本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年7月25日

 七月二十五日 月曜 (ベルギー・オランダ紀行) 市中の店ハシメテ居ルノでボツボツ歩て北停車場の処ニ行キ近処の酒屋デ朝メシヲ食ふ 和郎家へ名札ヲ置き七時半頃松方氏ヲ訪ふ 寝部屋ヲ攻撃ス 和郎八時頃来る 久米公ハ和郎ト出ル 十二時過帰る 此処で(松方氏宅)お昼ごぜんの御馳走ニ為る 食後久米公ハ出る オレハ独リデ三時十分頃の汽車ニ乗リ田中 河北の両氏ニ逢に行く Watermact ト云処也 武律悉から歩て行て一時間計の処也 田中氏ハ不在 河北君ニ逢ふ 一緒ニ散歩ス 先づ此の間鉄砲腹ヲ切タ武乱世将軍の墓ヲ見ル 其銘曰ク Marguerite 19 Decembre 1855 16 Juillet 1891 a bientôt Georges 29 Avril 1837 30 Septembre 1891 Ai-je bien pu vivre 2 1/2 mois sans toi! 武乱将軍気取てますね 此の墓ヲ見てからカンブル公園ヲ一周りして宿屋ニ帰る 時ニ六時頃也 田中も帰て居り久米もやつて来た 一緒ニめしヲ食ふ 田中が去年酒井 河北等ト和蘭などを倹約主義で旅をした時の奇談ヲ話ス 武律悉ニ帰り松方 久米トウエベルさんへ行く 十時半頃久米と手ぶらで仏国軒へ飛込む 行李ハ松方の内へ置

1892(明治25) 年7月26日

 七月二十六日 火曜 (ベルギー・オランダ紀行) 今朝十時頃ニ起キ宿屋の煙草部屋で日本へ出ス手紙ヲ書く それからぶら付 博物館ヲも見ル 三時頃ニ相場会所のわきのDubois屋で冷肉の鷄ト干豚ヲ食て昼めしヲごまかす 其レから和郎の内へお見舞ス 和郎出来る 皆さんお留守との事也 和郎の妹さんの内ニ名札置ニ行タ 松方の処ニ帰る 和郎六時頃ニやつて来た 又久米ト田中の田舍にめし食ニ行く 食後皆と一緒ニ散歩シ又御酒ヲ頂く 十時頃ニ武律悉ニ帰ル 松方氏の内の奴等と話などし又西洋汁粉の御馳走ニ為ル 今夜ハ此処(松方氏宅)ニ御厄介

1892(明治25) 年

 七月二十六日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉大賀候 文蔵様も新二郎と共に米国へ御越の由跡ハ御淋しく相成候事と奉推察候 文蔵様ニハ全くの御漫遊ニ御座候也 いづれ来年の大博覧会頃迄ハ御滞在の事と奉存候 今朝久米氏無拠用事出来白耳義国ブリユクセル府へ一寸被至越事ニ相成候故よき機会と存松方 田中 中村氏等へ面会の為急ニ思ヒ立ち二三日泊ニて一寸当地へ舞ヒ来候 松方氏ニもいよいよ来る十月頃ニ帰朝被致事ニ候 巴里にて加藤氏ニ面会直左右など承り大ニ安心仕候 御方ニて私稽古の都合等能ク解らざるが為御心配の御様子ニ承り候 私の望と申ハ折角出来懸り居候芸故可成ハ一と通りの仕上げ仕度事ニ御座候 已ニ新二郎も洋行シ其上私ハ最早十年近くも気儘ニ修業致し候事故そんナニいつ迄も稽古々々と計り云ひ居る事もいかニも無理なる次第 依而来春五月の共進会ヲ今一度試みたとへ受取られても亦受取られずとても其共進会後六七月頃ニハ一と先帰朝の事と致し可申候 以上当時私の心底ニ御座候 其の積ニて勉強相仕候間左様御承知被下度奉願上候 二百五十円の為換券慥ニ相届き申候 御礼申上候 加藤氏より日本当時の美術家連の相様等委く承り候 私共日本の世界ニテ如何致し候へば生活の道相立可申也実に心細き儀ニ御座候 此の地ニハたとへ貧乏ハして居ても実力ニ富たる人多き事故学芸知らず識らず進み楽み其中ニ在る事ニ御座候得共日本などニてはへたの寄合ひ至当の評をさへ得るニ難ク段々へたニ為り行く計りと考へ候へバ師匠も何もいらぬ位の腕前ニ為らぬ前ニ此の地ヲ去る事ぞかなしき儀ニ御座候(中略) 来年の共進会の為ニグレ村ニてかき掛居候夏の画色々工夫の末川辺の冷の体一と先取り止メ野原の木蔭と致し候 川辺の冷ニハはだかのものが無クては面白ク行かずそれニ付てハ金の都合甚ダ悪しき故之レハ他日金持ニ為リたる時の事として身分相応のものを相始申候 其画段々進み申候 御安心可被下候 余附後便に 早々 頓首 父上様  ブリユクセルより 清輝拝

1892(明治25) 年7月27日

 七月二十七日 水曜 (ベルギー・オランダ紀行) 昼めし前ニ三人連で古道具屋ヲひやかしニ行ク 松方氏の気ニ入たリユバンスの画ヲ見ニ行たのサ いよいよ其画ヲ百仏位ナラ買ふ可しと云事ニなり久米と三時半頃より其談判ニ出懸く ランブラントの小ナ画一枚副て百十仏ニやつゝけ其レヲ持て相場会所のわきの茶屋ニ行き一杯やらかし後松方氏の処ニ帰る 和郎が来て居る Pprtes de Loavoinなる旭門軒へ三人連で夜食に行く 九時半頃より仕度してウエベル家へ出懸く 二番目の娘ポーリヌさん伊吉利斯国より帰て居る つらつら此の一家の風を見るニ娘さんなども色気付たる様ニ為て面白からず 婆さん拙者等ニ対する振舞三四年前ニ比すれば深切の風少し いやニ気取タル処ハ金が出来て来タからの事 時と云者ハ人の心を変らしむるニ大事な者也と云感を起サしむ 第三番目の娘小僧なんかハ庭の隅の小屋のうす暗き処で士官学校の生徒とも云可き小びつちや野郎と手ニ手を握り合て居たる如きハ俗の極 お婆さん若キ画かきなどを三四人も集めて美術家ヲ保護するなど斯様ナルチヤンチヤラ可笑し □(原文不明)を咄も我娘の身持ヲ打ちやらかして置くのハ乍失礼お間違でしようよ 今迄ハいい婆さんだと思ていたがもういやニ為た をれの心も随分変り易いもんだナ 今夜も松方氏方のお亭主殿及ビ其お娘さん等の処で一寸話す シトロン水のお馳走ニあづかる 甘かつた 又此処へ一泊

1892(明治25) 年7月28日

 七月二十八日 木曜日 (ベルギー・オランダ紀行) 久米と古道具屋ヲひやかす 松方氏次郎公を連て来る 久振りで次郎公ニ逢たら中々大く為て居るわい テニエの画がほしかつたが安くまけないから止て帰る 昨日の如く今日も此処で昼めしの御馳走 しやけの魚を日本の醤油で煮タルなど味ヒ妙也 感心ナのハ此処の内の娘さんさ 小シモ高振らず松方の部屋ニ食事の用意などいつも自分でやらかす 只の話しも物知りの様ナ事ハ云ハずおまけニ面も体の形も十人並み おつと白耳義国の様な不別品揃の国ニ取てハ美人の内ニ入ル可し 先づ此人などが今度の旅の記念として永く残るだろうよ テニエの画がなんだかほしい おとつあんニ日本ニお土産ニ持て行クのに買て置うかナ もう時がねへ 松方氏へ金ヲ残して其買入方ヲ頼で置キ四時少し前の汽車で地南へ向て立つ 松方氏のおかげでミユーツとした様ニ為て居た気分がよく為たわい 又巴里へ帰たらミユーツと為るか知らん 田中の居る田舍の前を通る少し前で気車がごつんと来て動かなく為た 驚くナ驚くナ衝き当ツたんでもなんでもネへ 何ニかゞ切レたのだそうだ 一寸つくろつて田中の村の停車場迄引テ行キ此処で一とつ後の車ニ乗り移る事サ 此の位の事でも日記の種と為る ナミユールで又車ヲ替ユ 今度ハ御規則ニ従たのだ 六時十五分頃地南へ着 地南ハ白耳義の箱根也 切りへずつた様ナ山がニユーツとして居て其前ニ無洲〔ムーズ〕川が流て居る次第よ 町ハ川の右岸で山ヲ背ニして建たものさ 一番目に付くのは橋ヲ渡て直左の隅ニ在ルお寺也 塔が山と丈くらベヲして居る 山の上ニ建タらもつと高く為たろうニアハヽヽヽヽ 宿屋の数も多い様ダ オレなんかハ橋の手前の Hotel des Postes 郵便楼ト云のニ這入タ 家来共皆大礼服也 部屋の窓からノ長目ハ川が足の下山が鼻の先也 七時のめしと聞く 時間が充分に有ルから村ヲ一通り見物す 但シ寺より左の方の貧乏町の方を見た 夜食後川辺の縁がわで豆茶ヲ被聞召ナガラ松方氏へ一筆やらかす 後又町へ出で本通りヲ見物す 細工物ナド商ふ家多し 土産としてつまらぬ箱切など手ニ入る

1892(明治25) 年

 七月二十八日附 ディナン発信 父宛 絵葉書 本日午後四時頃の気車ニテ久米氏ト共ニブリユクセル府出発此の地南ト申邑ニ参り候 今夜ハ此処ニ一泊明朝ハ彼の普仏戦争ニテ有名ナルセダンヲ見物仕明後日頃帰巴の積ニ御座候 此の地南ハ温泉ハ無之候得共先ヅ一寸日本ニて申さバ箱根の湯本の如き処ニ御座候 箱根細工の如きものなども処々の店先ニならべ有之候 以上  清輝拝

1892(明治25) 年7月29日

 七月二十九日 金曜 (ベルギー・オランダ紀行) 七時少し過ニ郵便屋ニ行キ電信一つと日本への端書ヲ出ス 帰て朝めしヲやらかしまだ時間が有ルので久米と町ニ出る 又名物の細工ものを買ふ 八時四十分頃立ち十二時過ニ世談駅ニ着ス 停車場中のめし屋で昼めしヲ食ヒ直ニ骨塚の有ル馬尻〔バセイユ〕村ヲサシテ行ク 道のり殆んど我一里計り 暑サの強キニハ閉口シタリ 久し振デ此んなあつい目ニ逢たわい 久米公ハ已ニ一昨年田中と此処ニ来タ事が有ルノダ 馬尻村で先づドヌービルが最後の玉とか云題で普仏の戦争の時仏人等がまけて一ツの小屋の中ニたてこもりたる図を此処ニてかきたりと云内ニ立寄り庭先の腰掛ニ休息シ麦酒ヲ飲む 此の内の奴等ハ戦のおかげでとんだ金もうけをやらかすわい なんとか云隊長が玉ニ当りながら寄り掛つたりと云茶棚又窓の硝子の破れたのや天井の玉のあとなど其時の儘ニ存ス 又此の家ニ鉄砲の玉や剣の折れたのや甲のくづれたのなんか種々さつたナものをひろひあつめて一室ニをさめ旅人ニ見せて御志ヲいくらでもよろしいと云て頂く 内の娘の十七八ニ為る美人ニ案内さして見物したり 又戦の時の写真一枚記念の為買入る 直ぼんニでも送てやろうと思ふ 此の茶店ヲ出て骨塚ヲ見ル 地下ニ穴蔵ヲ堀り骨をおさめ其上ニ塔ヲ立てたり 穴蔵の中ニ入れバ真中ニ通り一つ有り 鉄の垣ニテ前ヲふさぎたる部屋両側ニ並ビテ有り うす暗き体裁など中古の牢屋の如シ 各室の真中ニも通り有り 其両側に骨をならべたり 肉や衣類の付キタル儘の骨も有り 靴ヲはきたる足ハ多シ 髯のはへたる頭も見受ケタリ 穴蔵ヲ右と左ニ別チ右が仏兵ニテ左が独兵也 独の方ハ暗すぎてよく見えず こんな骨かすでも人の死ダのを見るのハ余りいゝ心地のするもんぢやネへ 歩て世談ニ帰り停車場前の茶見世で水ヲ呑む 甘い甘い 此処ヲ四時ニ立ツ 五時半頃ニ久米が一昨年二三ケ月住て居タダンゾールコンニ着ク 直ニ停車場前の宿屋ニ行ク それから久米の案内でダンの町ヲ見物ス 高台の乞食町の様ナ処古風ガアツテ一寸面白し 夜食ハ妙ナ俗人等ト一緒ニテ面白からず 併シ品数ヲ沢山食ハせるのニハ満足の至り 食後ゾールコン村ニ散歩ス 道の両がわニこやしニする藁ヲ積ミたれバ臭し 本当の田舍也 此の村はづれの土手の上ニ腰ヲ掛テ極遠方から此方へ向テ来る馬車の灯ヲ見て涼む 宿屋ニ帰り戸口の外ニ腰掛テ家内の者等と麦酒など飲む 今夜のあつさハ中々也 部屋のきたないのニ似合ず虫ハ居らず感心 其代り二階の部屋で餓鬼が夜中なき腐つて人ヲ困らせ上ツタ 又嵐がして神鳴りがなるやら窓の戸ヲばた付かすやらした

1892(明治25) 年7月30日

 七月三十日 土曜日 (ベルギー・オランダ紀行) 今日ハ朝からあつい 八時四十五分の汽車で立 停車場で教師コラン氏の従弟で久米が知て居る某氏ニ出逢ふた ベルダンニ十時ニ着く 荷物ヲ預て置テ町見物ニ行ク 兵営の在ル地故兵隊多シ 市中の茶屋ニ立寄り休息旁飲む 今日ハフラネルの繻半の上ニ上衣一枚引懸て居る計りだから昨日より少シハいゝ様ダ それでも中々あつい こまるこまる 停車場迄もどつて来て停車場中の料理屋でひるめしと出懸く 此処で此の近辺のある地の名物なる砂糖煮積ヲ一箱買テ三介方へ送る 十二時ニ立ツ 三時ニシヤロンニ着 此処ニ一時間のとまり有り 麦酒ヲ飲み又パンや豚の腸詰や此の地方の名物シヤンパン酒一本の四分の一など買入る 気車の中で食ふが為也 車ヲ乗り替へ四時ニ発し八時半頃ニ巴里ニ御安着 御車ニ被召て御宅へ御帰り 巴里でハ余程雨が降りたと見えて市中がぬれて居テいなびかりが盛ニやつて居るゾ 内に帰て見れバフオンテヌブローからの手紙が一本来て居た 又日本からの届物も持て来て有つた めでたしめでたし

1892(明治25) 年

 八月一日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事大元気にて一昨晩帰巴仕候 白耳義国ニては松方氏ニ厄介相成居面白く暮し申候 同氏も来る十日頃ニハいよいよ帰朝致被筈ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年8月10日

 八月十日 水 十二時十五分の汽車で鞠屋の為薬ヲ持て暮村ニ行ク 夕七時の汽車で巴里へ帰て暮より清泉迄森江老婆ト同道ス 里昂停車場ニて夜食 富貴楼の店先ニテ平田 曾我 桜田等待合す 共ニ午前二時頃迄ぶら付 当地名物のはだかの女郎屋等見物 今夜曾我 桜田氏方へ一泊

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