1896(明治29) 年8月8日
八月八日 土 (箱根) 朝隣の庭をかき午後ハ宿はづれの橋白と云処を写した 夕めし後小代と湖水の北側の方を散歩した
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
八月八日 土 (箱根) 朝隣の庭をかき午後ハ宿はづれの橋白と云処を写した 夕めし後小代と湖水の北側の方を散歩した
八月九日 日 (箱根) 今朝ハ一昨日かきかけた此の宿屋の見世の画を仕上げた 午後小代と一緒ニ芦川町の一ぜんめし屋の角を写しに行た 此の画ハ出来そこなつて消して仕舞つた
八月十日 月 (箱根) 今日ハ久し振の上天気だ 朝隣部屋の加藤氏兄弟が立たれた 其あと午後ニ為つて白耳義ニ来て居た村瀬が家内引連で来て占領した 仕事ハ午前ニハ小代と橋から山の方を向て写生した これも出来そこなつた 午後ハ湖水と二子山を写した 今日合田 菊地 佐野等から面白い手紙が来た 今夜寝床ニ這入つてから其返事を小代と二人でかく 今日は又夕めし前ニ水あびをやらかした
八月十一日 火 (箱根) 今日も昨日ニまけぬ位の天気だ 約束通りニ隣りニ居る米人の小僧 Nuel と其友達の Paul とを連れて四人でボートに食物を積み権現様の森ニ行き少し写生をしめしを食いにかへつた 一寸面白い遊だつた 午後ハねころんで居て仏の小説 Idylle tragique と云のを読んだりして居て時を過し夕方ニ水あびをやつた 夜ハ一寸橋際迄煙草買ニ行つた〔図 写生帳より〕
八月十二日 水 (大磯) 九時頃ニ箱根宿を立つた 人足を一人雇つて荷を持たして山を下つて十二時ニ湯本ニ着いた 福住で湯ニ入りめしを食ひ二時過ニ鉄道馬車ニ乗り国府津の四時十分の汽車で大磯ニ走り松林館ニ行く 岡田と和田が来て待て居た 間も無く菊地が見へ夜ニ為つて佐野が来た 今度ハ皆ではなれを占領した
八月十三日 木 (大磯) 朝皆で海水浴場を写ニ行た 昼めしハ二時頃ニ食つた めしを食て仕舞つた時ニ小林が来て総勢七人と為つた 夕方浜辺をかきに行き序ニ水をあびて帰つた 東京から留守間ニ届いて居た手紙を送つてよこした 其内ニ巴里の河北から手紙が有つた 注文した絵具の事が云て来た
八月十四日 金 (大磯) 朝磯谷が湯浅 白瀧を連れて来た 皆で海水浴場ニ行た オレ等ハ写生した 帰ニハ町の方へ廻つて煙草や菓子を仕入た めし後ニハトランプが始まり三時頃までやらかした 四時半の気車で磯谷連ハ興津へ立つた 夕方に皆で宿屋の娘おまるを浜辺でかいた 晩めしニ磯谷の置土産のビールに勢が付き小代の影法師の芸とうたなどで大笑
八月十五日 土 (大磯) 十時頃から車を六台ならべて鴫立沢を写しニ行た 二時半頃ニ内へ帰つてめしを食つた 夕方ハ又浜辺でおまるの面をかく 夜ハ五人連で(小代ハのこる)町を散歩し大弓を引き浜辺へ廻つて十一時過ニ帰る
八月十六日 日 (大磯) 今朝文蔵様が三郎を連てお出ニ為た 昨日から樺山家へおとまりのよし 十一時過の汽車で小代と佐野が立つたので大ニさみしく為つた 昼めし後ニ樺山家ニ行く 文蔵様ハ三時頃の汽車で帰京 松林館へ帰つてから連中と海をかきニ出る 夜和田ハ酔つたから内へのこし三人で浜辺を散歩した
八月十七日 月 (大磯) 今日ハ久し振ニ雨だ それが為め大ニ涼し 九時過から樺山伯の肖像をかきニ行た 今朝和田と小林が東京ニ帰つた とうとう岡田と二人ニ為つて仕舞つた 午後雨も殆んどやむだから二時頃から岡田と又海の画をかきニ出て暗く為つて帰る 今日中村から手紙が来た
八月十八日 火 (大磯) 今日天気が悪い 又風が強い 朝樺山伯の肖像をかきニ行き帰り途ニ岡田が波の画をかいて居る処ニ行き一緒ニ為つた 午後ハ二時頃から出かけて浜辺づたいニ東の方へ行き水溜を前ニ置いて田舍の画を夕方までかく 夜九時頃から下女連も一緒で浜辺を散歩す 今夜風が強い為ニ蚊が居らず仕合した 夜半ニ大雨
八月十九日 水 (大磯) 松方正作氏ニ電信をかけて出立の日を問合した 今朝亦樺山伯の肖像をやらかす 今朝六時の汽車で岡田が一寸東京ニ帰つたのでたつた一人ニ為つて仕舞つた 午後四時一人で写生ニ出かけ舟や波などかいて居たら和田がやつて来た 又二人に為つてにぎやかだ 夜二人で町へ散歩ニ出てアイスクリームなどのむ 帰つて後又浜ニ散歩ニ出た 夜一寸樺山家ニ寄つたら荒川氏が来て居られた
八月二十日 木 (大磯) 朝例の如く樺山伯の肖像をかきニ行く積で仕度して居た処ニ荒川氏と吉田鉄氏が来られたのでやめニして話をした 二氏を送つて樺山家迄行きそれから郵便局ニ行て金を受取り内へかへつた 午後ハ別ニ何もせず 七時頃の汽車で荒川氏と横浜へ立つ 松方正作氏の見送りの為也 西村屋ニ泊る 十時過ニ一人宿屋を出て町を歩きクラバツトを買ふ
八月二十一日 金 (大磯) 今朝吉田鉄二郎氏がやつて来た 朝めしを食てから杖を買ニ行た 十時頃ニ三人で郵船会社ニ行き正作君ニ逢つた 右の会社の舟つき場で別を云つてオレハそれから一人で松波ニ逢ニ仏の領事館迄行た 昼めしニ宿屋ニ帰り十二時半の汽車で荒川氏と大磯へ帰る 途中松方幸次郎と一緒ニ為つた 夕方月の出の画をかきニ行た 岡田が十時頃ニ東京から来た
八月二十二日 土 (大磯) 今日ハ同勢三人だ 朝十時頃から樺山家ニ行く仕事をした 後めしの御馳走ニ為り二時過ニ宿屋へ帰る 五時頃から岡田と小磯の方ニ画をかきニ出る 夜ハ三人で浜ニ出て砂の上ニねころんで居て話をした 後ち地面ニ穴を掘て遊ぶ 十二時頃ニ内へ帰る
八月二十三日 日 (大磯) 今朝七時頃ニ岡田が横浜ニ立つた 樺山家ニ例の如く出かけ十二時過ニ内へ帰つたら久米と藤島が来て居た 其処で学校や展覧会の話などした 食後和田も一緒ニ四人連で海水浴場の辺迄散歩した 夕方四人で水を浴びた 夜ハお化のさわぎなどして久米 藤島ハ九時四十何分とか云汽車で帰つて行た 此の列車ニ源が居て話した 久米等を送つて行た帰りニ和田と浜へ廻った 後又浜へ行てあばれた
八月二十四日 月 (大磯) J’ai été chez M. le Comte Kabayama comme d’habitude. Dans l’après midi, j’ai reçu une invitation du Vicomte Mishima. Vers 5h je suis sorti travailler avec mes deux amis Okada et Wada. Après le dîner je me suis rendu chez Mishima et je suis rentré vers 10h. Après j’ai été faire un tour sur la place au clair de la lune.
八月二十五日 火 (大磯) 朝例の如く肖像 午後宿屋からすしの御馳走をした 夕方一寸写生ニ出た 小柳連が見ニ来た いよいよ小柳一家とお近づきニ為り夜食後オレ等の部屋ニ皆で話ニ来た
八月二十六日 水 (大磯) 朝樺山家ニ行く 今日で肖像ハ仕舞で昼めしの御馳走ニ為つて帰る 昨日どろぼうが樺山家ニ這入つたと云話が有つた 夕方写生ニ出て小僧の重太と海をかいた 今晩小柳の男女が別れニやつて来た オレも行た 明朝七時ニ立つと云事だ 夜浜で角力などやらかした
八月二十七日 木 (大磯) 九時頃ニ小代が飛込で来て起された 十一時頃から写生ニ出かけ一時過ニ帰つた時ニハ佐野も来て居た 又小倉惣次郎氏が見へた 同勢六人となる 四時過から又写生ニ出た 今日ハ松葉かきのむすめつこを雇て画をかいた 夜食後しばらく内ニ居て十時頃から皆で浜ニ出て角力を取るやら棒をふるやら砂原ニ十二時迄ねころんで居た