1896(明治29) 年10月7日
十月七日 水 昼頃から霽れた 朝白瀧が画を見せニ来た 十時頃ニ会場ニ行た 山本と寺山をのぞいて会員ハ大抵集つた 十二時少し過ニ記念の為ニ写真を取つた いよいよ今日から見物人を入れ始めた 三時頃ニ佐野や久米と帰つた 佐野ハ直ニ内へ来た 夜が入つてから小代と久米が来た 四人連で赤阪の Yoné-Foukou でめしを食ひ食後ニ佐野と久米が玉突を一番するのを見てそれから久米と一緒ニ帰る 十時半頃
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
十月七日 水 昼頃から霽れた 朝白瀧が画を見せニ来た 十時頃ニ会場ニ行た 山本と寺山をのぞいて会員ハ大抵集つた 十二時少し過ニ記念の為ニ写真を取つた いよいよ今日から見物人を入れ始めた 三時頃ニ佐野や久米と帰つた 佐野ハ直ニ内へ来た 夜が入つてから小代と久米が来た 四人連で赤阪の Yoné-Foukou でめしを食ひ食後ニ佐野と久米が玉突を一番するのを見てそれから久米と一緒ニ帰る 十時半頃
十月八日 木 珍らしく晴た 小督の下画ニ終日費した 午後の二時頃ニ世界の日本の島田と云人が来てしばらく話して帰る 夕方ニ合田が来た 一緒ニ出て先づ写真屋成田で昨日写した写真の出来を見時計屋小林で直しニやつた時計を受取りそれから烏森のすし鳥でめしを食た 伊藤源三を呼だ 十時過までひつかゝつて合田と二人でぼつぼつ歩いて帰る 赤阪で目高が大きな麩ニたかつたと云狂言ハ不思議
十月九日 金 今朝父上がお出ニ為つた 学校ニ行き十二時過ニ会場へ行く 関君ニ逢つた 二時頃ニ出て美術協会へ画を見ニ行く 逢つて話をした人々ハ佐野伯 田中子夫婦(Mme 田中ニハ実ニ久振で逢つた)有賀 監田 それから頼まれた事で世界の日本の雑誌社ニ行く 銀座の通で大山綱介氏ニ出遭つた 当時鎌倉ニ住居の由 東京病院ニ井上を訪ふたら留守 内へ帰つて知人の老人達へ招待券をくばる 合田が来て一緒ニ内でめしを食ひ食後久米の内ニ二人で出かけて十時半頃まで話た
十月十日 土 起て見たら伊藤が来て居た 又世界の日本の島田氏が来た 菊地も来た 菊地と伊藤と三人で昼めし 今日は雨が中々盛だ 昼後勉強した 伊藤ハしばらく居た 菊地ハ水画などかいた 夕方ニ佐野と和田が来菊地と四人連で赤阪米福へめし食に行く 合田も来た 二人競争の美人が来不思議な順序で現ハれ一寸面白く行た 十一時過まで居て帰る 菊地と合田が内へ来て泊る
十月十一日 日 久し振の天気 菊地ハいつの間ニかえつた 学校の生徒が一人来た 昼前文蔵さんが見へ一緒ニ合田と三人連でめし 二時過から夕方まで勉強 此間ニ来たものハ清秀 尾花氏也 夕方ニ合田が来一緒ニ内でめしを食た 後久米と岩村が話ニ来た 十一時頃ニ皆が帰るので一緒ニ出て赤阪から清水谷を通り麹町へ出て三十分間程散歩して帰る
十月十二日 月 朝伊藤が来 又橋口氏が見へた 鹿児島橋口氏の望を取次ぐ 源三と一緒ニ昼めし 一時半頃ニ合田 田中が来た 皆一緒ニ去り二時過から勉強す 三島弥太郎氏が来て一寸話して帰る 晩めしニ合田が来て一緒ニ散歩ニ出かけ山王山ニも登り遂ニ Collin ニ休む 襲撃的運動を試みるもの有り 大ニ興をそへたり 一時頃帰る
十月十三日 火 八時前ニ島田氏ニ攻撃され九時半頃橋口氏を訪ひそれより学校ニ行く 昼めしハ会場でやらかす 二時頃ニ内へ帰り大工を呼で見積書を取り三時頃から暗くなる迄仕事した 佐野が来合田が三人で Au Bonheur du Riz でめしを食ふ Riz がやつて来話が子供をすくのきらうのと云事から過去のアムールの様な話ニ移り面白く時が立ち雨ををかして帰つたのハ十二時頃也
十月十四日 水 春陽堂が来伊藤が来合田が来又世界の日本の中島とか云人が来た 一人で昼めしを食ひ仕事を始めた 晩に合田が来一緒ニめしを食つた 丁度食つて仕舞つて居た処ニ松波が来た 奴ハ一人でめし それから外ニ出て田島屋と云ニ上る 久米と岩村が後からたづねて来た 遂ニ五人と為つた 十二時半頃ニ内へ帰る 今夜松波が来て泊つた
十月十五日 木 伊藤が来た 九時過から学校ニ出かけた 途中で藤島の病気見舞をした 展覧会場で昼めしを食た 弁さんが来た 二時前ニ内へ帰り間も無く仕事ニ取りかゝり夕方までかゝつて一通り仕上げた 暗くなつてから久米 佐野 合田が来た 三人で田島屋ニ行く 松波も直ニやつて来た めしを食つて例の如く雑談や悪口 米 豊が来た 九時過ニ米去る そうすると座敷の入用が有ると云て逐立てられ大の男五人の出て行ざまのおかしさ 大不平で C.F. に入る
十月十六日 金 晴 今朝小督の画の下画を皆出すので磯谷が来た 十一時頃から会場ニ出かけた 安藤が来て居た 又岡倉氏ニ出逢つた 午後ニ陳列を済ませ合田 小倉 安藤 丹羽 岡田 湯浅等々達麿でめしを食た 安藤ハ久し振ニ東京ニ帰つたので外の人達ニ別れて合田と三人で Bords du Lac ニ出かけをそく迄遊び合田と番町の方を廻つて帰つた時ニハ一時過だ
十月十七日 土 晴 起たら伊藤が来て居た 又岡田が来た 時ニ九時 新築の縄張など見た 十一時頃ニ安藤が来た 十二時前ニ新二郎の友人某氏が来て逢つた 昼めしハ安藤と岡田と三人でやらかす 安藤から貰つた京都の茸を食ふ 午後三人でぼんやり色々な話をして過した 夕方ニ合田が来て岡田ハ帰り三人で C.F. でめし 一時間も立たぬ内ニ佐野が尋ねて来四人ニ為つた 今夜ハシヤントウズ Riz が大ニ酔て甚だ面白し 安藤ハ十時頃ニ去りオレ等ハ興ニ乗じて長くなり二時ニ内へ帰る
十月十八日 日 夜雨 母上昨夜お泊りニ成り今朝おめニかゝつた 十時過から杉の内ニ行き五一君ニ逢つた しばらく面白く話し内へ帰つたら合田が来て居た それから秋山が来又藤島が来た 皆食後だからオレハ独で一時頃ニ食事 合田と二人ニ為つて三時頃から佐野の処ニ出かけ留守で高輪へ行く 小代と佐野に逢ひ四人で岩窟でめしを食ひ探検などして十時半の汽車で東京へ帰る
十月十九日 月 晴 伊藤が来た 学校ニ出て岡倉氏ニ面会 教場を見廻り展覧会場へ一寸寄り精養軒で昼めし 又会場へ行つた 此時和田秀豊が外国婦人と一緒ニ来て居て紹介された 帰り途ニ久米の内へたち寄つた 久米ハ少し病気 橋口家ニ一寸寄つたら皆留守 合田がやつて来て一緒ニめし 十三夜で月ハよし山王山ニ登り Riz を招き一時頃まで馬鹿を云て帰る
十月二十日 火 終日内ニぶらり 午後石原助熊氏が見へ夕方ニ合田が来一緒ニめしを食て佐野の処へ出かけた 少し雨が降つて来た 途中で帝釈の縁日の処で小代ニ出逢ひ三人で佐野の処ニ行た 又引出して小代のアトリエに行た 岩村もやつて来て宗教などの話で十一時半頃まで話た 赤阪を通る頃余り腹がへつたので合田とそばやニ這入つた 一時過ニ内へ帰る
十月二十一日 水 学校ニ行き岡倉氏ニ逢つて学校用の画を今朝送り出した事など話し白馬会場で高橋勝蔵とめしを食ひそれから浅井の処から安藤の処ニ行た 安藤は留守で四時半頃ニ内へ帰つた めしを食ひ仕舞つて居たら合田から手紙が来て米福ニ行く 安藤 合田 菊地 佐野等が集つて居た 第二次会を C.F. で開く F連と十二時過まで居て又帰りがけニそばやニ立寄つた 今夜ハもやがかゝつて丸で巴里の冬の姿の様だつた
十月二十二日 木 伊藤が来磯谷が来 磯谷へ用事を頼で学校へやつた 伊藤と相談して家の直し方をいよいよ極めた 乙羽氏が来た 伊藤と昼めしを食つた 四時前ニ佐野が来一緒ニ久米の処ニ行た 岩村ニも出遇つた 留守と聞て麹町迄帰つて来かゝる処で久米ニ出遇ふ 又引かへし久米の内へ行き展覧会場を松井かすと云一件で相談をやり後皆で米福楼でめしを食ひそれから C.F. ニ行き一時過ニ内へ帰る
十月二十三日 金 朝学校ニ行て昼めしニ精養軒で安藤 堀江ニ出逢ひ食後ニ会場ニ行た 四時半頃ニ一寸内へ帰つた 昨夜中村から電信が来て今日の三時頃ニ新橋ニ着く筈だつた 内へ帰つて見たら着いて居た 直ニ二人連で内を出て合田の処ニ行き奴を連れ出し C.F. ニ行く 此処で安藤と堀江ニ落合ひ十二時半頃まで遊で中村と一緒ニ内へ帰る
十月二十四日 土 朝報知の坂井弁氏が来て起された 時ニ九時頃 間も無く安藤が来又堀江が来た 安藤 中村と昼めしを内で食ひ安藤ハ去り中村と白馬会ニ行く 曾我が仏から帰つて来たと云端書をよこしたので一寸と寄つて来た 留守 会場で長原 寺山 岡 和田 岡田 白瀧 湯浅等ニ逢ふ 夕方ニ中村と安藤の処ニ行き三人で大金でめし 中村と合乗で帰た 四谷ニ火事が有つたので見ニ行きかけ紀国坂まで行きかけたが鎮火でやめて帰つた 時ニ十時頃 一時頃まで話して寝床ニ這入る
十月二十五日 日 十時ニ起き十一時頃ニ中村と内を出紀州屋敷の前で合田ニ出逢ひ奴等二人ハ直ニ久米の処ニ行きオレハ橋口家ニ一寸立寄りそれから久米の処ニ行た 久米ハまだ病気全快せず 奴の所で昼めしの御馳走ニ為つた 二時頃ニ久米の家を出て三人連で佐野のアトリエニ行く 奴ハ仕事の最中だつた 夕方まで居て四人ニ為つて山王山ニ来例の楠本でめしを三河屋 米福等より取り寄せて食た Riz を呼ニやつて大層賑かニなり十時頃から C.F. ニ押しかけ内へ帰つてねる時ハ早二時
十月二十六日 月 合田 佐久間 堀江等が来又世界の日本の島田氏が見へた めしを内で合田 堀江 中村の三人と食ひ一時頃ニ中村と出かけオレハ橋口家ニ一寸寄りそれから会場ニ行た 五時頃から約束して置た池の端の茶屋ニ中村 合田の二人と出かけた 安藤 堀江 巖谷小波が已ニ来て居た 晩めしを食ひ例の探検と吾れ吾れが名づけて居るあばれをやらかし十時頃まで居た 内へ帰つた時ハ十一時頃