本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年1月1日

 一月一日 水 (京都日記) 昨夜から中村と一緒で今朝雑煮を一力で食ひ昼後ニ内へ帰つて写真を写ス 女達も一緒ニ晩めしをオレのアトリエでやらかす 河野嘉平が今度台湾から帰つて来て逢ひたいから来てくれと云手紙ヲ尾野亭からよこしたから九時頃から松原と出掛けて行く 帰りニ一寸尾張楼ニも立寄りお儀式のはまぐりの吸物を食う

1896(明治29) 年1月4日

 一月四日 土 (京都日記) 朝起た計の処ニ小倉知幾氏の弟だと云大迫重威と云人が来た 又田村宗立氏がシヤム人を一人連れて来た 今日ハ中村が正宗を一升下げて来午後ニお栄と安藤が来たので今夜ハ内でめしの御馳走をする事とした 丁度めしの時ニ東京から鮭が来たので直ニそれを切つて食ふ 大層皆が調子付き安藤が嚶鳴社演説などした

1896(明治29) 年1月5日

 一月五日 日 (京都日記) 此の日仏人 Schutz ヲ案内して歩き廻った 先づ午後二時ニ世阿弥ニ行き夫れから二人連で高台寺 清水寺 大仏殿 三十三間堂等を見物す 後寺町なる古道具商店を冷かす 法隆寺時代と覚しき土人形の面白イのが一つ有つた 随分ひどくこわれてるがほしく為つたからとうとう買つて仕舞つた 大枚一両半也 其土人形ハ座像で丈が三十サンチメートル足らずでないて居る姿だ 人ハ男で口をあき目をしかめのどを張り腰から上ハ裸かで右の脇ニしやりこうべをかゝへ左の手ハ腰ニまいて居る布を両方のもゝの真中でしつかりにぎり布ニ皺をよせて居る 実ニよく悲みを説明して居る人形だ

1896(明治29) 年1月6日

 一月六日 月 (京都日記) 十時頃ニ中村が来て午後ニ安藤も遊ニ来た 安藤及中村と共に内でめしを食ひ後ち皆で安藤の内迄行き奴のかいて居る水画や又写真の肖像を画にする秘伝の話を聞く 二時頃に帰る

1896(明治29) 年1月7日

 一月七日 火 (京都日記) 午後四時頃から中村が来て一緒ニ晩めしを食た かれこれして居る処ニ Schutz が来た いよいよ奴ニ御馳走してやる事ニ決し皆打連れ一力へ乗り込む

1896(明治29) 年1月8日

 一月八日 水 (京都日記) 十一時頃ニ一力亭より帰る 午後吉川泉一君が尋ねて来て長く遊で行く 今日は年始状ののこりを書いたり又アトリエの片附け等をして暮らした

1896(明治29) 年1月9日

 一月九日 木 (京都日記) C’est le dernier jour du ménage avec Takéoutchi, mon étudiant-domestique,ex-acteur du théatre des Soshis. 午後四時頃竹内と中村を訪ひ奴を引出し六角千本辺を散歩す 四条通を経て帰寓途中四条芝居にてうどんを食ひ又内へ帰つてからハ途中で買つた牛で夜食した 食後中村と世阿弥ニ行き Schutz ニ逢ひ後ちシユツモ松原も一緒ニ宵惠比寿の市を見物し京極坂井座ニ立寄る 此処で一力の女連及竹内ニ出逢ふ 皆打連てアトリエニ帰り二時頃迄馬鹿話をした 一時前ニシユツハ帰り中村と竹内ハ女連と共ニ去りオレハ松原と三時過迄はなしをした

1896(明治29) 年1月11日

 一月十一日 土 (京都日記) 朝起て見れバ雪が盛ニ降て居る 巴里の杉竹公にやる手紙を書く 巴里のスフローの小さな部屋ニ居た時の事など思ひ出す 郵便を出しニ行た序ニ湖水の雪景色などを一寸見て帰る 又善光寺山ニも登る それから宿屋の隣の牛屋で牛鍋を食ふ 午後三時頃ニ中村がひよつとやつて来た オレが金無しで居るから金を持て云ハヾ身受ニ来て呉れたのだ 夕方から一緒ニ出て栄川を渡て唐崎の松の方面へ向け散歩す 時々雪が降つて来て景色中々よし 余り時刻がおそくなるから松を見ることハやめニして帰る 夜三時頃迄話をしてねる

1896(明治29) 年1月12日

 一月十二日 日 (京都日記) 今日も亦雪 朝食後見習亭を出て疏水の遊船ニて十一時頃ニ大津を立つた 船の中ニてハ同船して居る者共を中村と写生して体屈をのがれた 一時迄円山の寓所ニ帰着 すしを取寄せ松原 中村と三人で此の二三日間ニ起りし事の始末を話しながら宴会を開く 夕方ニ為つて安藤を訪たるニ留守 夫れより三人で尾張楼へ行き一泊した

1896(明治29) 年1月13日

 一月十三日 月 (京都日記) 朝めしなど云ヒ付け酒など少し飲で尾張楼を出た時ハ早十時半頃 松原敦盛と相乗で三井銀行へ押かけ三十両丈せしめ夫れから中村方へ行き借金を払ひすしや御茶漬の御馳走ニなる 三時頃ニ内へ帰つたらお栄が手本を連れて来て待て居た 今日の仕事ハ丸でお話ニならず 内へ帰つて未だ画を始めぬ内ニ吉川嘉平が台湾から帰つたと云てやつて来た 夕方安藤が来て敦盛ら女二人都合五人で前の平野屋ニめし食ニ行た 安藤ハ大機嫌と為つた 食後又皆内へ来て十二時過迄居て帰つた 敦盛とオレと安藤を四条の小橋迄見送つて行て帰る

1896(明治29) 年1月14日

 一月十四日 火 (京都日記) 今日ハ十一時前ニ朝めしを平野屋から取寄せて食てぐづぐづして居る処ニ中村が来た 十二時半頃二中村と一緒ニ西洋料理の勝栄亭ニ行き夫れから Papa の用事で安居神社の社司鳥居と云人ニ逢ニ行き松原通のもとの借家の前の酒屋の爺をたづね乞食の巣を通りぬけてから一と廻りして又松原通ニ出三条ニ廻つて木村虎吉をたづねて逢ひ夫れから中村の内へ一寸寄り又寺町から仏光寺辺の道具屋を冷かし帰て又晩めしを平野屋から取らせて中村と食ひ食後四条京極等を散歩し針糸及ビヅボンのボタンヲ買フ 縄手大和橋下ル東側の縄のれんの料理屋ニ入り入口の処の机ニよつて酒を飲だ 中村と二人で正宗の小瓶ヲ二ツのみつまらない箸の付け様もないつまらネへ食物を一つ二つ並べた丈五十銭とハ少々高をすナ

1896(明治29) 年1月15日

 一月十五日 水 (京都日記) 夜半の一時半頃ニ人が這入つて来た びつくりしてネぼけ目をこすつて見れバお栄と玉葉と松原だ 此連中芝居の帰りとか云事 持つて来た蜜柑ナドヲオレニ食ハしてとうとうネむい目をさまさして仕舞上つた 夫れハよけれど泊り込むと云騒ぎ 驚いた話だ 水画の道具を持て午後二時頃ニ内ヲ出たら又オレノ行処ニついて来ると云様子 余り馬鹿気て居るのでとうとう逃げて知恩院の中ニ入りあとを暗ました ぼつぼつ散歩して粟田口の方から廻ハつて川端ニ出三条から木屋町ニ入り河野嘉平ヲ向陽館ニ訪ひ又三条の□□(原文不明)屋辺まで行く 夜食後松原と安藤の内ニ行き三人連で祇園町ヲ一力を始め二三軒ひやかし玉川屋と云ニ上る

1896(明治29) 年1月16日

 一月十六日 木 (京都日記) 朝九時半頃ニ内へ帰り面を洗ひめしを食ひ新聞を読で居た処ニ河野嘉平が見へた 又一力のお春さんが来た 之レハ昨夜オレが一力亭の木戸口でお春さんが居るか居らぬかを尋ねて居ぬと云ので這入るのを止めたから何の用が有つて尋ねたかと思つて来たのだ かれこれして居る内ニ十二時も過て仕舞つたから河野と一緒ニ出て平野屋で河野の御馳走ニ為た 松原も一緒ニ呼バれて来た 食後小堀から白河の方へ三条へ出 又裏道を通つて二条へ廻り遂ニ木屋町の向陽館迄河野を送つて帰る 内ニハ中村と吉川が来て居た……夜食ハアトリエで平野屋からの仕出しを食ふ それから内ニ引込で居て十時頃迄松原と話をした 今夜の様ニ少しも世間ニ出ないと云のハ珍らしい事だ

1896(明治29) 年1月17日

 一月十七日 金 (京都日記) 十時頃ニ起て小便ニ出やうとする時ニお栄が入つて来た 之レハ今日からいよいよ誰を手本にするかと云事を問ニ来たのだ 十二時少し前ニ木村虎吉が来た 一緒ニ即ち二人連で小堀の西洋料理屋ニ行く 今日ハもやの掛つた雨日よりだから円山などの色がよかつた 二時少し過ニ木村同道で内へ帰つて居たら間も無く又お栄が来て今日ハ玉葉も幾代も来られぬと云返事を知らした 木村とお栄を相手ニ馬鹿話をして暮らした 夕方ニお栄を手本ニして面を一ツ描ク 全体オレハ銭切れで何処の料理ニも現金の処ニハ行ク事が出来ないから木村ヲ引張てお栄の内へ行き鳥鍋を食た めしの dessert ニ小初とか云美人を見た 又其女の妹のお徳と云のがおれが六道前の方でかいた画の女の面ニよく似て居ると云ので呼寄せて見た 九時半頃ニ尾張ヲ出て木村ニ三条ノ小橋で別る

1896(明治29) 年1月18日

 一月十八日 土 (京都日記) 十時頃ニ起てめしを食て新聞を読で居た処ニ幾代が祇園へ詣つたからと云て這入つて来た 間も無く中村が親類の若者一人連れて入り来る 此時十二時頃だつた 少シして河野が来お栄どんが今日の手本として三代子を連れて来又清閑寺の堂守岩佐氏が来た 狭き処ニ此の人数で一時ハ大混雑 其中で三代子を手本ニして仕事をやらかした お栄ハ用が有つて帰り河野も去り夕方ニ為つて来たので幾代と三代子を使ニやつて平野屋から食物を取り寄せて食ふ 食ひ始めたので岩佐氏ハ帰る 八時頃ニ中村等と女子共を尾張楼迄送つて行く 四条から京極へ入る処で中村の Protege ニ別れ中村と京極の中で女が此の寒さニ裸で水の中ニ飛込み芸をするのを見た 此の女子共ハ志州の蛋女だと云話也 京極で中村から金五円丈かりた

1896(明治29) 年1月19日

 一月十九日 日 (京都日記) 岩佐恩順師を手本ニ頼で終日木炭画を勉強した 二度のめしとも平野屋から取り寄せて食ふ お昼前ニ安藤が一寸来た 奴ニ今度東京から送て来た鮭をやる 五時半頃ニ仕事を仕舞つて部屋の隅の机ニよつて晩めしを食て居た処ニ君勇がひよつと面を出し這入つて来た 此の者は今ハ誰かの所有物で新門前とか云処ニ住で居るとの事 暗く為つてから又安藤がやつて来て不相変面白い話ニ時をうつす 後奴が帰るのを送つて散歩ニ出掛く 四条通の室町の辺でうどんやニ入つてうどんをたべそれから安藤ニ別れて松原と内へ帰つた時ハ早十一時頃也

1896(明治29) 年1月20日

 一月二十日 月 (京都日記) 父上様の御写真が送つて来た 文蔵様へ手紙を出す 十二時頃ニ恩順師が来て勉強を始めた 二時頃ニ安藤が来て共ニ外出 今日ハいつもより寒し 暗黒町の別荘と称するものを攻撃す 夜ニ入同処を出て縄手通りの鳥新にて夜食の後散歩がてら安藤を奴の住家の横町の角迄送つて行て帰る 時ニ十一時 去年の今日ハ栄城湾ニ上陸した日だナ

to page top