本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年8月28日

 八月二十八日 金 (大磯) 朝の内ニ樺山家と三島家ニ暇乞ニ行き昼後ハ荷物の片づけをした 四時過の汽車で皆揃つて東京ニ帰る 銀座の牛屋で夜食を食て皆別々ニ為つて仕舞つた

1896(明治29) 年8月29日

 八月二十九日 土 朝学校に行きたまつて居た用をすませ精養軒で昼めしを食た 午後小代 合田 佐野 久米 藤島等が集まつて赤阪の Colline Fertile に押しかけめしを食ひ展覧会に付ての相談などして十二時頃まで居た

1896(明治29) 年8月30日

 八月三十日 日 雨 中丸 伊藤源 岡田 和田 小林がやつて来て皆で昼めしを食つた めし前ニ菊地も来て一緒ニ食た 食後ニ藤島が来た 藤 菊の二人と合田の四谷の内ニ行き夫れから三河屋で晩めし 赤阪迄散歩して九時頃ニ内へ帰る

1896(明治29) 年8月31日

 八月三十一日 月 少し風 学校ニ藤島と二人で出かけ試験の用意をやらかし奴と二人で精養軒でひるめし 夫れから木下廣次氏ニ遇ニ行き磯谷の内から合田の方へより内へ帰つたら和田父子 岡田が来た 晩方ニ合田 井上 佐野が来た 合田ハ帰り井上ニ引張られて佐野と Kineya と云ニ行く 九時半頃ニ切り上げ佐野と Collin Fertile ニ立ちよる 不都合に出来上つて面白み少しもなし 朝小僧が来た

1896(明治29) 年9月1日

 九月一日 火 九時前ニ内を出て久米の処ニ一寸寄り学校ニ行た 今日から試験が始まつた 十一時過ニ木下氏が来て岡田と和田の画を見て行た 安藤と佐野と三人で精養軒のめしを食た 三人一緒で Maison de Pins でやらかす 今夜ハ佐野の別れを兼ての集会だ 佐野ハ明日から熊本へ立つ筈 安藤ハ少々病気で一人おとなしくして居た めづらし

1896(明治29) 年9月2日

 九月二日 水 朝から仕立屋 伊藤 磯谷等がせめかけつゞいて久米 安藤が来た 額縁の尺取をしたりなんかして昼ニ為りとうとう五人連で宝亭でめし それから合田が加り磯谷と伊藤は去り四人連で向島の百花園を見ニ行く 少し早過た ことゝひ団子など食ひ晩めしハ浅草の万楼と成た 内へ帰つたのは十一時過

1896(明治29) 年9月3日

 九月三日 木 八時頃ニ伊藤が来大工常吉を呼ニやり改築の相談をした 十時過から美術学校ニ出かけた 学校で久米 藤島と一緒ニなり精養軒で昼めし 淡路町の古本屋など冷かし内へ四時頃ニ帰つた 間もなく小林萬吾が見へた 夜食の時ニ合田が来て一緒ニ食事 横山壮一郎が来それから吉岡 久米 藤島等が来た 十時半頃に皆帰る

1896(明治29) 年9月4日

 九月四日 金 七丁目の橋口ニ行く 安藤が来たと云知らせが来て十一時半頃ニ内へ帰る 安藤と昼めしを宝亭て食つた 山王山ニ登り合田の処ニ寄り奴と又一緒ニなり三人でリユバン注文一件で其向の家をひやかし築地の野田屋で晩めし 安藤ニ京橋で別れ合田と赤阪をぶらつき廻つてから内へ帰つた 今日安藤ニ別れて間も無く雨が降り出した

1896(明治29) 年9月5日

 九月五日 土 八時頃ニ松原がやつて来て京都で別れて以来の話をした 又横山の紹介で堀四郎と云人が来た 十時頃から出て久米の処ニ行き紀章などの話きめ十二時過ニ出て一緒に淡路町の西洋めし屋ニ入りそれから上野ニ行き試験の画ニ点をつけ六時頃ニ為つて仕舞つた 宝亭で一人で晩めし 清秀の留守宅で父上としばらく話 又橋口家で七丁目屋敷売買ニ付ての話をし十二時過ニ内へ帰る 

1896(明治29) 年9月6日

 九月六日 日 七時ニ藤島が来七時半過から学校ニ出かけた 今日ハ教員会議と云ものが有つた 昼頃ニ久米の処ニ来たら合田が居り藤島も先ニ来て居た めしの御馳走ニ成り四時頃から皆で出かけ氷川町のかし家を見芝口に来て白馬会員の紀章をあつらへ函館屋でアプサントをのみ井上に出遇五人ニ為り新橋の西洋料理屋でめしを食ひ銀座を京橋迄散歩し新橋から車で大久保公の碑の手前までやつて来合田と武ニに清水谷で別れた 久米にハ紀尾井町と五丁目向の角で別れて帰る

1896(明治29) 年9月7日

 九月七日 月 佐久間が来てをこした 岡田と和田が来奴等ニ洋行の事などの決議を話した 又磯野 合田 松原事中井等が来た 合田 中井と昼めしを食た 夕方ニ久米 小代 中井の三人と山王山ニ行き合田がやつて来て五人ニ為り赤阪のそばやで晩めしを食ひ後溜池で氷水をのみ Collin Fertile ニ行き十二時過まで居る 大出来 佐久間文吾氏ハ est venu me proposer le mariage avec Mlle Yamagouchi.

1896(明治29) 年9月8日

 九月八日 火 合田が来てとうとう学校へ雇ハれた事を知らした 新納栄三郎さんが来二時頃まで居た 藤島が一寸やつて来た 夕方から出かけ中井を芝口の蓬来屋ニたづね一緒ニみどり屋でめしを食ひ十時過ニ別れて帰る

1896(明治29) 年9月9日

 九月九日 水 朝八時頃ニ夏井潔氏が来 それから白瀧 湯浅 磯谷おまけニ世界の日本の記者某氏が来た 午後ハめづらしく客が来ず 内の中のかたづけなどして五時前迄内ニ居りそれから出かけ合田と一緒ニ東京バンブーニ行て十一時頃ニ内へ帰る

1896(明治29) 年9月10日

 九月十日 木 天気ハ昨日の様だ 朝早く岡田と藤島が来た 又松原事中井もやつて来た 九時頃から学校ニ出かけ仮教場など見た 団子坂の小山をたづね一緒ニ前のめし屋で食ひながら白馬会の事など話た 小山ハ会をやめる事に決した 銀座で買物などして合田の処ニ行た 丁度小代が居合せた 連名で明治美術会へ退会届を出した 横町の牛屋でめしを食ひ後ち銀座を散歩した 白馬会の紀章が三ツ四ツ分出来た 帰りニ雨ニびつしよりぬれた 合田ハ一寸内で雨宿をして車で帰つて行つた

1896(明治29) 年9月11日

 九月十一日 金 雨 学校の開業で生徒など集めた 来る月曜から本当ニ稽古する事ニきめた 久米 合田 藤島と精養軒でめし 松岡が不図やつて来た 合田と菊地が来て晩めしを食て十二時頃まで話した 夜二時頃までかゝつて安藤と中村ニ手紙を出す

1896(明治29) 年9月12日

 九月十二日 土 学校ニ出て教場の片づけをやらかした 昼めしハ精養軒で久 藤と一緒 晩めしハ久振でたつた一人 久 合と磯谷の処ニ行きそれから散歩して十二時頃ニ帰る

1896(明治29) 年9月13日

 九月十三日 日 朝大内が来 早崎稉吉と云人がはじめて来た ひるめしハ其人ニ合田と田中 食後ニ中丸が見へ又大きな小督ニ手をつけはじめた 夕方杉田一郎氏ニ面会 合田と二人で出て山王山ニ行き Yonéfoukou を呼で馬鹿話をした 十二時ニ帰り手紙などかきだしたら二時頃ニ為つた

1896(明治29) 年9月14日

 九月十四日 月 朝和田と中井が来た しばらく話してから学校ニ行く 白瀧と湯浅を三年生ニすゝめて内へ帰つた 和田が来て一緒ニめしを食ひ二時頃ニ去る 間もなく久米と藤島が来てしばらく居た 奴等が帰つてから夕方まで画かき 芝口の宿屋ニ松原をたづねた 留守 佐久間町で山本ニ出逢ひ虎之門外の鳥長で一緒ニめしを食ひ十時過まで話して帰つた

1896(明治29) 年9月15日

 九月十五日 火 雨 合田が九時頃ニ来て午後二時頃まで居た それから小督の下画をかき五時頃から溜池ニ行き合田と一緒ニ我善坊の小代の内ニ行た 奴のアトリエが一と通出来上り其処ニ上つた 高島が来又佐久間文吾が来た めしの御馳走ニ為り十時過まで話した 合田と佐久間と三人で赤阪ニやつて来て米福ニ這入りビールを飲みどぢようを食つたりして色々画の話などやらかし十二時過ニ為つて内へ帰つた

1896(明治29) 年9月16日

 九月十六日 水 Encore la pluie ! Vers 9h du matin, Ito est venu me montrer le nouveau plan de construction. 昼後ニ画をかいて居たら藤島来 しばらく話して帰つて行た 五時過ニ合田が来て一緒ニ秋山ニ逢ニ行く 途中道が非常ニ悪かつた 戦の話を聞きながらビールを飲む 酔ひ四つ谷の一寸した牛屋で合田とめしを食つた 又此の雨降ニ赤阪迄ぶらぶらやつて来十二時頃ニ内へ帰る Nous connaissons à présent la maison Tajima.

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