本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年8月11日

 八月十一日 木 昨日曾我の案内で平田サンドニニ行タリ 今朝平田が其サンドニの大砲製造所の事務所(Me Royaleニ在)ニ行キ度いと云ので行タ 桜田氏も一緒ニ行た 午後平田ハ桜田氏とエイフエル塔見物 又序に荷物ヲ内ニ取りニ行ク 僕ハ曾我と少しく町をぶら付油絵の見世などのぞく 余り暑いから曾我の内へ帰て休息 平田等も帰て来タ 平田ハ今晩立ツ積故早々と夜食ニ行 近所の安めし屋(Me Vivienne)で吸物など飲みながら今夜迄巴里ニ居ルナラ内デ日本のめしヲやるがどうだ それぢや居ようと云事ニ極まる 直ニめし屋ヲ出オレハ桜田と同道内に帰りめしの仕度をやる 平田も曾我と程なく来る 豚鍋のお馳走ヲ頂く 十時頃から諸生町ニぶら付あつちこつちで飲む 河北道介と新参の日本人二人ニ逢ふ 午前二時頃内ニ帰る 皆とごろ寝

1892(明治25) 年8月12日

 八月十二日 金 内の下の居酒屋で皆と十一時頃ニ玉子焼や牛など食ふて腹をこしらへる それから皆に別れて立つ 十二時十五分の汽車ニ乗り暮村ニ向ふ 平田ハ一時頃の汽車ニ乗てハーブルへ帰る積なりし

1892(明治25) 年8月14日

 八月十四日 日 今朝の便で曾我からの端書ヲ受取直ニこつちからも端書一枚出す 今夕七時の汽車で桜田が着て来た 宿屋ニもどこニも明部屋が無いので拙者の内ニ来て泊る 例のごろねをやらかす

1892(明治25) 年8月15日

 八月十五日 月 終日桜田と一緒也 晩めしニ奴の企で牛の汁にそうめんを入れて食ふ オレの内でやるのだから気楽此の上なし 二人共大はだぬぎでやつゝけた 若し夷人でも来上つたら随分驚くのだつたろうに 宿屋ニ部屋の明が出来たので桜田ハ今夜から宿屋ニねる

1892(明治25) 年8月16日

 八月十六日 火 朝の便で新二郎の手紙と巴里の御本城の門番から送て来た久米公からの電信ヲ受取ル ひる後の便で母上様へ手紙ト日記ヲ出し横浜開通社へ向ケ船積証書ヲ書留で送ル 又久米公へ端書で電信の返事ヲ出す 後桜田氏と釣ヲ試む 夜鞠屋方ニテ少しく話す 又桜田と散歩ス

1892(明治25) 年

 八月十六日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたしハこのごろハいなかニをります どうもこの五六日のあつさニハまことニへいこう あせがでてかないません こないだのにつきのつゞきをおくつてあげます ことしのきようしんくわいのためニかきましたゑを一まいおくりました このてがみのつくころニはとゞくだろうとぞんじます よこはまの開通社といふところニあてゝだしました そのかいつうしやからうちニとゞけてくれるでしようとぞんじます このをんなのゑハきようしんくわいでハことわられましたけれどもわたしハずいぶんほねをおつてかきましたのですからどこにだしてもまたひとがなんとゆつてもはづかしくハないつもりです がくぶちハとりはづしたゞゑだけをくりましたからがくぶちハそちらでこしらへさしてくださいますようニ父上様ニ申上げてくださいまし ひのきのまさめかなんかたゞきぢのまゝのがくぶちのほうがきんぱくなどのついたのよりよつぽどよろしうございます またくろぬりのふちでもいゝでしよう なニしろかざりのないものニかぎります 父上様のおかんがへどうりのものでけつこうでございます そのかいてあるかほのをんなはこゝのいなかでよくしごとなどしてたいそうしんせつニせわをしてくれるやつですがこのごろハびようきニてよつぽどよくようじようしないとなかなかよくハなるまいとのことまことニきのどくなことです さくらださんといふひとがこの二三日まへからこゝニあすびニきてをりますのではなしあいてがあつていゝことです まづこんどハこれだけ めでたくかしく 母上様  グレより 新太拝

1892(明治25) 年8月17日

 八月十七日 水 久米公からの手紙ヲ受取羽書で返事ス 昼後四時頃より六時頃迄久し振で勉強す それから桜田と鰻釣りニ行く 一匹も取れず 又一寸水あびヲやらかす 夜食後九時半頃にジヨルジユ等と車でモンクールへ行 帰て来て桜田の処ニ行キ宿屋の連中(オーギスト夫婦等)とレモン水など飲む

1892(明治25) 年8月18日

 八月十八日 木 朝郵便で地南見物ヲ日本へ送る 久米公ニ羽書ヲ出ス 十時頃より画ヲかく 出来非常ニ悪ク不平極る 午後五時頃迄桜田と話ヲなし夫レから七時半頃迄描く 夜食後桜田が話しニ来豆茶など飲む 新二郎へやる手紙ヲ書く 一時半頃ニ寝床に入る

1892(明治25) 年8月19日

 八月十九日 金 長田からの羽書と曾我からの手紙が今朝届く 又日本へ羽書一枚出ス 細工物ヲ送り出した知らせ也 新二郎への手紙モ出ス 昼後の便で曾我ト長田へ羽書ヲ一枚づゝ出ス 松方トエドワールへ写真ヲ送ル 三時過より六時迄描ク 久シ振で少しく雨 気候為メニ涼しく為ル

1892(明治25) 年8月20日

 八月二十日 土 おひるごぜんニ桜田君ト牛鍋ヲこしらへて食ふ 午後三時より七時過迄釣りと画かき 晩めしヲこしらへて居ル処ニ宿屋の老婆ヲ案内に連れて曾我が来ル ひるのめしの牛の残り中にめしの残りヲ入れて煮ておかずとし別ニめしヲ少したいて曽我と一緒ニ食ふ 食後九時半頃ニ桜田がやつて来ル 三人連で少しく散歩し又宿屋ニ行て巴里から来て居ル極々すれつからしの手本サラブルーンニ酒などのまして笑ふ 宿屋ニハ部屋が無いので曽我ハ内ニ来てねる

1892(明治25) 年8月21日

 八月二十一日 日 今朝いつもより少し早く起きる 曾我ヲ一足先キニ出して置てふとんなどむちやくちやニ散らかつて居るのを少し直し七時半頃ニ宿屋に行き三人連で朝めしヲ食ヒ八時頃ニ前以テ申付ケテ置た兎馬の車ヲ引き出シたり 清泉の森の狼が谷ニ遊ぶ 桜田が今日どうしても立つと云ので荷物ヲ序ニ停車場ニ持て行た 帰へりニハマルロツトの方を通た 十一時半頃ニ暮ニ帰り付く 直ニ宿屋で食事をやらかす いよいよ桜田ハ二時の汽車ニ乗ル積りで立つ 宿屋からオレの内迄送て行き別る 奴ハ巴里でハ宿無しだから内ニ来て泊る様ニ御本城の鍵ヲ渡シテ置く めしヲ食て仕舞て豆茶と云段ニ為た時ニ女芸者(手本ダの引張だのと云者ハ日本の芸者の類)サラブルンヲ招デ茶の相手ヲ申付ク 後曽我ト舟ニ乗り少しく川ヲさかのぼりよき木蔭ニ舟ヲ停メテ一寸眠る 中々心地よし それから又少シク釣ヲやらかす 内へ帰つて此間からたまつて居ルよごれた皿や鍋の洗ヒ方ヲやらかす 序ニ又日本めしをつくる 曾我が米ト砂糖ヲ買ヒニ行た なんニも野菜が無いのデ曾我が散歩ニ行た序ニベトラブヲはたけで盗で来る 之レデ漬物でも作ろうと云事ニ為ル 少し切テカンデ見ルト甘い様でそんなニ悪くハ無い様だ アヽ夷人ナンテ馬鹿ナもんダなぜこんなものを毛だもの計ニ食ハして置くのだろうなんかんて悪口ヲ云フ 其内曾我が試ニしほとすでもんでみると大変土くさくて中々食へるもんぢやネへ とうとう食ハぬ事とあきらむ 食後縁日ヲ見ニ行く 今日から例年の祭が始つたのだ こんな面白クネへ不平ナものハ先づ天下ニ少し 今年の祭いつものより盛なりと云ものハ小学校の新築が出来上つたので其開業式ヲ兼たれバなり なんとか云元老院議官先生が頭で演説が有るやら奏楽が有るやら又大御馳走が有るやら大騒ぎ 夫レニ付てハ処々方々近所の郷の者等が集つたりと云もんだろうぢやネへか 村でハ上を下へとびつかきまわした大騒ぎ ブルス氏夫婦と一緒ニぶら付く 後宿屋の門先ニ腰掛ケテ麦酒など飲む 十一時半頃ニ別れて帰る なんでも寝込だのハ一時半頃だつたろうと思ふ オレも随分好な性分だ こんナ祭だとかなんだとかつまらぬ事ニ人が騒で居るのを見るとなんだか腹が立つた様ニ為ていかネへ こまつたもんだわい 曾我ハ今夜宿屋ニねる

1892(明治25) 年8月22日

 八月二十二日 月 今朝八時頃ニ曾我の野郎が来て起した それから一緒ニ朝の豆茶を飲みニ宿屋ニ行く 朝中曾我が釣ヲするのを見て時ヲ過す ひるめし前ニ一寸水ヲあびる オレのあとで曾我も少しおよぐ 又宿屋でめしヲ食ふ 食後ブルス氏の処へ豆茶ヲ頂キニ曾我と出懸く オレがいつかモガロ新聞ニ出シた画の下画などを持て行て見せてやつた 四方山の話ヲして一時間半近く居て帰る 曾我と又昨日の如く舟で昼寝ニ出懸く 今日ハ風がちつともないので昨日程ハすゞしくなかつた 昼後の便で久米公へ端書ヲ一つ出す 近々の内ニ是非島へ行くと云てやる 七時の汽車で曾我が帰へるので少々早やばやと宿屋でめしヲ食ふ 停車場まで送て行く 豚屋の下人が豚車で停車場迄行くのニ出逢ヒ一緒ニ乗て行ケト云ので其通りやらかす 帰りニハ一とまわりして墓場の方へ出る ブーロンの小道ヲ通て帰る 友達ハ皆帰て仕舞ふシ世間ニハ祭が有ル 体ハなんだか労レた様ニして居ると来たので畜生今夜ハもう直ニ寝て仕舞へと思ヒ被物をぬぎ足など洗ヒさつぱりと為て寝床の上ニごろりとして居る処ニ鞠屋と美天の小僧の声が下の土間ニするから直ニ飛ヒ起き股引を突込み下ニ下りて見ると今都合がよければ会計の帳面付ケヲしたらどうだと云 面倒だが借りなどヲ払ふのハ此の上もない結構ナ気分がする事だから大喜ビ 直ニ仕度して奴等の内ニ行き勘定をすましたり 序ニ金も替へてもらつた 五百仏の内二百丈取て三百預ケテ置ク

1892(明治25) 年8月23日

 八月二十三日 火 今日がお祭りの仕舞の日だ おひる前ニジヨルジユが話しニ来る 昼めし後奴と一緒ニ宿屋に遊ビニ行く 舟こぎをする為ニ行たのだが舟のろを付くる処がこわれて居ルので舟遊ハだめ 併シオレは独りでしばらくの間一本のろで舟をあつちこつちニやつて時ヲつぶした 後奴が麦酒ヲおごつた それから市ニ行テ室内射的ヲ試ム 四時頃から絵かき部屋ニ入りくらく為る迄仕事ス 夜食ニハ羊ヲ日本流ニ煮て日曜ニ曾我と食ためしののこりを食ふ ジヨルジユニ約束して置たから又九時頃から縁日ニ出懸く 鞠屋などニ出逢ふ 射的ナドやつてからジヨルジユと宿屋ニ行き飲む 十時頃ニ別れて帰る 今朝の便で久米公からの書留ヲ受取ル 奴の為換が着たので銀行ニ金取りニ行て呉れとの事也 其他入用品の注文也 直ニ絵具屋シヤルボの処に端書で注文ニ及ブ 久米公ニオレハいよいよ島ニ行気だと云事ヲ云てやる 又長田の小僧ニ此頃ハどうして居るか此処でハ祭が有つて困ると云てやる いづれも端書也 小僧ニやつた端書ハ昨夜書た 今年の此処の祭ハ前ニも記した通り例年より余程ニぎやかだつたが其わりニハ気分が悪くならなかつた いやなものを見ても平気で決シテ自分の気分ニハ差支へが無いと云様に立派ニ悟を開ケバ此の上も無い結構ナ事だがオレが今度のお祭でそんなニ気分ヲ悪くしなかつたと云ものハ去年よりオレの考が大きく為たものとハ思はれない 決してそう云訳ぢやあるめへ 実の源因と云ものハ第一ニ伊賀棒の如き動物が目の前ニぶら付かないのと第二ニ友達の奴等が来て遊で居たのと第三ニ人と云ものハ只ちんこまんこ丈の力で為り立て居るものゝ様ナ感じを起サしむる田舍の踏舞ヲ見ナかつたなどならんか あのをどりならバ三度のめしも食ハずといゝと云位ニ見えて居た鞠屋がをどりを見て居ると随分馬鹿ゲテ居るなどゝ云様ニ為たと云ものハ病気で体力がおとろへて居るのが元となつて居ルニ違ヒないがオレの兼ての踏舞好ニ付ての悪口も幾分か力をそへたるものゝ如し 今夜宿屋ニ酒のみニ行た時松方氏よりの二十日付の手紙ヲ受取る 送た写真ヲ受取たりと云知らせ也

1892(明治25) 年8月24日

 八月二十四日 水 朝ハ書物ヲ読む ひるめしニハ又羊ヲ醤油で煮て食ふ 此間のめしヲとうとう今日食て仕舞た 曾我からの手紙ヲ受取る 川村からオレの宿所ヲ聞てよこしたと云 三時少し前から画かき部屋へ行き暗く為る迄居た 今日ハ昼後盛ニ雨が降た 久し振の大雨で心地よし 夜ハ雨が上つた 其更り風が少し出た

1892(明治25) 年8月25日

 八月二十五日 木 天気悪し 朝十時頃から昼迄画ヲかく ひる後も五時頃迄かく 七時の汽車で立ツ 巴里の御本城ニ帰て見ルト桜田からの端書島よりの端書それから小学校の友達のウードワアードからの手紙と着て居た 桜田ハいよいよイギリスへあした立テ行テ仕舞ふとの事 島でハ無事オレの行くのを待て居る様子 ウドワアードは此頃亜米利加から出て来て居ルカラオレが巴里の近所ニ居るなら是非逢ヒ度いとの事也 手紙ヲ読だりかれこれして居る内ニ十時頃と為る 乗合ニ乗て桜田の方へ行 今夜ハなんだか非常ニくたびれて居ル 行くのハいやだがあしたの朝早く立て行クナダツタラ逢へずに困る

1892(明治25) 年8月27日

 八月二十七日 (ブレハ紀行) 三分龍へ六時頃かニ着 之レから乗合でパンポルニ十一時少し過ニ着 久米ト次郎公が迎ニ来て呉れた 別仕立の馬車でアルクエスト迄行島ニ渡り宿屋ニ着た時ハ一時半頃 宿屋の客ハウードビルと云英人夫婦 亭主ハ新聞絵かきだと云 其他ニハ巴里生れで今でハベルサイユニ家を持て居ると云何職だか知れない親爺と其娘と又其娘の娘と三人 われわれ三人入れて都合八人也 去年の様な気楽な訳ニハ行かぬぞ 宿屋ニハ部屋がふさがつて居るのでオレは宿屋の亭主の母の内と云のゝ一室ニ寝る事と為る

1892(明治25) 年8月28日

 八月二十八日附 ブレハ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉賀候 私事昨日武烈波島ニ参リ候 海岸の景色など少しく研究仕積リニ御座候 暮村の方ニ折角かきかけ置候画有之候間当地ニハ凡ソ十五日か二十日程滞留の見込ニ御座候 久米氏 中村氏等ハ已ニ本月三日頃より此島ニ住ヒ被居候 先日送リ出シ置候画横浜ニ着候上ハ横浜開通社の手ニテ御地へ送る様都合致し置候 横浜ニテの税関かれこれの入費及ヒ横浜より東京迄の運賃ハ開通社の方へ御払ヒ込み被下度奉願上候 其他の費用ハ皆当地ニテ已ニ払申候 其通り御承知被下度候 開通社の頭取とかハ服部敢と申人ニ御座候 其人へ向ケ船積当証書及ヒ荷物の世話頼み入の手紙差出シ置申候 用事迄 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年

 八月二十八日 二十九日 三十日 三十一日 (ブレハ紀行) 此の間南の松原の方ニ画ヲかきニ行た日や北海の岩の上ニ波をかきニ行た日や又かにをさがしニ出懸た日や南海の方の瀬戸の流の中ニ這入てもう死ぬかと思た時なんか色々あつた けれどどれがどの日だつたかさつぱり忘れて仕舞た

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