本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年7月19日

 七月十九日 日 今日の暑さハ三十度 夕方ニ雨 今日ハ少しくたびれた様な気味で内ニごろごろして小説など読で居た 五時頃ニ父上がお出ニ為つて肖像を少し計かいた 丁度かいて居た処ニ合田が来佐野が来菊地が来した 皆と六時前ニ内を出て小代と日吉町とか何とか云通の玉突屋で一緒ニ為り又安藤と東京バンブウで逢ひそれから皆で金六亭でめしを食た 出品も二つ計有つて中々盛ニやつた 小代と菊地ハ帰りあとの者共ハ遂ニバンブウニ会し散じたのハ十二時頃だつた 合田とハ赤阪門下で別れた

1896(明治29) 年7月20日

 七月二十日 月 朝大雨 終日時々雨 風強し 朝一寸小督の下画に取りかゝつた これが今度のアトリエの中ニての仕事の初めだ 昼めし後合田の処ニ行き二時半の汽車で三口の岩窟ニ押しかけた 佐野も同じ汽車ニ乗つて来た 合田ニ電話をかけて一時間余たつて小代と合田がやつて来た これで大ニ勢力がついて面白く為つた 今日ハいつもの給仕娘ハ芝居ニ行たとかで亭主が相手ニ出て酒ニ酔つてとうとう仕舞ニ君だのなんだのと云様ニ為つた 佐野と小代ニ別れ十一時頃ニ汽車で東京ニ合田と二人で帰つて来た

1896(明治29) 年7月21日

 七月二十一日 火 今日も終日風がつよかつた 又雨も時々盛ニやつて来た 朝九時頃ニ起きて菊地武則氏ニ逢ひ掛物を見てそれを引受ける事と為つた 島津久光公の画だ 夕方に又小督ニ取りかゝつて居た処ニ合田がやつて来た 一時間計話してから一緒ニ宝亭にめし食ニ行き久米が引越たかどうだかそれを見る為に元園町迄行きそれから四谷の合田の内ニ行て十一時前迄遊んで帰つた

1896(明治29) 年7月22日

 七月二十二日 水 風も今日ハやんで天気もよく為つた 朝十時ニ内を出て先づ西園寺氏を訪たるニ留守 天真道場ニ行き画を直し倶楽部ニ行た 東京倶楽部の新築が出来てから始めて行た 間もなく安藤が来て一緒ニ食事をした 三時ニ安藤と一緒ニ倶楽部を出て日影町を少し冷かした 芝口の通ニ煙草買ニ来る途中で佐野ニ出遇ひ奴ニ銀座の通で別れてオレ等ハ二人鉄道馬車ニ乗り上野迄行きレイキハウスに上り風呂ニ入りゆつくりした 景色ハよく風ハ透しいゝ心地だ 出品二有り 其内の一ハ遂ニ酔つて仕舞つた 十一時頃ニ此の家を出た 今夜ハ月ハよくすゞしくて妙 今夜ハ安藤の御馳走

1896(明治29) 年7月23日

 七月二十三日 木 暑さが今日ハ三十三度迄昇つた 十一時頃から一時間足らず父上の御肖像をかいた 午後ハ小督の下画ニ手を出した 五時過ニ平岡君が来一緒ニめしを食ひ食後ニ横山壮二郎を尋ねたら留守 山王山ニ二人で上り例の茶見世ニ一時間休んだ 赤阪ニ下つて帰つた 今夜ハ月ハよかつたが風ハちつともなくあつかつた 日本服のまゝで世間を歩いたのハ此頃ニない珍事だ

1896(明治29) 年7月24日

 七月二十四日 金 三十四度の暑さ 朝合田ニ起され小倉が来三人で久米の元園町の内に行たら留守 菊地の横町の牛屋で三人で昼めし 二時頃ニ内へ帰り小督をかく 六時頃ニ合田と佐野が来て三人で赤阪の西洋料理屋で夕めし めし後ニ山王山ニすゞみシヤントウズがやつて来たのでどやされた話ニ例の悪口で大笑 Collin Fertile の婆ニもでつこあした 月ハよし十一時頃ニ内へ帰る 一時頃まで母上と清とで縁がわですゞんだ

1896(明治29) 年7月25日

 七月二十五日 土 今日も非常なあつさだ 午後ニ佐野 菊地 合田が来てこれから一緒ニ旅をしないかと云ので出かけた 菊地ハ一寸内へ帰り三人で Collin Fertile で洋食をやらかし後又菊地と一緒ニなり七時過の汽車で大磯ニ行き松林館ニ宿をした 菊地ハ一人別ニ宿をした 大笑ひな話し…… 夜十一時頃から浜ニ行てふざけ帰つて来てねたのハ一時過 極上出来

1896(明治29) 年7月26日

 七月二十六日 日 朝樺山愛輔をたづねたら来て居らぬとの事 連中と浜で一緒ニ為り海水浜場で遊だ 松方正作氏ニ出逢つてうれし 午後四時頃の汽車で立つて鎌倉ニ行た 此処ニハ佐野が用事が有つたからの事 七時四分かの汽車にのりをくれてはせの三橋ニ泊る 今夜も月がよくつて浜辺ハすゞしかつた

1896(明治29) 年7月27日

 七月二十七日 月 五時前から起されて六時の汽車で立つた 今朝ハポチポチ雨が降つて居て急ニ又涼しく為つた 東京ニ帰つて三畳倶楽部ニ十二時迄ねた 田中と合田とオレと三人で昼めしを横町の牛屋で食ひ三時頃ニ内ニ帰つた 夜食後久米の処ニ行たら留守 七丁目ニ行て橋口家ニ一寸寄り又清秀の処ニ見舞ニ行つた

1896(明治29) 年7月28日

 七月二十八日 火 安藤と一緒ニ赤阪の西洋料理屋で昼めしを食ひ山王山ニ登つて静かニ汗をひつこませ又序ニ OSATehL の昨年以来の話をやつてもらつて面白かつた 夕方佐野をたづねたら留守 菊地の処までやつて来て菊地と一緒ニ為りそれから皆のあと逐てとうとう清新軒で皆出逢つた 吉岡君も来た 吉岡と菊地ハ先きニ帰りオレ等ハ残つた 連中と銀座通を冷かし遂ニ Maison des Pins へ寄り甚だ面白からざる出品を見て帰る

1896(明治29) 年7月29日

 七月二十九日 水 和田 岡田が来て奴等ニ洋行の見込ある話をした 又久米が来続いて伊藤源三が近頃台湾から帰つたと云てやつて来た 久米ハ昼前ニ帰り伊藤ハ二時頃迄居た 三時頃から美術学校ニ行き剣持ニ逢ひ根岸ニ行て岡倉氏と暫時話しそれから伝瑞院前の木下廣次氏ニ逢ひニ行た これ皆書生の洋行一件の為だ 夕方内へ帰つてめしを食て仕舞つた処ニ吉岡が来間も無く合田が来た 二人とも内でめしを食てしばらく雑談話をした 十時過に三人で内を出て山王山ニ行て十二時迄すゞんだ

1896(明治29) 年7月30日

 七月三十日 木 今朝西園寺侯をたづねて留守 天真道場ニ行て画を直した 佐野と合田とオレと例の Collin Fertile で晩めしを食た 小代もあとからやつて来た 今夜出品が有つたが運つたなく早く立去る事と為つた 婆を連れて山王ニ一同押し上つた Tohachi なる者を呼び出してお相手を仰付けた

1896(明治29) 年7月31日

 七月三十一日 金 八時前ニ小倉が来て起きた 九時頃ニ菊地が来た 菊地ハ昼めしを食ひ風呂ニ這入り三時半頃迄居た ちよいと小督ニ取りかゝつて居た処ニ佐野が来た 六時過ニ宝亭ニ行て久米 小代 佐野の三人と一緒ニ為り食後山王ニ登つた 菊地が王妃や娘を連て来又和田の親爺が中村一件でやつて来た 十時頃ニ山を下つた オレハ久米と二人ニ為つた 山の下り口の処で合田ニ出逢ひ即ち三人ニ為つて清水谷から麹町へ出て元の遠州屋の跡の氷水屋で休み十一時頃ニ内へ帰る

1896(明治29) 年8月1日

 八月一日 土 八官町の時計屋 銀座の成田屋ニ行き十一時半頃ニ天真道場ニ行た 夕方一時間程勉強して丁度勉強を始めやうとして居た時ニ樺山愛輔がやつて来た 夜食後菊地の処に行き九時過まで話しそれから奴と一緒ニ赤阪の水道の通までぶらぶら来て奴のコンネサンスを山王山ニアンビテした 十二時頃まですゞみながら馬鹿話をした 後中通でシヤントウズの一人がChemise demie-européenne で飛び出して来たなどハ真ニおどけ千万

1896(明治29) 年8月3日

 八月三日 月 (大磯) 九時頃ニ伊藤源三が来て家の図を取つた 奴と昼めしを一緒に食た 一時半頃ニ久米と長田が来た 四時十分の汽車で大磯に行く 十時頃ニ小代と佐野がやつて来た

1896(明治29) 年8月4日

 八月四日 火 (大磯) 朝海水浴場ニ行き昼めしハ樺山家で御馳走ニ為る 六時半頃ニ久米がやつて来た 皆揃つて町など散歩した 今日夕方海浜で写生をした

1896(明治29) 年8月6日

 八月六日 木 (箱根) 朝海岸の岩など写生した 午後四時半の汽車で立ツ 佐野ハ一人東へ帰りオレハ小代と西へ行く 六時過ニ湯本ニ着き福住で晩めし 籠を雇ひたいまつをつけて山へ登り箱根の宿ニ十時頃ニ着く 石内方に泊る

1896(明治29) 年8月7日

 八月七日 金 (箱根) 蚊が居らずニ非常ニ愉快 気候ハまるで秋だ 小代と舟こぎニ出かけたが雨にふられて帰つた 此処ハ一日の内ニ幾遍天気が変るか知れない 此の宿屋の見世先の画をはじめた 午後も其画をかいた 夕方一人でお関所の辺を散歩した 夜安藤と岡田へやる手紙をかく〔図 写生帳より〕

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