本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年1月8日

 一月八日 水 (京都日記) 十一時頃ニ一力亭より帰る 午後吉川泉一君が尋ねて来て長く遊で行く 今日は年始状ののこりを書いたり又アトリエの片附け等をして暮らした

1896(明治29) 年1月9日

 一月九日 木 (京都日記) C’est le dernier jour du ménage avec Takéoutchi, mon étudiant-domestique,ex-acteur du théatre des Soshis. 午後四時頃竹内と中村を訪ひ奴を引出し六角千本辺を散歩す 四条通を経て帰寓途中四条芝居にてうどんを食ひ又内へ帰つてからハ途中で買つた牛で夜食した 食後中村と世阿弥ニ行き Schutz ニ逢ひ後ちシユツモ松原も一緒ニ宵惠比寿の市を見物し京極坂井座ニ立寄る 此処で一力の女連及竹内ニ出逢ふ 皆打連てアトリエニ帰り二時頃迄馬鹿話をした 一時前ニシユツハ帰り中村と竹内ハ女連と共ニ去りオレハ松原と三時過迄はなしをした

1896(明治29) 年1月11日

 一月十一日 土 (京都日記) 朝起て見れバ雪が盛ニ降て居る 巴里の杉竹公にやる手紙を書く 巴里のスフローの小さな部屋ニ居た時の事など思ひ出す 郵便を出しニ行た序ニ湖水の雪景色などを一寸見て帰る 又善光寺山ニも登る それから宿屋の隣の牛屋で牛鍋を食ふ 午後三時頃ニ中村がひよつとやつて来た オレが金無しで居るから金を持て云ハヾ身受ニ来て呉れたのだ 夕方から一緒ニ出て栄川を渡て唐崎の松の方面へ向け散歩す 時々雪が降つて来て景色中々よし 余り時刻がおそくなるから松を見ることハやめニして帰る 夜三時頃迄話をしてねる

1896(明治29) 年1月12日

 一月十二日 日 (京都日記) 今日も亦雪 朝食後見習亭を出て疏水の遊船ニて十一時頃ニ大津を立つた 船の中ニてハ同船して居る者共を中村と写生して体屈をのがれた 一時迄円山の寓所ニ帰着 すしを取寄せ松原 中村と三人で此の二三日間ニ起りし事の始末を話しながら宴会を開く 夕方ニ為つて安藤を訪たるニ留守 夫れより三人で尾張楼へ行き一泊した

1896(明治29) 年1月13日

 一月十三日 月 (京都日記) 朝めしなど云ヒ付け酒など少し飲で尾張楼を出た時ハ早十時半頃 松原敦盛と相乗で三井銀行へ押かけ三十両丈せしめ夫れから中村方へ行き借金を払ひすしや御茶漬の御馳走ニなる 三時頃ニ内へ帰つたらお栄が手本を連れて来て待て居た 今日の仕事ハ丸でお話ニならず 内へ帰つて未だ画を始めぬ内ニ吉川嘉平が台湾から帰つたと云てやつて来た 夕方安藤が来て敦盛ら女二人都合五人で前の平野屋ニめし食ニ行た 安藤ハ大機嫌と為つた 食後又皆内へ来て十二時過迄居て帰つた 敦盛とオレと安藤を四条の小橋迄見送つて行て帰る

1896(明治29) 年1月14日

 一月十四日 火 (京都日記) 今日ハ十一時前ニ朝めしを平野屋から取寄せて食てぐづぐづして居る処ニ中村が来た 十二時半頃二中村と一緒ニ西洋料理の勝栄亭ニ行き夫れから Papa の用事で安居神社の社司鳥居と云人ニ逢ニ行き松原通のもとの借家の前の酒屋の爺をたづね乞食の巣を通りぬけてから一と廻りして又松原通ニ出三条ニ廻つて木村虎吉をたづねて逢ひ夫れから中村の内へ一寸寄り又寺町から仏光寺辺の道具屋を冷かし帰て又晩めしを平野屋から取らせて中村と食ひ食後四条京極等を散歩し針糸及ビヅボンのボタンヲ買フ 縄手大和橋下ル東側の縄のれんの料理屋ニ入り入口の処の机ニよつて酒を飲だ 中村と二人で正宗の小瓶ヲ二ツのみつまらない箸の付け様もないつまらネへ食物を一つ二つ並べた丈五十銭とハ少々高をすナ

1896(明治29) 年1月15日

 一月十五日 水 (京都日記) 夜半の一時半頃ニ人が這入つて来た びつくりしてネぼけ目をこすつて見れバお栄と玉葉と松原だ 此連中芝居の帰りとか云事 持つて来た蜜柑ナドヲオレニ食ハしてとうとうネむい目をさまさして仕舞上つた 夫れハよけれど泊り込むと云騒ぎ 驚いた話だ 水画の道具を持て午後二時頃ニ内ヲ出たら又オレノ行処ニついて来ると云様子 余り馬鹿気て居るのでとうとう逃げて知恩院の中ニ入りあとを暗ました ぼつぼつ散歩して粟田口の方から廻ハつて川端ニ出三条から木屋町ニ入り河野嘉平ヲ向陽館ニ訪ひ又三条の□□(原文不明)屋辺まで行く 夜食後松原と安藤の内ニ行き三人連で祇園町ヲ一力を始め二三軒ひやかし玉川屋と云ニ上る

1896(明治29) 年1月16日

 一月十六日 木 (京都日記) 朝九時半頃ニ内へ帰り面を洗ひめしを食ひ新聞を読で居た処ニ河野嘉平が見へた 又一力のお春さんが来た 之レハ昨夜オレが一力亭の木戸口でお春さんが居るか居らぬかを尋ねて居ぬと云ので這入るのを止めたから何の用が有つて尋ねたかと思つて来たのだ かれこれして居る内ニ十二時も過て仕舞つたから河野と一緒ニ出て平野屋で河野の御馳走ニ為た 松原も一緒ニ呼バれて来た 食後小堀から白河の方へ三条へ出 又裏道を通つて二条へ廻り遂ニ木屋町の向陽館迄河野を送つて帰る 内ニハ中村と吉川が来て居た……夜食ハアトリエで平野屋からの仕出しを食ふ それから内ニ引込で居て十時頃迄松原と話をした 今夜の様ニ少しも世間ニ出ないと云のハ珍らしい事だ

1896(明治29) 年1月17日

 一月十七日 金 (京都日記) 十時頃ニ起て小便ニ出やうとする時ニお栄が入つて来た 之レハ今日からいよいよ誰を手本にするかと云事を問ニ来たのだ 十二時少し前ニ木村虎吉が来た 一緒ニ即ち二人連で小堀の西洋料理屋ニ行く 今日ハもやの掛つた雨日よりだから円山などの色がよかつた 二時少し過ニ木村同道で内へ帰つて居たら間も無く又お栄が来て今日ハ玉葉も幾代も来られぬと云返事を知らした 木村とお栄を相手ニ馬鹿話をして暮らした 夕方ニお栄を手本ニして面を一ツ描ク 全体オレハ銭切れで何処の料理ニも現金の処ニハ行ク事が出来ないから木村ヲ引張てお栄の内へ行き鳥鍋を食た めしの dessert ニ小初とか云美人を見た 又其女の妹のお徳と云のがおれが六道前の方でかいた画の女の面ニよく似て居ると云ので呼寄せて見た 九時半頃ニ尾張ヲ出て木村ニ三条ノ小橋で別る

1896(明治29) 年1月18日

 一月十八日 土 (京都日記) 十時頃ニ起てめしを食て新聞を読で居た処ニ幾代が祇園へ詣つたからと云て這入つて来た 間も無く中村が親類の若者一人連れて入り来る 此時十二時頃だつた 少シして河野が来お栄どんが今日の手本として三代子を連れて来又清閑寺の堂守岩佐氏が来た 狭き処ニ此の人数で一時ハ大混雑 其中で三代子を手本ニして仕事をやらかした お栄ハ用が有つて帰り河野も去り夕方ニ為つて来たので幾代と三代子を使ニやつて平野屋から食物を取り寄せて食ふ 食ひ始めたので岩佐氏ハ帰る 八時頃ニ中村等と女子共を尾張楼迄送つて行く 四条から京極へ入る処で中村の Protege ニ別れ中村と京極の中で女が此の寒さニ裸で水の中ニ飛込み芸をするのを見た 此の女子共ハ志州の蛋女だと云話也 京極で中村から金五円丈かりた

1896(明治29) 年1月19日

 一月十九日 日 (京都日記) 岩佐恩順師を手本ニ頼で終日木炭画を勉強した 二度のめしとも平野屋から取り寄せて食ふ お昼前ニ安藤が一寸来た 奴ニ今度東京から送て来た鮭をやる 五時半頃ニ仕事を仕舞つて部屋の隅の机ニよつて晩めしを食て居た処ニ君勇がひよつと面を出し這入つて来た 此の者は今ハ誰かの所有物で新門前とか云処ニ住で居るとの事 暗く為つてから又安藤がやつて来て不相変面白い話ニ時をうつす 後奴が帰るのを送つて散歩ニ出掛く 四条通の室町の辺でうどんやニ入つてうどんをたべそれから安藤ニ別れて松原と内へ帰つた時ハ早十一時頃也

1896(明治29) 年1月20日

 一月二十日 月 (京都日記) 父上様の御写真が送つて来た 文蔵様へ手紙を出す 十二時頃ニ恩順師が来て勉強を始めた 二時頃ニ安藤が来て共ニ外出 今日ハいつもより寒し 暗黒町の別荘と称するものを攻撃す 夜ニ入同処を出て縄手通りの鳥新にて夜食の後散歩がてら安藤を奴の住家の横町の角迄送つて行て帰る 時ニ十一時 去年の今日ハ栄城湾ニ上陸した日だナ

1896(明治29) 年1月21日

 一月二十一日 火 (京都日記) 今日よりめし屋をかへて小堀の西洋料理屋勝栄亭より食物を取り寄する事とした 一皿十銭と云約束で昼が二皿晩が三皿と極めた 午後一時半頃ニ恩順師が来て五時頃迄仕事をした 夜が入つて間もなく中村と吉川氏が来た 吉川氏ハ七時何分とかの汽車ニ乗ると云て帰 中村と隣の敦盛と三人でストーブにあたりながら四方山の話をし九時半頃ニ為つて皆が散歩に出掛け先斗町の千鳥と云うどんやニ立寄りそれから京極ニぬけ三条へ出此処で中村ニ別れ敦盛と二人で三条橋を渡りて帰る 今夜ハ此の京都ニしてハ随分寒い内だ 併し去年の従軍の時ニ比すれバ何の屁でもない

1896(明治29) 年1月22日

 一月二十二日 水 (京都日記) 昼後恩順師を相手ニ画をかく 今日から油画ニ取りかゝる 中村が来て居てしきりニアナトミの図を写す 五時頃ニ安藤が来た つゞいて Oyemi 安藤も来た 遂ニ中村 敦盛等都合五人で平野屋ニ押かけて行飲む

1896(明治29) 年1月23日

 一月二十三日 木 (京都日記) 昨夜の内ニ雪少しく積たり 今朝未だ起ぬ内ニ中村がやつて来た オレが寝て居るもんだから独りで雪の景色をかきニ出た 十二時頃ニ恩順師が来て午後ハ油画をかいて時を立たした 中村ハ今日も亦 Anatomie 之図を一生懸命ニ写して居て夜が入つてから帰つて行た 九時から一時間程敦盛と散歩 内へ帰つてから月の画をかいた

1896(明治29) 年1月24日

 一月二十四日 金 (京都日記) 今日ハ舞子の画をかく事ニ極めて皆其手続をして置た 其事を聞たと見へて幾代がふと十一時半頃ニ来た 間も無く中村が勉強ニやつて来た 昼後二時過ニお栄が三代子を連れて来たから直ニ仕事ニ取りかゝつた 又今日ハ仕事の暇ニ貴島氏から頼まれた短冊掛ニ水仙の画をかく 丁度其画が出来上つて居た処ニ貴島氏が見へたので大ニ都合よし 此時ストーブ屋が来て掃除の最中 此のストーブ掃除の為ニ本当の仕事もだめと為つて仕舞つた 安藤も来た 間も無く日が暮れかゝつたので女連を先づ帰して置き夫れからオレハ弁当を食ひ散歩がてら安藤と中村ハめしを未だ食て居ないので麩屋町の松葉亭に入る 此処で女話を聞き又盛ニ美術を論じ四条通を散歩して皆ニ別れて帰つた時ハ十一時頃 十二月十六日附の竹公の手紙を受取る

1896(明治29) 年1月25日

 一月二十五日 土 (京都日記) 坊さんを相手ニ勉強した 四時頃ニ塚田正彦氏が見へ又住友家からの使の人がやつて来た 此人 Mà remis les cent piastres――大ニ勢力を得た 遂ニ中村 松原と尾張楼を攻撃する事ニ決した 安藤を直ニ呼ニやつたら留守と云事だつたが十一時頃ニ大不平で飛込で来た 其不平ハ一力亭で或る人ニ御馳走をしたら取持が甚だ悪るかつたと云のだ そう云勢で乗り込で来たので我々も勢がつき座敷が新きに為つて来た 一時過ニ此の家を出て安藤を四条の橋迄送つて別れたけれど中村が内へ帰つて行くのニハ少しおそくなり過たので又尾張へ引返へす事と為つて仕舞つた

1896(明治29) 年1月26日

 一月二十六日 日 (京都日記) Avec toute la bande c’est-a-dire Nakamura, Matsubara, Raïyo, Oyéï et Tamaha qui était venue dire boujours à la maison, j’ai été déjeuner chez Shiki(四季) à dojo(道場) partie meridionale du Kiogoku. Après avoir congédié ces femmes et quitté Matsubara, je suis allé avec Naka chez lui. 今日ハ余り天気ハよくおまけニ日曜と来て居るので遂ニどこぞへ散歩ニ出かける事と為た 泉湧寺と云処から今熊野と云処ニ行た 此の辺ニハ始めて来た 来る途で田村宗立氏の門弟の大八木一郎と云男を呼出し一緒ニ散歩して泉湧寺から今熊野へ出る間の田舍道で中村が画をかいてる間にたんぼのふちの草の中で昼寝した 心地ハ真ニ極楽 今日ハ本当ニ春の様いゝ天気だ Violettes の沢山はへてる田舍の事ヲ思ヒ出した 夕方内へ帰り其の弁当を二人で分けて食た お栄どんが漬物を持て来た 三人でかきめしニ行キ又京極で寄ニ立ちよる

1896(明治29) 年1月27日

 一月二十七日 月 (京都日記) C’est délicieux de sommeiller entendant la pluie qui tombe et frappe le toit si mince qui me couvre! J’ai attendu vainement aujourd’hui le bonze et la petite fille qu’il m’a promis d’amener. J’ai donc passé mon temps à préparer des lettres que je dois envoyer à mes amis d’Europe. Vers le soir Ando est venu avec une étude. J’ai partagé avec lui mon fort modeste repas, nous nous sommes égayés tout de même en débouchant les 4 bouteilles de bière que j’ai recues aujourd’hui de Mr Kijima, le poète. A peine 7h nous, Ando, Matsubara et moi, nous sommes entrés chez Minotake. Vers 11h nous avons été souper à Kakimeshi-Température …

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