本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年9月8日

 九月八日 木 (ブレハ紀行) 朝久米公 次郎と三人連で松原ニ行て松葉引きヲして遊ぶ 昼後ベドス糞婆の家の上の羽車の処のわき高台でねころびながら日本の新聞紙を読だり又ヂヤンケンで銭の取りつこなどす 夕方南海で水をあび女亭主の酒屋で一杯 亭主目の上ニ傷ヲ被て居た 晩めしニ日本料理ヲつくり久米の部屋で食ふ 食後青ん蔵(フロマンと云奴の娘也)が部屋ニ攻込で来て色々ナ事ヲしやべつた末当世の女の教育の学問的ニ過る事ヲ述へて去る 例の如く散歩して十一時頃ニ内へ帰る

1892(明治25) 年9月9日

 九月九日 金 (ブレハ紀行) 朝日が少し照て来たから十時半頃から牛の画をかきニ出る 昼相客の英人や仏人等と宿屋の後の原で鬼ごつこやめかくしの様な事をして走り廻る こんな事ハ汗が出て実ニ閉口さ 全くのお付合でやるのだ 三時半過から画をかく積で箱を持て南海岸の方へ出掛く 雨がなんだかさアツとやつて来そうニ成て来たわい 画ハかかず水をあびて帰て来て仕舞ヒ干物を焼て貰てそれを袖に入れトントンぢゞいの処ニ酒飲みニ出懸く 瑞典国が飲ニ来て居たので色々奴と美術上の事ヲ話す 後英人夫婦がやつて来た 其処でオレなんかハ引取る 宿屋へ帰てさつき夷人が居た為メ勝手に食へナカツタ干物ヲ食ヒ乍ラ又一杯やらかす 食後霧雨が降る中を少しく散歩 宿屋ニ帰り茶を久米の部屋ニ取り寄せて飲む 今夜三人共ニ腹の心地よろしからず オレハなんだか胸が悪い様だ めし前の干物と酒が仕事をして居るなる可し 全体此頃ハ食ヒ過るせいか又麦酒が悪ヒせいかなんだか知らねへが三人共ニ腹具合があんまりよろしからず 故ニ一番下しをかけて見んと議一決し飛脚が明日パンポルで薬を買て持て来る様ニ下女ニ申付く 内へ帰つて一時間の余も内の大小老婆と色々話した 十二時頃床ニ入る

1892(明治25) 年9月10日

 九月十日 土 (ブレハ紀行) 十時半頃ニ朝めしを食てから昼めし迄の間ハ日本の新聞を読だり又少し散歩などした 五衛門草を海岸ニ干すのを見たりなんかした 箱を持て久米公と次郎公が北海ニ釣ニ行のを見ニ行た それから夕方五時過ニ水ニ這入た 出た時ニ霧雨が降て心地悪し 宿屋ニ帰て一杯頂く 夜食後散歩して帰て来てから茶を久米の部屋ニ取りよせて飲む 久米と共ニ河北へやる端書をかく 今日ハ大ニ腹の用心をして食も少しひかへめニ食ひ又昼ニも晩ニも葡萄酒を取て飲だ 十時半頃内ニ帰へる それから寝床の中で日本へ出す手紙や清泉駅への手紙を書きおそくなる

1892(明治25) 年

 九月十日附 ブレハ発信 母宛 封書 (前略)わたしハいまハぶれハと申しまニをります くめさんとなかむらじろうさんといつしよニをりますからなかなかおもしろいことです べんきようのできないときニハつりなんかしニいきます わたしハつりハまことニへたすつぽにてまだ一ぴきもつれません くめさんとなかむらさんハよくつります それからたいていまいにち四時はんか五じごろニしほをあびります からだのためニよほどよろしかろうとぞんじます けつしてあぶないようなところであびるのぢやございませんからごしんぱいニハおよびませんよ ながくこゝにをるつもりぢやございませんからおゝきなゑハかきません ちいさなゑばかりかいてをります こんげつの十五日ぐらいニハぱりすのほうへかへつていこうとかんがへてをります こゝでハともだちがあつておもしろうございますから日がなかなかはやくたちます わたしがこゝにきましてからもう二しゆうかんニなりました(後略) 母上様  ぶれはじまより 新太拝

1892(明治25) 年9月11日

 九月十一日 日 (ブレハ紀行) 今朝六時頃ニ起る 七時前ニ手紙を郵便持ニ渡さなけれバ又一日おくれるからこんなニいそいだのだ 総身ニ熱が有る様で気分が本当でネへから憤発して下シ薬をのむ 十一時頃から久米公等と少しく散歩 お昼御膳ハ久米の部屋ニ取り寄せ三人で食ふ 食後村の小供等が宿屋の前ニ集て居てオレが久米公と次郎公ニやつた端書を一枚どこでひろつたか知らないが持て居て名を読で大きな声でからかうから腹が立つた こん畜生め等をれなんかがだまつて居るからいゝ気ニ為て居上ると思ヒ頭痛のするのも打ち忘れ二階から下りて小僧等を逐ヒ廻して呉れた 三時頃から外ニ出て第一をれの部屋が有る内の庭など見る それから東の浜辺の芝原で日影ニ為て居る処ニ行て小説など少し読む 後画をかきニ行く 七時頃迄仕事す 夜食後散歩し海岸で月を見る 宿屋ニ帰て茶を飲む 十時半頃内へ帰る(今日ハ天気が久し振でよかつた)

1892(明治25) 年9月12日

 九月十二日 月 (ブレハ紀行) 天気がいゝから朝十時頃から画をかきニ出る 昼後ハ気分よろしからず 用心の為一旦久米の部屋ニ独で引込で居て長田ニやる手紙ヲかくやら昨夜見た海上の月景色ヲかくやら小説をよむやらして暮す お英さん一連今朝九時頃ニ立て行たので宿屋の部屋が一つ明た 久米公の指図で今夜から其部屋ニオレがねる事と為る ねる前ニ床の中ニ居て茶など飲でやつた

1892(明治25) 年9月13日

 九月十三日 火 (ブレハ紀行) 終日内ニ引込で居タ 気分ハそんなに悪くネへが熱が有ツテ困る 下女の周旋で薬を売る尼がやつて来た めしハ昼も晩も久米公等と部屋ニ取り寄せて食ふ ちようど夜食を食て仕舞ふと云時分ニ青ン僧爺やニ娘三人連で這入込で来た 爺やがあすの朝立つので暇乞ニ来たのだ 青ン僧が例の達者口で九時半頃迄もしやべつて行た 後例の如くお茶ヲ頂く 又尼ちよがくれたキナを下女が飲まして呉れた 西洋ニ来てから今日始メテ本当の薬ヲ飲だ

1892(明治25) 年9月14日

 九月十四日 水 (ブレハ紀行) 今日も終日内籠り也 病気ハよくもならなけれバ又悪くもならぬ 今朝モキナを飲だ 又奇妙ナ草の(サントレと云石竹の種類の様ナ桃色ノ花の咲く草で熱さまし也)煎ジ汁を飲ました 下女なかなか能く世話ヲやいて呉れるわい 昼めしも晩めしも独りで食たせいかもう二日もつゞけて内ニ引籠で居るせいか又病がいよいよ悪いのか知らネへがさつぱり甘くなかつた 昼後ハ久米公 次郎公トカルタを取て遊ぶ 夜食後久米公等のすゝめでチイヨルと云木の葉の振出シヲ飲で汗取りヲやらかす 随分苦ルシカツたが汗ハ能く出た 今日も五時頃ニ尼ちよがやつて来タカラ面倒臭ヒと思ひ今日ハもう余程いゝと云て見たらそうだろうキナが利たニ違ひない面色が昨日から見れバ余程いゝ なニしろ下しが足りないのだなんかんて云て行た みやくも取らずニ人の病気が分る様ナラたいしたもんだ べらぼうめ此の尼ちよが此処で医者の代りヲして居るのだそうだ なる程尼の役ニいゝ役だ だがもう少し医学ヲ心得て居てもらいてへもんだな

1892(明治25) 年9月15日

 九月十五日 木 (ブレハ紀行) 今朝なんかハ実ニいゝ天気ダ オレの心地ハあんまり昨日ニ変らず おまけニ今日ハ頭が痛いわい づくんづくんと痛いのぢやネヘ カーンとした様ニいたいのだ 夜も汗が始終出た様ニして心地よくねられず いつ迄もこんな風ニして暮らすのハ不意気千万パンポルニ行テ一番医者ニ見せてはつきりと理屈ヲ聞て見度い なニしろ此処ヲ引上るニしかず パンポルの宿屋ニ電信ヲ懸けて今夜の用ニ部屋が有るかないかを聞合す 使ニやつた奴が帰来て電信局でオレの書テヤツタ電信文を分りよくするが為メニ別ニ二字加へたと云 なんだ畜生め実ニ此処の電信局の野郎ハ失敬ナ野郎だ 此間河北ニ電信ヲ出シタ時モ糞と云字ハ電信で出せないとかなんとか云訳で自分勝手ニ字ヲ替へ上ツタそうだ 糞と云様ナ字電信でやる事が出来ナイと云規則ガ有ルノナラナゼまるつきりオレの電信ヲ辞て仕舞ハネへのだ 人の文章ヲ我儘ニ直すとハ不届き千万だ 一字でも半字でもオレの考から出た字でネへ字が這入た日ニハ長い手紙の文の様ナものならともかくも電信文なんかハ実ニメチヤメチヤだ 十二時ニ為て返事が来た 部屋が有るとの事だからいよいよ立て行事ニ極め直ニ渡し舟とラリクセストからパンポル迄の車とを申付く 四時頃ニ立つ 次郎公も一緒ニ立つのだ 久米公も送てパンポル迄来る パンポルでハ先づ第一ニ町を散歩ス オレはやつぱりだるくていけねへ とうとうお医者様の内ニ行て見て貰ふ 此の医者様六十計の老人ニテもとハ海軍の医者ヲつとめ東京(トンキン)などニ行た事の有る奴だそうだ 何ニオレの病気ハ本当の立派な病気の様でハない なんでも一寸暑ニ当たのだろうと云見立也 キナを少し用ろと云て書付ヲシテ呉れた 診察料の安いのニハ驚き入た たつた一仏サ 夫レから薬ヲ買ヒニ行キ又豆茶屋ニ行きリモナード水ヲ飲む 此の茶屋ニさつきの医者様が見えて居た 夜食ニハ玉子ヲ二つ入れた汁ヲ一杯飲だ計り お医者があんまり食ふナと云た 又めしハ食ヒ度くもネへ 食後久米公と次郎公ハ一寸散歩ニ出懸た オレハ歩くのハいやだつたから引込で居る 奴等が帰て来てからカルタ取ヲ始メル オレが一番勝た お茶なんかを部屋ニ取寄てのむ オレハ薬をのんだ お茶も飲み度くネへわい 十一時頃ニ寝る

1892(明治25) 年9月16日

 九月十六日 金 (ブレハ紀行) 七時頃ニ起き朝めしニ汁ヲ一杯のむ 薬ものんだ お立ちと云もんだからなんだか少しハ気分がいゝ様だ 八時少し過キニ次郎公と乗合馬車ニ乗り込む 久米公ハ今日ハ此処の隣り村のケリチとか云処ニ住て居るランデルと云画かきと鳥打ちニ行くと云て行た 奴も之レからたつた独りニ為て淋しいだろうと思ふ 八時半頃ニ車が出た 合込人はオレナンカの外ニばゞあが二人四十位の男が独りと小供一人也 オレの隣ニ座たばゞあいやな奴 ベドス老婆の二代目也 オレハしばらく眠て居て知らん面ヲして居てやつたがとうとう仕舞ニぶつちめられた つまらネへ 次郎公ハ始メつから野郎ニつかまつて色々ナ事聞カレテ居上る guingaup ニ十二時十七八分頃ニ着た 汽車ハ十二時二十三分ニ出るのだからいそがしいわけさ おまけニばゞあの畜生ニ荷物の無代運賃の周旋を頼まれオレなんかの切符ヲ出シテ糞老婆荷物ヲオレなんかの物の様ニして出すやら大騒き 先づ首尾よくすんでおめでたし だがめしヲ食ふ暇もなけれバ又此の停車場ニめし屋ハネへ どうせ三分龍迄行かなければだめだ 婆やハ下等でオレなんかハ中等だから一と先づお別れニ及びたり 一時間計たつて三分龍ニ着た 汽車の中で食ふ様ニ出来て居る食物入りの籠ヲ一ツ買ふ 冷肉とパンを少し計り食ヒ酒ヲ飲だら胸がへんニ悪い様ニ為た 三時過ニレンヌと云処ニ着た 一寸下りて水など飲む 気分あんまりすぐれず 七時頃ニルマンニ着く 此処ニ三十分計の止りが有ルのでめし屋ニ這入り食ふ オレハ汁ニ玉子ヲ一ツ入れて食つた計り 又時ガ有つたから糞場ニも行く 帰りがけニ今朝のばあやニ出ツこあす 又少シしやべられた どうも気分が本当でネへぞ さむけがして来上つた うつうつネた様ニしてやつてくる だんだん進で巴里から二十五里有ると云シヤルトルと云処ニ着たら少し心地が晴れて来た 十一時半頃ニ巴里高元原停車場ニ御着 あのばゞあの迎ニぢいやが来て居た 丸デベドス夫婦ニちつとも変らず 矢張ベドスの様ニ大黒頭巾ヲ冠て居ルから ベドスと違て居ル処ハ二代目ベトスハばあやより丈が低い そうして奇ナ事ハ此のばゞあも二度婚礼した奴だそうだ 今日の気車ニも随分乗込人ハ多かつたが巴里ニ着前ニハオレなんかの外ニ法主独りと町人一人よ 町人の野郎ハだまつた様ナ奴で極おとなしくして居たが法主ハいやナ奴さ 次郎公が色々ナつまらネへ話しの御相手さ 次郎公ニよつかゝつた様ニ為たり又次郎公のもゝの処ニ手ヲついたりして話ヲし上ら いつかのフオテヌブローの金玉握ヲ思ヒ出シテおかしく為た 次郎公を指して之レハ日本のお方だ 前ニ居る人も 之レハオレよ 日本人だそうだがあの人は支那人面だ 日本でも支那の方へ近い処で生レタ人だろう どうお考へなさると乗合の者共へ聞上ら そうするとオレの直前ニ居た馬場がかさをかいたと云面体の男が答ニ 丸で支那人の通りだと云上ら ナサケネへ奴等ダ 人の面の不出来ヲ大声で評するのハアンマリダネ 此の話ヲ知らん面して聞て居るオレの腹立だしくもおかしさよ 又法主の畜生が次郎公ニ色々宗旨の話ヲ始メたので次郎公ハいよいよ面倒臭く思ひ宗旨の事ハわたしハちつともかまはないと答たそうだ そうすると法主が云ふのニ そうだつて先きの世の事がこわくハないかと ナアーニ死でから先きの事ハ丸つきり考へないからこわくもなんともネへ 此の次郎の返詞は中中甘かつたと思ふ お着ニ為るや直ニお車に被召宇治里御本城へ御帰り相成 のどがかわいて居たから炭をおこして砂糖湯ヲこしらへて飲む

1892(明治25) 年9月17日

 九月十七日 土 昨夜から雨さ 十時頃ニ起き衣物ヲ被替へ十一時十五分頃大急ギて汁ヲ一杯門番の小座敷で飲み次郎公ヲ置て立ツ 次郎公ハ十二時四十分かの汽車ニ乗てブリユクセルへ帰ルのだからゆつくりとめしヲ食て行く丈の暇が有ル 十二時十五分の汽車ニ乗り込む

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