本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年12月6日

 十二月六日 日 (京都日記) 今日ハいゝ天気だ 中々寒い 九時比ニ起て昨日母上から来たお手紙の返事をかいた 安は下加茂ニかきに行た 散歩がてら安のかいて居る処を見に行き一緒ニ帰つて来て昼めし 午後例の如く中 安と三人で清水へ出かけた 今日御陵の下画をかいて仕舞つた めしハ翁亭で牛なべ 夜ハ川端の大勝と云茶屋ニ行てねころんだ 出品甚だ悪し 其代りニ一枚半の散財 今日ハ座敷を貸して呉れないかと云事を宿屋から云ひ出し一寸心地悪い次第ニ為つたがマアマア無事におさまつた

1896(明治29) 年12月7日

 十二月七日 月 (京都日記) 今日ハ佐野 小代 菊地の連合の手紙 和田 山本などよりの手紙が届いた 昼迄ハ何処ニも出ず 昼めしを三人で食て出町橋ニ近い方へかきニ出た 曇天気で余り面白くなかつたから四時頃ニ皆揃つて内へ帰つた これからめしと云処ニ大勢の仲居お春が攻めかけて来た 払をしておつぱらひバンブウへ行た しばらくすると火事だと云ので飛出して行て見ると中村の家より二町程先きの時計の会社か何かだと云話 中村ハ其儘内へ止まりオレハバンブー引かへした 安と二時頃ニ内へ帰る 湯ニ入り一時過ニねる

1896(明治29) 年12月8日

 十二月八日 火 (京都日記) 十一時頃ニ堀江が来た 安藤ハ一寸出たが昼めしニハ皆一緒だつた(堀江 中村 安藤とオレ) めし後ニ堀江ハ帰り例の三人で二時頃から出町の方ニ出かけた 一時間やるかやらぬ内ニ雨が来てやめニして帰る 帰つたら相良八重と云名前で手紙が一通来た 不思議 甚だ気ニなる 夜又三人で京橋をぶら付きお春さん方ニ出逢ふ 又かんざしを買った 四条通から膳所裏を通り内へ帰りそれから三人で東京ニ送る狂歌を沢山こしらへ十二時ニなる

1896(明治29) 年12月9日

 十二月九日 水 (京都日記) マー天気ハ悪くない方 安ハ買物ニかけ廻り序ニ清水ニ行て画を持て来てくれた オレハ中村と出町の画をかきニ行た 内へ帰つて居たら水野正英と云人が来た 安ハ僧二人のお客と出かけた 食後オレハ中村と京極から四条を散歩し大和屋ニ安藤をたづねた 一寸上つて見たが甚だ不景気 十一時頃ニ内へ帰り十二時頃まで中村が話した

1896(明治29) 年12月10日

 十二月十日 木 曇 (京都日記) 今日が京都滞在の最後の日だ 昼頃ニ堀江が来て博覧会ニ付ての議論の話をした 中村もやつて来た 今日ハ十一時頃ニ朝めしを食たので昼めしハぬきニした 二時頃から出町の写生ニ出かけ夕方までやつた 堀江が来て四人連で京都ホテルで別れのめしを食た それから安とバンブーの払ニ行き又尾張楼で堀 中と合す 玉葉丈来た 九時頃ニ切り上げ吉松ニ行く 別ニ二つ計下らぬ出品 十一時過ニ逐立てを食ひ玉葉同道内へ帰る

1896(明治29) 年12月11日

 十二月十一日 金 (京都日記) 二時半頃まで酒肴でさわぎ堀江ハ帰り中村ハのこつて皆で雑魚寝 六時頃ニ起きて出立の用意 七時何分かの急行列車で帰る 途中安藤と暗くなる迄狂歌や発句で少しも退屈せず 十一時半頃東京へ着た 内へ帰つて二階ニねた 内の混雑のざまハ丸で戦争後だ

1896(明治29) 年12月12日

 十二月十二日 土 十一時過ニ学校ニ出て新築の教場等を一と通り見廻り久米 和田 藤島と一緒に神田の宝亭で昼めし それより一寸内へ帰り四時の四谷の汽車ニ乗り久米と奴の目黒の別荘ニ行く 此処ニ小代 岩村 菊地 和田等が集り豚の汁を食ひ目黒の不動の辺まで散歩し茶屋をたゝき起して這入込みなどした 皆で久米の別荘ニ雑魚寝 二時頃ニねた

1896(明治29) 年12月13日

 十二月十三日 日 今朝藤島が来た それでボツボツ起きて十一時頃ニめしを食ひ目黒の茶屋の処の角で合田が一緒ニ為り道々茶見世でどぶろくを飲みなどして矢口の渡に行たのハ四時頃 舟を雇て川崎まで下り女郎屋を一軒々々冷かしめし屋ニ上り祝儀三十銭と云芸者を二人揚て大騒ぎした 久米公ハ一人先ニ帰りオレ等七人ハ九時過の汽車で東京へ帰つた 新橋で皆散りぢりニ為りオレハ小代と相乗で C.F. まで来此処ニ一泊 今夜雨

1896(明治29) 年12月14日

 十二月十四日 月 天気よし 十時半頃から学校ニ出教場を見廻り校長ニも面会した 藤島と精養軒でひるめしを食ひ直ニ内へ帰つた 源が来て居た 菊地が来佐野が来うす暗く為つて C.F. ニ行く 安 小代が已ニ来て居た 発句や狂歌をくねり中村へ送る 十一時頃帰つた 今夜帰りニハ風がつよくて寒かつた

1896(明治29) 年12月15日

 十二月十五日 火 天気よし 学校ニ出て画を直し又校長ニ逢つた 合田 藤島 和田と四人で揚げ出しと云内でひるめし それから内へ帰り大工や植木屋の仕事を見て居る処ニ久米が来た 吉岡と佐野が来た 三人で菊地の横町の牛屋でめし 此処ニ菊地と合田が集まつた 此処を出て菊地ハ帰り久米も去りのこり四人で R.V. を攻撃した スタンレーを盛ニやらかした 又狂歌や発句を沢山こしらへた 内へ帰つたのハ一時

1896(明治29) 年12月16日

 十二月十六日 水 夕方より雨 十時頃ニ久保正吉と云ふ人が画の稽古の事で話ニ来た 午後の三時頃まで大工や植木屋の仕事を見それから笄ニ行き先日京都で受取つた不思議な手紙を父上の御手元ニ差上た 帰りニ小代の家ニ寄つた 一旦内ニ帰り傘を取つた 又出かけ R.V. で小代と会ひ一緒ニ夜食をやらかし十一時半まで遊んだ

1896(明治29) 年12月17日

 十二月十七日 木 天気ハよかつたが終日内で暮らした 夜食後ニ母上と一緒ニ出て母上ハ橋口家ニ例の如く泊りニ行かれオレハ久米の処ニ夜話ニ行き九時半頃まで居た 今夜ハ中々いゝ月夜だ 今日ハ来た人ハ朝合田 春陽堂 午後父上も御出ニなりそれから久松が来てしばらく巴里の話など庭でやらかした 又夕方菊地が一寸見えた

1896(明治29) 年12月18日

 十二月十八日 金 晴 風が少しあつて寒かつた 朝伊藤ニ金を渡しなどして後学校ニ出た 昼めしハ安仲と精養軒 二人連で狸穴ニ真中をたづね又我善坊の小代の処ニ行たが二人とも留守 奴を豊陵ニのこし滑方へ行く 真中が居た 此処ニ久米が来 合 久の二人と紅葉館ニ行く 博文館の忘年会の為 小山正 長田等ニ出逢つた 六時前ニ一人切り上げ 豊陵ニ帰り安 佐の二人と合し食事した 十二時頃帰宅 中村の手紙二通と曾我の婚礼の知らせを読だ 今夜の月ハ昨夜より又一層

1896(明治29) 年12月19日

 十二月十九日 土 曇 朝磯谷がオレの画の売れた代二百三十円を持て来た 又大牟礼が来つゞいて報知の坂井氏が来た 午後処々へ出す手紙をかき四時頃から出かけ麻布の渡邊環氏を訪たるニ留守 それより小代の処ニ行く 二人で八百勘でめしを食つた 風呂ニ入る積だつたニあてがはづれた 司令部を溜池ニ置き開展ニ力を盡し捕虜有り 敵の戦闘力約七千 我軍錦糸城を破りこれを占領す

1896(明治29) 年12月20日

 十二月二十日 日 雨 伊藤が来て居て終日工事の相談などでくらす 夕方ニ久米と岩村が来三人で赤阪の米福でめし 菊地を呼ニやり十一時過まで四人で話した 夜ねてから風が強く吹いて来た

1896(明治29) 年12月21日

 十二月二十一日 月 午前晴 午後曇 午前学校ニ出 精養軒で安仲と一緒ニ昼めし 午後二人で開拓社の竹越と云人を訪ひ後芝浦の大野屋で風呂ニ入りめしを食た 京都から帰つて今日始めて風呂ニ入つた 又二人で豊陵を攻撃した 小代がやつて来て三人と為る 中村へ例の狂歌や狂句の手紙を出す 一時過内へ帰る 帰る時月よし… Tout va bien ces jours-ci excepté ce petit coeur qui est toujours vide !

1896(明治29) 年12月22日

 十二月二十二日 火 今朝起きたら霰がしきりに降つて居り後雪と為つた 十時頃ニ磯谷が来奴と伊藤とを相手ニ額の片附をした 十二時前ニ佐野が来ストーブの形などの事ニ付注意してくれた 四人で昼めし 母上も一緒 四時ニ佐野が帰つた 六時二十分の汽車で品川へ行き例の岩家で佐野 小代とめし 九時半の汽車で東京ニ帰り三人で柳堤橋頭ニ一時迄遊だ Ce froid, ce clair de lune et cette gelée blanche, me font penser aux hivers de Grèz et à tout le monde le là-bas.

1896(明治29) 年12月23日

 十二月二十三日 水 今朝霜が全く雪の如しだ 十時頃から学校ニ出た これが今年の出おさめだ 昼めしハ藤島 和田と精養軒でやる 岡田が奈良で大病だと云事を聞く 内へ帰り暗くなる迄植木屋を相手にした 晩めしニ伊藤を引きとめた 吉岡が来て九時頃まで話した 一緒ニ出て番町から四ツ谷見附外まで散歩した 内へ帰り中村へやる手紙などかき十二時ニ為つた 昨夜から玄関の取次の間ニねる

1896(明治29) 年12月24日

 十二月二十四日 木 十二時頃ニ安仲が来 一緒ニ出て米福でめし 合田の処ニ一寸寄つたのニ奴留守 佐野の処ニ行き佐野を誘ひ出し小代の処ニ行つたらこれも留守 三人で又合田の処ニ行た 内で小代ニ出逢つた 即ち四人で豊陵で晩めし 米的が酔て大立廻りを始めたのニ閉口して大弓屋ニ入る 此処で合田 久米 吉岡等と合し七人連で又豊陵ニ帰る 内へ帰つたのハ一時過 今夜ハ少々曇つてぼんやり

1896(明治29) 年12月25日

 十二月二十五日 金 朝世界の日本からと云て石版屋の岡本とか云人が来た 夫れから和田 藤島 丹羽 小林 白瀧 湯浅が来た 和田 藤島の二人を昼めしに引とめた 皆が帰つてから明日の旅の用意など少しづゝ始めた 月の払の事やら名刺くバリの事やら…平岡□(原文不明)太郎氏の処ニ使をやつたり… 夜食後マヽンと天神の市ニ出かけた 中々盛だ 子供の時の事を思ひ出した 五丁目の市もにぎやかだ 帰りがけに新二郎の内ニ寄り九時頃まで居た 内へ帰つて荷造の仕度をした 又中村へやる手紙をかき十二時頃ニねる

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