸行く 昨日客が有つて非常ニ躍などしたと云てつかれきつて居る体也 直ニ画部屋ニ行く しばらくして霜菜来る 三時迄仕事ス 話の序ニ九十年の此の村の祭ニ付てハ糞の如キ感ヲ未だニ持つなどの事ヲ云て聞かして別る 人種ト教育の異なるハ物事ニ付て違た感ヲ与ゆる事不思議也 古巣の内ニ人形の形造ヲ見ニ行ク 巳里から職人が二人来て仕事ス 古巣の内で夜食の御馳走ニ為り十時少し過迄話して帰る 今日ハ古巣夫妻が婚礼してから四年目だそうだ 和郎ニハ終日不逢

1892(明治25) 年12月6日

 十二月六日 火 朝起て見たら向の屋根ニ雪が少し積で居た 仕事部屋ニ十時頃ニ行たら和郎が来て書物をして居た 昼後ハ画かき部屋で霜菜を手本として夕方迄勉強 和郎と一緒に内へ帰つたがナンダカびんたが少し痛イ様で気分悪し クタビレし心地す 和郎英語の新聞をしきりに翻訳シテ読で聞かす 夜食後美陽家ニ一寸行く 鞠等送て行てから宿屋ニ行き和郎 ブツフアールとラム酒ヲ飲む 今夜皿ナドの洗方ヲする積だつたが気分が進まぬので其儘ニして置てネて仕舞た

1892(明治25) 年12月7日

 十二月七日 水 今朝ハ昨日の朝より一層雪が積で居た 十時少シ過ニ仕事部屋ニ行たら和郎が来て居て火のたき付方か甘くいかぬので薪を外ニ持ち出シテ割り方やらたき付の松の枝の片付方ナドやらかす オレ様ハ十一時頃から雪の景色ヲ論シかく 此の時盛ニ降る 長クハつゞかず 雪景色トハ仕事部屋の中から見たる景色也 昼後も少シ描ク 二時頃ニ霜菜が美天小僧ヲ使ニやつて客が有つてオレの処ニ来る事ハ出来ぬと云てよこす 和郎もやつて来た処で焼酎ヲやけつ腹ニ為て飲ながら色事を盛ニ論じた 暗く為たので蝋燭家主の処ニ取りニ行キ明ヲ付ケテ七時過迄仕事部屋ニ居る 此処ニあかりを付ケタハ今日が始也 夜珍らしく和郎来ず 今夜晩めしニ内へ帰つて見ると肉の残りとまんぢうの切つ端の小さなのが一ツきり アヽつまらねへ浮世だ 仙人気取も度が有ら 糞だといら立て見た処が仕方がネへ まんぢう(パン)を買ニ行のハ面倒臭い 有リツ丈のものを食てあとハお茶でごまかしそうつと其儘十一時頃ニ寝床ニ這入ル サアネむられぬ いろいろな考が出て来てとうとう三時頃迄くるしめられた 夕方曾我からの手紙が手ニ入る 頼でやつた事ヲ直ニやつて呉れたそうだ 仕合也

1892(明治25) 年12月8日

 十二月八日 木 朝曾我が送て呉れタ職業学校の規則書が届く 上天気だがオレの気分は何ニとなく不平極る 十一時頃ニ村ヲ飛ヒ出シ乾山(モンチ)村ニ行キ御中食 それから兼て聞て居た瀬戸物製造所ヲ見物シ記念の為鉢ヲニつ十仏で買ヒそれヲ両手ニ下ゲて帰村 鞠の内へ一寸立寄る 奴ハ巴里ニ出て留守番ニ霜菜が来て居た 少し話し鉢ヲ一つ呉れてやる 夫レカラ宿屋ニ行き台所でカナダ国のコルタ等と水ヲ飲みながら話す 晩夜食後美陽家ニ一寸いと行 鞠帰て居た 夜食ニハパンガ無かつたので買ニ行た 和郎が夜話ニ来て村の飯盛ニやる色文ヲ書く オレハ日本へ出す端書ト久米等への手紙ヲ書く

1892(明治25) 年

 十二月八日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事不相変大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 此頃ハ寒さ強く相成外ニての稽古ハ六ケ敷仕事部屋の中にて菊の花など研究致シ居候 一昨六日初雪降り申候 昨日も雪降し沢山ハ積不申今日の日にて大低ハとけ申候 此の村より一里計の処ニ瀬戸物の名所有之候 兼而話ニハ承り居候得共未だ一度も見物不仕候処今日不図思ヒ立ち越申候 極少さな製造所とハ申ながら模様及焼の色等一風有之見事なる花瓶等出来申候 余附後便 早々 頓首 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年12月9日

 十二月九日 金 雪降りおまけニ風有り中々寒し 朝ちよいと画部屋ニ行 昼後ハ菊花ヲ論ス 和郎ハ四時頃ニ出て行く 間も無コルダがオレの昨日買て来た鉢ヲ見ニ来り それから一緒ニ宿屋ニ行 和郎と三人でアプサントヲ飲む コルタの御馳走也 美陽家ニ夜食後和郎の来る前ニちよいと行く 鞠と霜菜と夜なべをして居た処ニ立て居テ話して帰る 和郎ハやつて来て又今夜も色文ヲかく いろいろしやべるのを聞ながらかぶの料理ヲこしらゆ 又茶碗皿の洗方ヲやらかす 後被物ニついてる蝋燭ヲおとすやら 股引ノボタンをぬふやら 鼠取の用意ヲするやらして一時頃ニねる 夕方日本からの御手紙ト新二郎からの手紙届ク 日本からのハオレが武烈坡から帰てから写真ヲ三枚送たノニ返事 新二郎ハ未だオレがあと月の十六日ニ出しタ手紙ハ読まぬ姿

1892(明治25) 年12月10日

 十二月十日 土 朝仕事部屋ニ十時頃ニ行く 部屋の中の道具の置き直しヲ為る ひるめし後直ニ家主と暖炉(オレの寝部屋の方ニ在るノ)ヲ取りニ行て仕事部屋の中ニすへ付ケ方ヲ為ス 二時過ニすつかり仕舞た 今迄の暖炉丈ぢや充分ニ暖くないから今一つすへさしたのだ 夕方暗く為る迄菊の花及瓶ヲかく 明ヲつけて火ニあたり乍らとろとろとして居る処ニ和郎が来た 白耳義のキプスと云人からこう云手紙が来たと云て読み立てる それニついて又色々弁ニ任せて演説ニ及ぶ 出がけニ家賃の払ヲ為ス(十二月分) 和郎夕めし時迄来て居て話す 夜食後も同断 アンベルスニ居るトルソウトと云僧さんで奴の雇れ口をさがし方ヲ引受てる奴ニやる手紙ヲ書いてる オレハ又かぶの煮方ヲす 画部屋から帰て来て直ニ寿が書物借リニ来た 奴ヲとつかまへて和郎が自転車ノ事だの歩き方の早い事だの得意ニ為て説いたニハ寿も一本致された様子 めしヲ美陽家ニ取リニ行く 食後和郎が来る前ニも亦美陽家ニ行キ札ヲ小銭ニ替へて呉れと札ヲ置て頼で来た

1892(明治25) 年12月11日

 十二月十一日 日 切角すへさした暖炉の煙筒の向ケ方が悪いので其すへ直シ方ヲしようとして家主ト和郎と三人仕事して居る処ニブツフアールがオレの菊の画ヲ見ニ来た(昼後の三時頃) 焼酎など飲でしばらく話して行く 明日巴里へ一寸帰ると云て居る 夕方とうとう煙筒ヲすへ直シた 家主が若い時ニハ左官だつたそうにて壁ニ穴ヲ開ケたりなんかする事ハ得意也 夜美陽家ニ少し話しニ行き後宿屋ニ行きブツフアール等とちよつとおみきを頂く ブツフアールハ古巣ニ約束がして有るからと云て出る 和郎の講義ヲ九時頃迄聞き帰る 和郎一緒ニオレの内へ来て読み続きを十時過迄演ズ 美陽家で美天小僧が股引の中ニ糞ヲたれたと云話ヲ聞く 我身の小供の時の事ナドが思ヒ出される 其序ニ内ニ居たあの細島でゆわしの頭ヲ食て居た富公の事が頭ニ浮だ どう為たかしらん

1892(明治25) 年12月12日

 十二月十二日 月 雨 朝十一時頃ニ昼部屋ニ行たら和郎が書物して居た 十二時過迄描キ帰リ懸ニ海老の缶詰ヲ一つ買フ 夫レカラ寿の処ニ肉ヤパンや酒なと取リニ行ク 寿ニ海老ヲ少シ分ケテやつた 食後昼部屋ニ行前ニ鞠の処ニ立寄リ三十分計話す 奴が明日ハ手本ニ為て呉れるとの事也 暗く為る迄勉強す 矢張菊の花也 今日ハわりニ仕事が進だ 夜食ニハ又カブヲ煮て食ふ 夜ハ内ニ居てミレの伝ヲ読む 和郎九時頃ニちよいと来た 宿屋の台所で下女などとつゝかまへて馬鹿話ヲしたと云て居た たまニハお相手役ヲ更へる方が何ニより結構ナ事と思フ 今朝川村からの端書が着て松方氏ハ巴里ニハ来ズニ直ニ龍倫から亜米利加の方へ行と云て来た 逢へずニ残念ス

1892(明治25) 年12月13日

 十二月十三日 火 晴 朝ハ仕事部屋ニ火ヲたき付ニ行た計 別ニ仕事せず 昼後二時頃ニ鞠と霜菜が来た 二人ヲ手本ニして夕方迄かく 和郎来てしやべる 仕事ヲ仕舞てから和郎と散歩 ブーロンの停車場前通ヲ一とまわりして来る 和郎例の如く七時迄話す 食後も亦和郎やつて来た 奴が帰てからミレの伝ヲひろげ十二時迄読む

1892(明治25) 年12月14日

 十二月十四日 水 朝松方君の英国からの手紙が着た 今日リベルプールヲ出る舟で亜米利加へ出発との事也 返事ヲスル暇の無いのハいかニも残念至極 昼後鞠 霜菜ヲ相手ニ仕事スル事如昨日 貧 久米公等からの手紙手ニ入る 和郎仕事部屋ニ来て居て手本等としやべる 仕事がすんでから和郎とマルロツトの街道ヲ散歩ス 夜食後和郎の処ニ出懸て行て話す 葡萄酒のぬくめたのなど飲む 今日宿屋で和郎の下宿料十五日分ヲ払ふ 安心 昨夜ハ豆茶ヲ飲だせへか四時頃迄ねむられなかつたから今夜ハ早々と十一時頃ニ床ニ入る

1892(明治25) 年12月15日

 十二月十五日 木 霧雨日より也 少しなまぬくし 朝一時間程菊の花ヲ論ず 昼後ハ一時半頃から霜菜と鞠ヲ研究 和郎一寸と来たが又ムールニ遊ニ行くと云て出て行て仕舞た 夕方例の如く和郎が来た 奴と一緒ニ宿屋ニ行て宿屋の婆娘 次男ナドと酒など飲ながら笑ヒ話ヲす 和郎がお雪先生の写真ヲ一枚オレニ呉れた 夜食後美陽家ニ行き八時頃ニ和郎の処ニ行ク 下女お竹をお酌と云次第で昨夜の如クぬくめた葡萄酒ヲ飲む 九時ニ内ヘ帰る 今朝貧ニ端書でおそくも来る日曜ニハ出懸て行と云てやつた

1892(明治25) 年12月23日

 十二月二十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしもしごくたつしやにてくらしをります かきかけのきくのゑもかいてしまいましたから二三日のうちニせんせいのところニもつていつてみせようとぞんじます わたしハこんどハまたぱりすへまいりましてしばらくぱりすにをるつもりです そうしてらいはるハかへつていくしたくをするかんがへでございます おめニかゝるのももうぢきですよ ゑだのほんだのはみんなはこづめニしてをくりましてたゞからだ一つニなつてあめりかのほうへまわろうとぞんじます たびをするノニにもつがこてこてあるほどめんどうなものハございません わたしのゑのてほんニなつてくれをつたこゝのむらのむすめがちかぢかのうちニよめいりをするそうです いつかのころハたいびようでしたがだんだんよくなりいまハたつしやです めでたきことです(後略) 母上様  新太拝

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