1894(明治27) 年12月26日
十二月二十六日 (従軍日記) 雨天にて何もせず ぐづぐづで暮す 但シ昼めし前ニ工藤ニ逢ニ行た 夜宮様ヲ尋て司令部ニ行 宮様ハ露国人ノ居る処ニお泊りとの事ニてお目ニかゝらず
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
十二月二十六日 (従軍日記) 雨天にて何もせず ぐづぐづで暮す 但シ昼めし前ニ工藤ニ逢ニ行た 夜宮様ヲ尋て司令部ニ行 宮様ハ露国人ノ居る処ニお泊りとの事ニてお目ニかゝらず
十二月二十七日 (従軍日記) 朝小松若宮殿下ニお目通りに行 午後司令部ニテ忘年会 今日の寒さニもかまはず相撲など有りし 夜管理部ニ行野津ニ拙者等考案の部屋の紙張かへ一件も頼ニ行 もちを一ツ食ふ 今日ノ相撲ニ岩本ガ行事と為たのハ可笑
十二月二十八日 (従軍日記) 夜荒川氏方へ出来上つた画四枚程持て行荷造り方を頼で来た 昨日より仲間が一人増た 其人ハ東京毎日新聞の林政文氏也
十二月二十九日 (従軍日記) 部屋の壁紙張替の為め支那人が四五人来た 夫が為終日ごたごたで暮す
十二月三十日 (従軍日記) 父上様よりのお手紙本月五日附のものを村田少佐より藤井少佐の処へ送り来りたりとて届け来る 新聞記者三名新ニ日本より着す
十二月三十一日 (従軍日記) 久米 合田へ手紙ヲ出ス
一月一日 (日清戦役従軍日記) 午前十一時ニ軍司令部ニテ年賀の式有り 午後行政庁ニ行ク 大君の御代の光の色見へて黄金の里ニ春ハ来ニけり
一月二日 (従軍日記) 今朝林政文君ト戦死者ノ墓ヲ弔ヒ其墓所の図ヲ写す 又今日軍司令部及行政庁等の図ヲ作ル 二枚ハ林君ノ為一枚ハ奈良崎氏の為成
一月三日 (従軍日記) 外套ノボタン付ナドしたり 午後写景の為郊外ニ出懸たり 寒風甚だつよし 夕方南門外ニテ十二三の小僧が来て地ニ膝をつき何か云てオレニ願事ヲスル様だから其案内ニ依て行て見ると極きたなき破れ屋より四十以上の婆が小供沢山引連れて出来り オレの来たのを喜びし相様ニテ家の中に案内したり 元より言葉ハ一つも分らず 其手まねや面付を見るニ屋の片隅の真暗ナ処を指す相様牛馬でも病気したるをオレが通りかゝりたるを見て医者と見て取り治療を乞ふものと思ハれたり なんだかめいわく也と云気ニ為て其暗い処を杖の先にてつゝいて見たら馬でも牛でもなく人也 人ハ日本の人足ニテ赤毛布ニつゝまれて土間にねて居る 不思議千万 病気かと聞けば病気ニ非ず 酔たるものニしてハ言語明也 どう云訳だと聞て見るニ あたしハ兵站病院から参りましたと云のでさつぱり分らず いよいよ面倒だと云気ニ為たから打棄てゝ家を出んとしたるニ前の婆が小供を打ていかぬから是非此の人を外ニ出しテくれと云様だから又内ニ入り人夫ニ向ヒ手前ハ乱暴をする様ナ事を聞がどう云ふんだと聞くニ いゝゑ決してそんな事ハ有りません 此の内の奴等がわたしをじやまニして出てくれと云て大騒ぎするのでございますと答ふ 其処でアヽそれならいゝ 何か不都合な事があつたら直ニ役所ニ届け出るがいいとゑらそうニ云ヒすてゝ帰りたり 内の者共此の話を聞てそれハ変だ 第一人足が独り毛布を被土間ニころがつて居るのハあやしむ可き事だ 行政庁ニ届けるがいゝと云ので直其足で行政庁ニ行く 之レと云のも□□□□(原文不明)の話が盛ニ有るから此の人夫の野郎も何かたくみ有つてかくきたなきあばらやの中ニごろりとして居たるものかとのうたがひを蒙りたるもの也 行政庁より憲兵を一人派遣せられたるニ依りそれを案内して前の家ニ行きよくよくしらべて見るニ人夫ハ決してあやしむ可きものニ非ず 全ク支那人奴等がつまらぬ訴をしてじやまニ為る客を逐ヒ出さん事を試みたるものと知れたり (欄外 今日より金州ニテドンを打つ)
一月四日 (従軍日記) 夕方ニ奈良崎が急に帰朝する事と為りたり 即ち広島なる村田少佐へ紹介状を一通渡して別る
一月五日 (従軍日記) 村田少佐よりの手紙一通届く 父上様よりの御書面が封入して有つた 先月二十四日の日附にて松方君が九鬼氏へオレの話をして当年の京都の博覧会の審査官ニ周旋し呉れられたる故二月始迄ニ帰朝す可き旨書来りぬ 夕方行政庁ニ行荒川氏ニ日本より来し書状ニ付相談す 帰朝ヲ賛成せられたるニ依り其通決心す
一月六日 (従軍日記) 午前東門より出大龍山の麓なる二十一 二十二連隊の奮戦せし場所ニ到り写景す 午後第一番ニ金州城の城壁ニ昇りたりと云第二連隊の旗手少尉吉田梶次郎氏ヲ訪ひ其肖像を写し同氏の案内にて氏の昇りたりと云城の北南の角なる壁の処ニ到り当時の模様も委しく聞きたり 後別れて又景色を一つ写す 水画の絵具凍りて筆自由ならず いゝかげんニやめて帰る
一月七日 (従軍日記) 金州繁昌の図ヲ描き始む 其画の為め夜一時半迄起て居た 今日憲兵ヲ案内ニ連て道具屋ヲさがす
一月八日 (従軍日記) 昨日かき懸た画をかいて仕舞ヒ林君ニ渡ス 毎日新聞へ送る為也 日本へ手紙の返事ヲ出ス 十五日頃ニ帰朝ス可き旨申送る
一月九日 (従軍日記) 又寒く為た故写景ハだめ 夜山本より黄門記の筋書の話ヲ聞く 林君と散歩せし折長郷氏ニ出逢フ
一月十日 (従軍日記) 時事の堀井卯之助君 読売ノ越智修吉君ト舍営病院ヲ見ニ行 夜山本より色々の話ヲ聞き大笑す 其話の中尤も奇なるハうんこが這入る等也 今日蓋平陥落の報到る 日本より人力車二十台着すと聞く
一月十一日 (従軍日記) 雪少シチラチラシテ止ム 午後荒川氏ヲ訪ひたるニ日本より二三日前ニ手紙が来て此ノ一二日頃ニ文蔵様御帰朝のお日積なりしよし云て来たとの事 帰途中ニテ昨日見舞た舍営病院の長ニ逢つたら川路の像ヲオレが描いて居る時分ニ先生山路さんニ附て巴里ニ来たと云て居た 夫れから軍司令部ニ行き伊地知氏ニ逢ん事を申込たれど留守ニテ逢出さず のち又行たれどだめ (欄外 越智君ト散歩ス 人夫等が豚ヲ逐フヲ見ル 病院長ハ賀古ト云人也)
一月十二日 (従軍日記) 今朝又司令部ニ行 丁度管理部の処の門ニテ出逢ヒ国より帰れと云手紙来りたる旨ヲ云ひたるニマア第二の戦争ヲ見テから帰る方がよからうと云ハれ成程と思ひ即ち其事ヲ極ム 午後林君同道二連隊本部の吉田少尉ヲ訪ひ先日写したる氏ノ肖像ヲ与へて又別ニ肖像ヲ写し帰る 伊瀬地連隊長モ在宿 夜ハいつもより酒の廻りがよかつたと見へ皆々はづみ議論中々やかまし オレハめしヲ食てから一と先引込み少シ勢がしづまつた時分ニ面出シたら中々面白クナツテ居た 天鉄翁が小梅とのろけ山芳がにくにくで其レヲ征伐スルなど天鉄が云如くそれこそ腹の皮がよれたわい 日本へ戦後ニ帰る云々ヲ通ズ
一月十三日 (従軍日記) 午後山本 林の二人と南門の外から西門の方迄散歩ス 一度帰りて後画ヲかく覚悟で道具を持て又三人連で今度西門より出てぶら付 これこそと云位置を見当らずして北門より帰る
一月十四日 (従軍日記) 長郷氏来りて明日帰朝するから国へ手紙でもやるならと云ハるゝニ任せ画四枚程合田へ送る 近々の内ニ山東の方へ出陣する都合の様子ニ聞及たるニ依り防寒用の帽子を造つたりなどして暮しぬ