本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年11月17日

 十一月十七日 木 朝ケシの葉ヲ研究す 昼後ハ肖像 夜食後ハ美陽家に行てから宿屋ニ行く 加奈陀人のキルナと米人のコリンが着て居た お酒ナドの御馳走ニ為り九時半頃迄話ス コリンハ二年振計に此の村ニ来たのだ 親しく付合た事ハネへけれど米人中でハ中々いゝ奴也と思はる 内へ帰てから小説ナド読み十時頃から日本へ出す手紙を書き始む 一時過ニ床ニ入る 和郎の色事一件の略を書てやつた 和郎ハもう自分の身の上話をすつかりブツフアールニして仕舞たそうだ ブツフアールも和郎のしやべる事ニハ閉口して居るとの事 話し好きと云者も随分困たもんだわい

1892(明治25) 年

 十一月十七日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益安康奉大賀候 次ニ私事元気にて勉強致し居候間御休神可被下候 新二郎よりも二三日前ニ便有之達者ニテ修行の由学校も十一日限とかにて休暇ニ相成候との事ニ御座候 友人バンハルトランと申白耳義人五六日前より此村ニ逗留致し居候 此の者ニハ去る明治十九年ニ松方氏の引合せにて始めて知り合ニ相成其翌年から三夏つゞけて奴の別荘なるブランケンベルクと申処ニ招かれて参り厄介ニ相成候 其後今日ニ至る迄始終手紙のやり取り致居候処今度家内ニ苦情が起り一と先づ国を去ると云段ニ為て見れバ仏蘭西ニハ私と久米氏の外ニハ別ニ知人も無くこれニ私の居る処山水もよく閑静なりと云ので私を尋ねて参り候事ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年11月18日

 十一月十八日 金 今日ハ又少し寒く為た様也 曇也 早お昼で鞠の処ニ行く 奴等と一緒ニ豆茶ヲ飲み直ニ仕事ヲ始む 四時迄勉強す 一昨日から被物の模様を描てるがなかなか暇が入るわい 仕事を仕舞て和郎と舟こぎをやらかす 後宿屋に行てキルナ コリン等ニ一杯づゝおごる 夜食後ハ美陽方でちよいと寿とカルタを取りそれから宿屋で皆が玉突をするのを八時半頃迄見て帰る それから人形造りを始め十二時半ニネる

1892(明治25) 年11月19日

 十一月十九日 土 朝ハ人形造をやらかした計也 昼後ハ気候が寒いので霜菜を手本ニする訳ニ行かず洗濯屋の娘を雇テ仕事す 夜食前和郎が話ニ来た 夜古巣の内ニ行て十時半頃迄話す 内へ帰つてから又人形をいぢくり一時頃ニ為る

1892(明治25) 年11月20日

 十一月二十日 日 朝十時半頃ニ古巣の処ニ行く 二三日前からひネくつて居る人形を見す 古巣がオレの大きな肖像用ニ夏の景色を二枚程かして貰れた 古巣の妻君がオレの額ニ描くばらの花を取りニシヤドビツクの留守宅ニオレを連れて行つた 門迄行たが鍵を取てる婆がのらニ出て居ネへので内へ這入訳ニ行かずそれから鞠の処ニ古巣の妻君を連て行てオレのかきかけの肖像を見せた 色々面白い意見を云て呉れた 昼後ハ其肖像を手本なしでいぢくる 又寿と池に網を引た 小さな魚が二三匹取れた計也 三時半頃から和郎が来てしやべる 四時半頃ニ昼を仕舞て内へ帰る 和郎七時頃迄話す 夜食後直ニ美陽家ニ行き米の菓子の御馳走ニ為る 後宿屋ニ焼酎買ヒニ行く 村の若い者共六七人台所ニ集て豆茶など飲て居たので皆ニ酒を一杯づゝおごつてから美陽家ニて御みきを戴きながら十時少し前迄話す 鞠と美天小僧を奴等の内迄送ってから又宿屋ニ立寄る 和郎ハ早寝て仕舞たとの事 ブツフアールトコリンニ逢ふ 昼後の便で久米公からの手紙着 奴の為換券が這入て居た 夜の十二時十五分頃迄かゝつて久米と河北へやる手紙をかく 今日ハ大きナ肖像の額の中のケシの葉をすつかり消て仕舞た

1892(明治25) 年11月21日

 十一月二十一日 月 曇で寒し 古巣の神さんがばらの花の立派ナノヲ見事ナ籠ニ入れて鞠の内ニ持て来て置て呉れた 難有仕合也 朝も昼後も其ばらの花を描く 夜食後鞠ヲ奴等の内迄送て行てから古巣氏の内ニ礼を云ながら夜話ニ行く 十時半頃迄話して帰る 古巣が貸して呉れた本ヲ見て十二時過ニネる

1892(明治25) 年11月22日

 十一月二十二日 火 今日ハ昨日より又一層寒い様だ 雲空也 朝も昼後も庭ニ居テばらの花を研究す 色々かいて見ても中々位置が甘く行かぬのでけして仕舞た もうやめると云時ニ為てから一寸出来て来た様だ 籠ヲ置く事ハやめた 和郎が例の如く七時頃迄話しニ来た 夜ハ美陽方て九時頃迄小美天などゝ数つなぎをして遊ヒそれから墓場の上の方ニ行て北風のピユーピューする処で野ぐり裏道を通つて帰る 昼後の便で久米 河北からの端書がつく

1892(明治25) 年11月23日

 十一月二十三日 朝ブランシヤル本屋シヤルボ絵具屋 曾我 長田 川村等へやる端書ヲかく 昼後ハ又庭でばらの花を論ず 四時少し前ニ十五分間程鞠屋を手本ニした 今日ハ昨日と寒さ加減は大抵似た様ナもの也 今日の方が霧が少し強い様だった 今日ハ膝の上ニ置く花をかく 和郎ハ例の如く話しニ来た 鞠の処から帰りがけニ宿屋ニ立寄り和郎が十日分の下宿料など払つて仕舞た 此の払ハ霜菜から銭をかりてやつゝけた 夜奴の内ニ行てオレの食料だのなんだのかんだのいろいろ差引勘定ニ及だらオレ様はもう一文なし 今日から今度金の着く迄ハ借金で暮す可き事也 美天小僧が強情を張て戸の外に出されるやら帰る時ニ置て居かれるやらの事有りたり 小供なんてものハ実ニ調子の取りにくいもんだ 九時ニ和郎ニ逢ニ宿屋ニ行く(ラウスタト・エバ壺が着て居た) 和郎の部屋で色色美術上ニついての説などを十時十五分頃迄承つた それから宿屋を出て橋を渡て向ふの野でうんち 内へ帰つて茶碗など脂気の無いもの丈洗ふ 湯がぬるく為て居たから皿などハあしたのことゝした

1892(明治25) 年11月24日

 十一月二十四日 木 今朝十時頃ニ鞠の処ニ行うとして見たら雨が降り上るのでやめて昼部屋ニ這入込み布の張り直し方などやらかす 昼後も霧が降る様で変ナ天気だから手本を外ニすゑて描く事ハとてもだめさ 色々工夫の末画部屋で仕事する事とした 家主が火ナドたきつけて呉れたから大きニ仕合せ 霜菜ヲ手本トシテ二時半頃から夕方迄めつしり稽古す 夜九時少し過迄美陽方で遊ビ(夜食前古巣夫妻がオレの内の前を通りかゝたのニ出つこあしたから一寸いと内を見せてやつた)後宿屋ニ行た サンマルセルの親爺が来て居た しばらくつまらねへ話を聞て居た ブツフアール コリンス 和郎とサンマルセル親爺を墓場の上迄送て行た 今夜ハ少しあたゝか也 全体今日ハ二三日前ニ比ぶれハぬくい方也 十一時十五分前頃ニ内ヘ帰る 夕めし前ニ懸て置た湯がまだかなりあつくして居たので昨日の洗ヒのこしの皿を洗て仕舞た さつきめし前ニ和郎が来て奴の未来の壺がシヤトダンとか云処ニ十五日程遊ニ行くと云てよこしたので其処ニ逢ヒに行かんとするの甘い策ヲ思ヒ付いタ様ナ事を云て聞かす オレハ感服せぬと云てやつた 何ニしろ壺の方でハ和郎があんなニほれてるから夫婦ニ為ろうのなんのかんのと云てるので極内心の処ハ只和郎を可愛そうだと思てる丈の事らしく思ハれていけネへ まあなんでもいゝ 壺ニして見たら安心するだろう 面倒臭へ 早くはめるがいゝや

1892(明治25) 年11月25日

 十一月二十五日 金 ぽしやぽしや雨ノ天気だ 朝ハ昨朝の様ニ画部屋ニ行て布の張り直シ方をやる 和郎が来て居た 昼めしハ鞠の内で食ふ 昼後画部屋で霜菜を手本として描く 和郎は日記のかきかけを画くと云のでずーと来て居た 四時頃ニ画をやめて和郎と舟遊ヒニ行く 後和郎ハ例の如し おれの処ニ七時少し過迄居た 美天の小僧を汁粉飲みニ連て来たら和郎と非常ニふざけた そうして仕舞ニ帽子ヲ目ニうちつけられて哭きそうニ為たから直ニ奴の内ニ送り帰へす 和郎が帰ると直ニ食ヒ物を美陽家ニ取りニ行き夜食す 今夜ハ霜菜が小牛の肉ニ人参ヲ入れて煮て呉れた 食後美陽家ニ行たら鞠と霜菜とどつちがてにはの間違の少ない文章ヲかくと云うぬ惚の云ヒ合最中也 中ニ入つて書取りをやらして見ると大抵似たり寄たり 先づ議論のやり損と云可シ 後銭の表裏の当つこなどして遊ぶ 鞠等を奴等の門口迄送て行て九時少シ過ニ帰る 今日久米 河北からの水曜の晩附の手紙届く 十二時頃迄かゝつて久米公等へ出す手紙ヲかく

1892(明治25) 年11月26日

 十一月二十六日 土 今日ハ終日美陽家の庭で葡萄酒を徳利ニ入れ方をして暮した 之レハ鞠の企で奴と組合で五十二リトル入の樽ヲ一ツ手ニ入れたのだ 昼めし後ニ鞠の内ニ豆茶を飲みニ一寸と行た 夜食ハ美陽家で御馳走ニ為る 夜食後鞠の処でクレプをこしらへて遊ぶ 十時十五分前頃迄居た 霜菜を奴の門口迄送て行きそれから内へちよいと立寄り忘れもの〔原文旁書(新聞紙ノ事也)〕を取り直ニ飛ヒ出し橋向ニ行て安心ヲ得た オレの部屋ニ極楽が付て居ネへのハかへすかへすも残り多い 今朝の便で着たものは日本から母上様のお手紙と 三百円の為換券だ難有てへ お手紙ニ鹿児島の父上様が国分八幡の宮司ニお為りなされた事が記して有つた 大慶至極也 昼後の便で白耳義から川村が手紙をよこした

1892(明治25) 年11月28日

 十一月二十八日 月 朝五時半ニ起して貰ヒ六時四十分の汽車で巴里へ行 銀行で金を受取り本車ニ乗て三味線通りの本屋ニ払をし翁で本を一冊買ヒ夫レから美天ヲ訪ふ 停車場ニ連れて行てめしヲおごり十二時十五分の汽車で村へ帰る 後昨日の礼として嘉蔵等へ名札置きニ行く 今夜も和郎が来て人形造りをやらかす

1892(明治25) 年11月29日

 十一月二十九日 火 終日霧雨 久米公へ三百仏送る 手本代家賃かれこれ都合三百三十仏の払ヲして仕舞ふた 朝も昼後もちよいと画部屋ニ行たがなんニもせず鞠の処ニ行てぐつぐづして居て茶など御馳走に為る 夜食前ニ半分かけ足でブーロンの停車場ニ久米へ送る本の包ヲ持て行た 夜は美陽家で屁の話を聞く 川村へ出す手紙ヲかく 奴から此間  うでのねき黒田まあるをひねり見れば恋しき君のすかたなりけり 黒田トコムシとしてよこしたから 其返歌を読でやつた  うてのかハむらさき色ニなりぬるハ虫ニ食ハれし跡とこそ知れ

1892(明治25) 年11月30日

 十一月三十日 水 昼迄ハ日がてつたりして中々いゝ天気だつたが昼後ハ雨が降た 夕方ニハ上り夜ハ晴れていゝ月夜だつた 朝川向フヲ少シク散歩ス 今日も亦庭での画ハだめ とうとう三条様から貰た菊の花ヲ描く事として画部屋ニ行ク 花いけニする大キナ壺ヲもとの煙草屋の婆ニ霜菜が借りて呉れた 霜菜ヲ菊のかげニ置キ下画ヲかく 画ヲ始むる前ニ鞠 霜菜と三人でおみきを頂く 鞠が猪口ヲ持て来て呉れた 酒ハいつか鞠の処ニ持て行てたゝき出された酒也 夕方から和郎が手紙かきニ来タ 夜話ニ夜食後ちよいと美陽家ニ行く 八時半前ニ帰る 和郎が九時頃ニ来て十時過迄居る(中略) 昼後の便で島からの画入の手紙ヲ受取る 夜ハ其返事ヲかく 今夜ハ部屋ニ火ヲたいた

1892(明治25) 年12月1日

 十二月一日 木 朝もひる後も画部屋で勉強 ひる後ハ霜菜を手本として少シやつた 和郎も来て居た 例の如く和郎が夜話ニ来た 奴ハ人形ヲ造りたのしむ 日本へ出す手紙を十二時半頃迄かゝつて書た

1892(明治25) 年

 十二月一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)らいはるのきようしんくわいニだしますゑが一まいハたいていできてをります もう一と月はんもかけバかきあげてしまうといふところまでいつてをりますがこのごろハさむいやらあめがふるやらニていかニもおてんきがわるくそとでかくことハちつともできませんのでしかたなくなかやすみになつてをります きようしんくわいにもちだすのハらいねんの三月のすゑですかららいねんになつておてんきがよくなつたところでまたこのゑニとりかゝろうとおもつてをります このゑハこないだおくつてあげましたおんなのゑとおなじおゝきさですがこんどのハひとがふたりでニわにをるところです うちのなかでかくのとちがつてそとでかくのですからよほどむづかしゆうございます につぽんでハこんなふうのあぶらゑハたんとハあるまいとぞんじますがこちらでハそとでのゑがおゝはやりです(中略) かごしまの父上様がこくぶのはちまんのぐうしニおなりなさいましたよしまことニおめでたいことでございます げつきゆうのとれるとれないハまづつぎのこととしてなんニもしないでくらすほどたいくつなことハないのですからこんどおつとめができてさぞおよろこびだろうとぞんじあげます こうがいのうちもりつぱニできあがりましたよしこんどのうちハまるでくわぞくさまのおうちのようだとのことさういふわけでハこうがいニいつてぶたのぞーわたをにてたべるわけニもいきますまいよ わたしのしやしんがとゞきましたよしわたしのあたまがもうすこしはげたらまつとかごしまの父上様ニにてくるだろうとぞんじます こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおたいせつになさいまし

1892(明治25) 年12月2日

 十二月二日 金 雨 朝霜菜ニ起さる 十時頃ニ画部屋ニ行く 和郎が来た 昼めしは鞠の処で食ふ 午後霜菜ヲ手本とし勉強す 和郎も来て居て人形ヲ寝せる寝台ヲ造ると云て木ヲきるやらたゝくやらして暮シ上つた 四時前ニ誰が来たと云人が霜菜ヲ呼ニ来て帰る 暗く為て仕事ヲ仕舞てから和郎とマルロツトの道ヲ散歩シ内へ帰る 和郎やつて来てかちんかちんと七時の食事の時迄やらかす 又八時少し過頃ニやつて来て十時半頃迄(中略) 今朝簔田からの手紙が着た 千田の不幸ヲ聞く 終日其事が頭ニ浮で来て変也 和郎の上気ナ話ヲ聞て笑て居るとハ云ものゝ千田の事の考が其処ニ控へて居るわい 千田の事ヲ話し度ても誰れも居ず

1892(明治25) 年12月3日

 十二月三日 土 曇 朝十時頃ニ画部屋ニ行たが和郎の目懸ニ付ての心配の話を承り勉強不出来 昼後ハ霜菜ヲ手本として描た 画部屋ニ来る前ニ鞠の処ニ立寄り奴の胸のあたりから腕など見たがなかなかかけるわい 御酒の御馳走ニなる 和郎も画部屋ニ来て書キ物す 家主のジユル爺が薪ヲ画部屋の中ニ積み込で呉れた 和郎と画部屋から帰る時宿屋の前でサンマルセルのぢい夫婦ニ出逢ふ 是非酒ヲのもうとの事 一度内へ帰て宿屋ニ出懸て行く 七時頃迄居る 今夜鶏ヲ霜菜が煮て呉れたのでそれヲ取りニ美陽家ニ行く 食後もちよいと出懸て行て豚の脂肉切りの手伝ヲやらかす 九時頃和郎が来た 奴ハ目懸ニやる手紙ヲかく オレハ簔田へやる手紙ヲかく 今朝川村よりの端書ヲ受取 昨日の昼後の便で美陽家ニ着た様子也

1892(明治25) 年12月4日

 十二月四日 日 昼後雹ト雪が少シ降る さむし てつたり曇たり也 朝も昼後も画部屋ニ行て菊の花をかく 昼後ハ和郎ハどこかニ散歩ニ行て来ず 夕方ブルス氏ト墓場の上ヲ散歩ス 夜九時頃ニ和郎来り火ニあたりながらお雪さんの性質ニ付ての心配又手懸ニ安心を得しむるの策等の話ヲ為シ十時半頃迄居た 今日ハ此の村の火消共の祭也 去年ハ義理だと思て銭ナド出シ名誉員ニ為るやら夜食ニ行やらしたが此年ハそんナ馬鹿ハ止ニシた 火ヲおこしたを幸湯をわかして足ナド洗ふ 一時少シ前に床ニ入り二時頃ニあかりを消す

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