1892(明治25) 年10月30日
十月三十日 日 昼後の三時頃から古巣夫妻と森の中ニ茸狩ニ行く 夜食ハ奴等の内で御馳走ニ為る
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
十月三十日 日 昼後の三時頃から古巣夫妻と森の中ニ茸狩ニ行く 夜食ハ奴等の内で御馳走ニ為る
十月三十一日 月 終日鞠の番して居る内ニて暮す おくれ咲きのけしの花を描て楽む 昼後の二時過からずうつと雨 此の間から降りつゞく雨で川の水が非常ニ増し野の方へ少し溢れ出た
十一月一日 火 終日雨でいやな天気 今日ハ祭で天気がよくつても手本を雇ふ事の出来ない日だから雨で却て仕合ナ処も有り 体屈だつたから端書ヲ方々ニ出す(白耳義の松方 中村 英国の平田 米国の蓑田 清秀等へ)久米 河北への昨夜書た手紙も出す 又 Fantome d’Orient ヲ読で暮す 夜食ハ霜菜(鞠屋事)の内へ食ひニ行た 食後婆やなどと一緒ニ少シかるた遊をなす
十一月二日 水 今日は随分いゝお天気也 終日仕事す 夜鞠兄弟三人と橋の上ニ川の流ヲ見ニ行く 今日ハ格別ニ水が増して野ハ一面湖水の様也 橋の上でジユル シュビーヨンと出逢 色々村の者の失錯話など聞キ時ヲうつしたり 内へ帰りて日本へ出す手紙ヲ書く
十一月二日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)かきかけのゑもだんだんすこしづゝできあがつていきますからおもしろいことです なニしろらいネんかぎりのことですから一しようけんめいニなつてほネををつてをります かごしまニかへつたらぜひさくらじまにいつてとうぢばのゑをかきたいもんだとおもつてをります につぽんへかへつたらかきたいものがたくさんでてくるだろうとぞんじます こまることニはにつぽんにハせんせいがないのとかいたゑがうれないのとです(中略) いつかおくつてあげましたおゝきなゑももうとつくについてをることゝぞんじます いまあれとおんなじおゝきさのを一まいにはでかいてをります(中略) くめさんはぶれはじまニやつぱりをります かわきたといふゑをかくひともそのしまニいつてをります わたしがいつていたころニハなつのことでしたからあそびニきてをるひともたくさんございましたがこのごろハもうみんなかへつてしまつてくめたちがふたりだけになりしづかでいゝことだそうです(後略) 母上様 新太拝
十一月三日 天気よし 朝仕事す 二時の気車で巴里へ出る 着て直ニ曾我 長田等ヲたづぬ 二人とも留守 夫レから公使館ニ行日本めしの御馳走 十二時迄居る 天長節ニめしヲ公使館で食たハ今年が始也 併しごたごたした様ニして日本人会めきたり 宮さん方や女の面が無いからの事と知られたり 矢張御酒の席ニハ女が居るニ限る 歌もなニも一向ニはづまず大鳥と長田と三人で出てゝ川辺をぶら付乍らぼつぼつ歩く 今夜のセイヌ川の景色ナントモ云ハん方なし 霧が立ちたるが為め月がぼんやりと為り水の色ハ牛乳然と白つほくして居る ピエールロチの書いたイスランド猟師中のイスランド近海の風景もかくやあるらんと思ハれたり とうとうしまいニ大通の引張の来るジユリアンと云茶屋ニ行く事と為る 女の近づき得ないお座敷で一杯飲む 二時近く為る迄居る 見世ヲ仕舞ふから止を得ず出る 大鳥ニ衆議院前ニテ別れ車ヲ引ツヽかまへて小僧とホテルデカルム(小僧の下宿)へ行き小僧が前以テオレの為に借りて置て呉れた部屋ニネる ネる前ニ丸毛ト少し四方山の話す ネる時ニハ三時半頃ニ為た 丸毛ハ小僧の部屋の長椅子(カナツペ)の上にごろりとして居上つたからたゝき起して話してやつたのだ
十一月四日 曇 九時頃ニ起き小僧の部屋で豆茶ヲのみ夫れから小僧と一緒ニ湯ニ行く 寺尾君の処ニ被物ヲ取りニ行たら橋本氏が来て居た 寺尾君と一緒ニ小僧の内ニ昼めしヲ食ひニ行く 途中元老院の処で電信ヲ出す 田舎へ今日の二時ニハ帰られないと云てやつたのだ 大鳥も食事ニ来て居た 大鳥ニ別れて翁の茶屋ニ行き被聞召 其処ヲ出てて寺尾と長田ニ別れた 五時の気車で田舎へ帰る ブーロンノ停車場で森江老婆ニ逢フ 三条公ノ娘サンモチラト見懸く 久米等の手紙と和郎の手紙ヲ受取る 和郎ハいよいよ親達と議合はず家ヲ飛ビ出すとの事 実ニ奇体サ 自分の気ニ食ハぬ女ヲ無理ニたゝき付けられたらいくら親のスキだと云ても其女ヲジーツと持て居る事ハ出来めへが自分のほれた女ヲ貰ふ事が出来ナイと云テ親と敵ニ為るとハ変だ 親達も親たちサ そんなニむす子が気ニ入つてる女ナラ自分達の気ニ入らずともよめニしてやれバいゝのニ
十一月五日 和郎ニ電信で此の暮村ニ居るから来いと云テやる 朝僅ニ一時間位しきや稽古出来ず 昼後霜菜ヲ手本として一寸始メテ居た処ニ人が来て岩村がオレヲ尋て居ると云て来た 之レデ仕事ハだめと為る 村三条ノ娘ニ扇子ヲ送る 岩村ニオレの画など見せてやる 後兎馬の車でマルロツトヲ経てお化の池だの狼が谷など見ニ行く 森の景色中々よろしく帰へる時ニハ暗く為つて鹿の声があすここゝニ聞えた 鹿のこう云様ニ鳴くのハ始めて聞た なんだかすごい様ナ淋みしい様なもんだ 淋みしい様ナ処で聞からそう聞えるのかも知れない 岩村が七時の気車で帰へつて行くと云からブーロンの停車場ニ車ヲ付ケテしばらく待合部屋ニ居た なニしろ七時ニハ未だ一時間の余も有る どうだ村ニ来テ泊てあしたの朝六時過の気車で立つたらどうだと云たらとうとうそうする事と為る 即ち村へ帰る 食後岩村ヲオレの部屋ニ連れて来てつまらない下画だの又画写真や画入の本など引出シテ見せる 十時過ニ宿屋ニ一緒ニ行き台所でマント水を飲みそれからねると云ので部屋迄送て行き別れを云て帰る 今夜ハ雨
十一月六日 天気かなりよし 終日仕事す ケシの葉ヲ描た 夜霜菜の中でカルタをうつ 後墓場の上の方ヲ少し散歩しのぐる 月がいゝ
十一月七日 月 終日毛利の明屋敷で描く ひるめしハ鞠と一緒ニ食ふ 又ひる後一時間半程鞠ヲ手本ニしてかいた 今晩清泉駅からお三が来た
十一月八日 火 今朝九時ニ羊が着たと云てブーロンの鉄道局からの知らしが来た 直ニ人を取りニやつた 例の如く鞠の料理で其羊を食ふ 実ニ結構 霜菜ハ来らず 今日ハいやニ寒くしめりけが骨迄這入込む様だつたから昼後ハ外での勉強ハおやめニし画部屋の掃除などやらかし後庭ニ日の当て居る景色の中ニ人物を置く 夜八時に古巣の処ニ話しニ行く 十一時頃迄て居た
十一月九日 水 朝十時ニ古巣の処ニ行き奴をオレの画部屋に連れて来てオレのかきかけの肖像ニ付意見を聞く ひるめしハ鞠の処で羊の御馳走也 ひる後ハ霜菜を手本として勉強す 古巣の説ニ従ヒ地の色を変ゆ 今朝の使で十月六日と七日附の御両親様よりのお手紙が着た オレが送た此年の共進会ではねられた肖像が着たのハいゝがあんまり皆様のお気ニ入らないとの事余儀なき話とハ云ものゝあてがはづれて面白き心地せず 今夜は外ニモ不出手紙も書かず書物を読だ 村ニハ寄せ芝居が有るとの事
十一月十日 木 今日ハなまぬくい天気也 朝ハ一寸いと日が出たが昼後ハ曇 終日明家敷で勉強す ひるめしハ矢張鞠の料理の羊也 夜食後霜菜の内ニ夜話ニ行く 九時頃ニ帰る それから日本へ出ス母上様への手紙ヲ書く 一時過ニ床ニ入る
十一月十日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしはやつぱりまいにちごちごちべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし いつかおくつてあげましたゑもとゞきましたよしあんしんいたしました こんどのゑハあんまりおきニいりませんとのこといたしかたハございません らいねんハいろいろなゑをたくさんおめニかけますよ こんどのふねでいわむらさんといふひとがにつぽんへかへつていきます そのひとハもとかごしまのけんれいをしていたいわむらさんのむすこだとかいふことです いまはきようとにすまつてをるとのことです こちらでハやつぱりあぶらゑのけいこをしていたのです わたしなんどゝハせんせいがちがうもんですからぱりすでもあんまりつきあいハいたしませんでしたがこないだてんちようせつのおゆわいにこうしくわんででつこわしましていろいろはなしをいたしましたらちかぢかのうちニにつぽんへかへるとのことそれぢやおたちなさるまへニちよつとわたしのをるいなかニあそびニおいでなさらぬかといゝましたらくるとのことニてすぐそのよくよくじつニやつてきました わたしがいまかきかけてるゑをみせるやらなニやらしてそれからちいさなにぐるまをかりてそれをろばニひかせこのきんぺんのけしきのいゝやまのなかにあそびニいきました かへるときにハもうくらくなつてしかのこゑなどがあつちこつちニきこへました そのばんハこゝにとまつてよくあさの一ばんきしやニのつてかへつていきました そのいわむらさんハはじめハあめりかニいつてをりそれからこつちへけいこニきたのです おとつあんがごびようきなのでかへるのだそうです だがまたぢきにこつちへくるとゆつてをりました(後略) 母上様 新太拝
十一月十一日 金 曇 朝の九時の便で和郎からの手紙着く 土曜日ニ此処ニ来ると云てよこしたから車など申付けて置く 日本へ手紙を出ス 和郎の手紙ヲ久米公ニ送てやる ひるめしハ鞠の処で食ふ 食後二時頃から夕方迄手本なしで描ク 四時頃ニ和郎からの電信届ク あしたハ来ズニあさつて来るとの事 其通り都合す 夜八時から九時迄美陽方で遊ぶ 如類寿とかるたを取る 今日のひるめしニ鞠が鶏の汁デ米ヲにテ食ハした 中々甘し 夜食ニハ例の羊ヲ食た もう今夜限であの羊ハ食ヒ取たのだろうと思ふ 夜食ハちやアーんとこしらへてオレの穴蔵に霜菜が持て来て呉れた 丸デ牢屋に這入て居る人間の生活の如シト思ハれて面白シ
十一月十二日 土 朝川村純蔵からの端書が届く ひるめしハ鞠の処で食ふ ひる後うす暗く為る迄ケシの花を描ク 霜菜の内ニ夜話ニ行テ豚のあぶらみのきりかたの手伝ヲやらかす ひる後の便で久米 河北からの手紙が来た 今日出シタ手紙ハ久米等へ一通と祖山 曾我 小僧等へ端書
十一月十三日 日 酒一本と缶詰の海老を持て鞠方へ昼めしを食ヒニ行く(めし前ニ一時間半程ケシの花を研究す) 二時の汽車ニ和郎を迎ニ行 和郎来らず 村へ帰つて鞠方にて奴類寿が大きなブロツシエ魚を釣り上げるのを見た 五時ニ又気車ニ迎ニ行く 今度ハ来た 一緒ニ宿屋で食事ス 九時過ニ別れて内ニ帰る 留守に鞠連がおみき頂ニきたと書置がして有つた 内へ帰て居たら又やつて来た 二三分間がやがやつまらネえ笑ヒ話シナドシテ行て仕舞上つた 鞠の内の門口迄送て行て帰る 時ニ十時半也 今日ひる後ニ久米公からの端書受取 古巣にやつた本の事の返事也
十一月十四日 月 朝の便で久米 川村 寺尾等へ端書を出す 朝めしハ宿屋で食ふ ひるめしハ穴蔵也 食後和郎と鞠の処ニ酒徳利一本持て行く 外聞が悪いと云て其切角持て行た徳利を又持て帰る事さ 後庭で四時迄勉強す 朝も一時間半程やつたが和郎が居たのでいつもの様ニハ身が入らず 和郎が我が内ニ来る或ル人ニ出す手紙の下書だと云テ奴の色事ニ付て今迄起た事の云ヒ訳とどうかして親達が婚礼を承知して呉れる様ニ世話して呉れと云頼みの文の長たらしいものを読で聞かした 今日ハ非常ニ天気がいゝので草原ニふつてる露が日ニ照らされて青だのなんだのの色ニきらきらして居るのを見ながら聞て居た処で一句浮だり 世の中ハ秋のあれ野ニをくつゆのきえうせぬ間の色々の玉 四時から五時半頃迄和郎と散歩ス それから和郎が内ニ来て六時半頃迄話す 今夜のめしハ霜菜がちやーんとこしらへて置て呉れたから心配なし 和郎が帰たので直ニめしヲ食ヒ始メた 殆んど食ヒ終らんとして居る処ニ昨日如類寿が釣た魚の料理したのを一皿霜菜が持て来て呉れた 食後美陽家ニ一寸行き後宿屋ニテ九時半頃迄和郎 ブツフアール(巴里の美術家)と夜話ス 昼後の便で新二郎からの手紙が来た うれしい
十一月十五日 火 天気よし 朝九時少し過美天の妻が巴里ニ立て行ので別れを云て来たから一緒ニ美陽方迄行て見送る 後屋敷ニ仕事シニ行く 和郎がやつて来たが直ニ帰て行た 昼めし後一寸宿屋ニ立寄る 二時頃から夕方迄霜菜を手本として仕事とす 和郎 ブツフアールと舟遊をやらかす 五時半頃から七時頃迄和郎が内ニ帰て話した オレが筆を洗ていたら霜菜がそうつと来てオレを驚かそうと思ヒわアツと云たからオレが二階ニ和郎が居ると指したらあつちやこつちらニびつくり大笑 七時半頃から八時少し過美陽方にて寿とカルタを取る それから宿屋ニ行て九時半頃迄和郎のしやべるのを聞く 帰へる前ニ野ニ行て極楽浄土 内へ帰て久米へやる手紙をかく 今朝新二郎へやる端書を鉄道局の箱ニ入れて呉れと美天の壺ニ頼で出す
十一月十六日 水 朝新二郎へ出す手紙ヲ書く 昼後ハ例の如ク庭で夕方迄仕事す 今日ハ曇天気だがあたゝか也 昼後の便で寺尾君からお金が返へして来た 四時十五分頃丁度画をやめ様として居る処ニ和郎とブツフアールと舟で迎ニ来た一緒ニチヤドウイクの明屋敷を見学す 和郎が内ニ来て七時迄話す 夜食後美陽方ニて寿とカルタを取る 八時頃ニ鞠 美天 寿等を門口迄送て行てから墓場の上の方を散歩しのぐる 内へ帰つてから茶碗皿の洗ヒ方をやらかす 今日小僧ニ端書で Ecole des Artist metiers の規則書を貰て送て呉るゝ様ニ頼でやる 新二郎の為也