本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年12月5日

 十二月五日 月 朝九時頃ニ起て見たら雲が向の屋根ニ積で居た 美陽家ニ水くみニ行き久米公等からの手紙ヲ受取る 河北から女子話しの説き明シナリ 直ニ其返事ヲ書く 又曾我ニ arts et metiers 学校の規則ヲ記シした□(原文不明)方ヲ頼でやる 昼めし後鞠の処ニ一寸行く 昨日客が有つて非常ニ躍などしたと云てつかれきつて居る体也 直ニ画部屋ニ行く しばらくして霜菜来る 三時迄仕事ス 話の序ニ九十年の此の村の祭ニ付てハ糞の如キ感ヲ未だニ持つなどの事ヲ云て聞かして別る 人種ト教育の異なるハ物事ニ付て違た感ヲ与ゆる事不思議也 古巣の内ニ人形の形造ヲ見ニ行ク 巳里から職人が二人来て仕事ス 古巣の内で夜食の御馳走ニ為り十時少し過迄話して帰る 今日ハ古巣夫妻が婚礼してから四年目だそうだ 和郎ニハ終日不逢

1892(明治25) 年12月6日

 十二月六日 火 朝起て見たら向の屋根ニ雪が少し積で居た 仕事部屋ニ十時頃ニ行たら和郎が来て書物をして居た 昼後ハ画かき部屋で霜菜を手本として夕方迄勉強 和郎と一緒に内へ帰つたがナンダカびんたが少し痛イ様で気分悪し クタビレし心地す 和郎英語の新聞をしきりに翻訳シテ読で聞かす 夜食後美陽家ニ一寸行く 鞠等送て行てから宿屋ニ行き和郎 ブツフアールとラム酒ヲ飲む 今夜皿ナドの洗方ヲする積だつたが気分が進まぬので其儘ニして置てネて仕舞た

1892(明治25) 年12月7日

 十二月七日 水 今朝ハ昨日の朝より一層雪が積で居た 十時少シ過ニ仕事部屋ニ行たら和郎が来て居て火のたき付方か甘くいかぬので薪を外ニ持ち出シテ割り方やらたき付の松の枝の片付方ナドやらかす オレ様ハ十一時頃から雪の景色ヲ論シかく 此の時盛ニ降る 長クハつゞかず 雪景色トハ仕事部屋の中から見たる景色也 昼後も少シ描ク 二時頃ニ霜菜が美天小僧ヲ使ニやつて客が有つてオレの処ニ来る事ハ出来ぬと云てよこす 和郎もやつて来た処で焼酎ヲやけつ腹ニ為て飲ながら色事を盛ニ論じた 暗く為たので蝋燭家主の処ニ取りニ行キ明ヲ付ケテ七時過迄仕事部屋ニ居る 此処ニあかりを付ケタハ今日が始也 夜珍らしく和郎来ず 今夜晩めしニ内へ帰つて見ると肉の残りとまんぢうの切つ端の小さなのが一ツきり アヽつまらねへ浮世だ 仙人気取も度が有ら 糞だといら立て見た処が仕方がネへ まんぢう(パン)を買ニ行のハ面倒臭い 有リツ丈のものを食てあとハお茶でごまかしそうつと其儘十一時頃ニ寝床ニ這入ル サアネむられぬ いろいろな考が出て来てとうとう三時頃迄くるしめられた 夕方曾我からの手紙が手ニ入る 頼でやつた事ヲ直ニやつて呉れたそうだ 仕合也

1892(明治25) 年12月8日

 十二月八日 木 朝曾我が送て呉れタ職業学校の規則書が届く 上天気だがオレの気分は何ニとなく不平極る 十一時頃ニ村ヲ飛ヒ出シ乾山(モンチ)村ニ行キ御中食 それから兼て聞て居た瀬戸物製造所ヲ見物シ記念の為鉢ヲニつ十仏で買ヒそれヲ両手ニ下ゲて帰村 鞠の内へ一寸立寄る 奴ハ巴里ニ出て留守番ニ霜菜が来て居た 少し話し鉢ヲ一つ呉れてやる 夫レカラ宿屋ニ行き台所でカナダ国のコルタ等と水ヲ飲みながら話す 晩夜食後美陽家ニ一寸いと行 鞠帰て居た 夜食ニハパンガ無かつたので買ニ行た 和郎が夜話ニ来て村の飯盛ニやる色文ヲ書く オレハ日本へ出す端書ト久米等への手紙ヲ書く

1892(明治25) 年

 十二月八日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事不相変大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 此頃ハ寒さ強く相成外ニての稽古ハ六ケ敷仕事部屋の中にて菊の花など研究致シ居候 一昨六日初雪降り申候 昨日も雪降し沢山ハ積不申今日の日にて大低ハとけ申候 此の村より一里計の処ニ瀬戸物の名所有之候 兼而話ニハ承り居候得共未だ一度も見物不仕候処今日不図思ヒ立ち越申候 極少さな製造所とハ申ながら模様及焼の色等一風有之見事なる花瓶等出来申候 余附後便 早々 頓首 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年12月9日

 十二月九日 金 雪降りおまけニ風有り中々寒し 朝ちよいと画部屋ニ行 昼後ハ菊花ヲ論ス 和郎ハ四時頃ニ出て行く 間も無コルダがオレの昨日買て来た鉢ヲ見ニ来り それから一緒ニ宿屋ニ行 和郎と三人でアプサントヲ飲む コルタの御馳走也 美陽家ニ夜食後和郎の来る前ニちよいと行く 鞠と霜菜と夜なべをして居た処ニ立て居テ話して帰る 和郎ハやつて来て又今夜も色文ヲかく いろいろしやべるのを聞ながらかぶの料理ヲこしらゆ 又茶碗皿の洗方ヲやらかす 後被物ニついてる蝋燭ヲおとすやら 股引ノボタンをぬふやら 鼠取の用意ヲするやらして一時頃ニねる 夕方日本からの御手紙ト新二郎からの手紙届ク 日本からのハオレが武烈坡から帰てから写真ヲ三枚送たノニ返事 新二郎ハ未だオレがあと月の十六日ニ出しタ手紙ハ読まぬ姿

1892(明治25) 年12月10日

 十二月十日 土 朝仕事部屋ニ十時頃ニ行く 部屋の中の道具の置き直しヲ為る ひるめし後直ニ家主と暖炉(オレの寝部屋の方ニ在るノ)ヲ取りニ行て仕事部屋の中ニすへ付ケ方ヲ為ス 二時過ニすつかり仕舞た 今迄の暖炉丈ぢや充分ニ暖くないから今一つすへさしたのだ 夕方暗く為る迄菊の花及瓶ヲかく 明ヲつけて火ニあたり乍らとろとろとして居る処ニ和郎が来た 白耳義のキプスと云人からこう云手紙が来たと云て読み立てる それニついて又色々弁ニ任せて演説ニ及ぶ 出がけニ家賃の払ヲ為ス(十二月分) 和郎夕めし時迄来て居て話す 夜食後も同断 アンベルスニ居るトルソウトと云僧さんで奴の雇れ口をさがし方ヲ引受てる奴ニやる手紙ヲ書いてる オレハ又かぶの煮方ヲす 画部屋から帰て来て直ニ寿が書物借リニ来た 奴ヲとつかまへて和郎が自転車ノ事だの歩き方の早い事だの得意ニ為て説いたニハ寿も一本致された様子 めしヲ美陽家ニ取リニ行く 食後和郎が来る前ニも亦美陽家ニ行キ札ヲ小銭ニ替へて呉れと札ヲ置て頼で来た

1892(明治25) 年12月11日

 十二月十一日 日 切角すへさした暖炉の煙筒の向ケ方が悪いので其すへ直シ方ヲしようとして家主ト和郎と三人仕事して居る処ニブツフアールがオレの菊の画ヲ見ニ来た(昼後の三時頃) 焼酎など飲でしばらく話して行く 明日巴里へ一寸帰ると云て居る 夕方とうとう煙筒ヲすへ直シた 家主が若い時ニハ左官だつたそうにて壁ニ穴ヲ開ケたりなんかする事ハ得意也 夜美陽家ニ少し話しニ行き後宿屋ニ行きブツフアール等とちよつとおみきを頂く ブツフアールハ古巣ニ約束がして有るからと云て出る 和郎の講義ヲ九時頃迄聞き帰る 和郎一緒ニオレの内へ来て読み続きを十時過迄演ズ 美陽家で美天小僧が股引の中ニ糞ヲたれたと云話ヲ聞く 我身の小供の時の事ナドが思ヒ出される 其序ニ内ニ居たあの細島でゆわしの頭ヲ食て居た富公の事が頭ニ浮だ どう為たかしらん

1892(明治25) 年12月12日

 十二月十二日 月 雨 朝十一時頃ニ昼部屋ニ行たら和郎が書物して居た 十二時過迄描キ帰リ懸ニ海老の缶詰ヲ一つ買フ 夫レカラ寿の処ニ肉ヤパンや酒なと取リニ行ク 寿ニ海老ヲ少シ分ケテやつた 食後昼部屋ニ行前ニ鞠の処ニ立寄リ三十分計話す 奴が明日ハ手本ニ為て呉れるとの事也 暗く為る迄勉強す 矢張菊の花也 今日ハわりニ仕事が進だ 夜食ニハ又カブヲ煮て食ふ 夜ハ内ニ居てミレの伝ヲ読む 和郎九時頃ニちよいと来た 宿屋の台所で下女などとつゝかまへて馬鹿話ヲしたと云て居た たまニハお相手役ヲ更へる方が何ニより結構ナ事と思フ 今朝川村からの端書が着て松方氏ハ巴里ニハ来ズニ直ニ龍倫から亜米利加の方へ行と云て来た 逢へずニ残念ス

1892(明治25) 年12月13日

 十二月十三日 火 晴 朝ハ仕事部屋ニ火ヲたき付ニ行た計 別ニ仕事せず 昼後二時頃ニ鞠と霜菜が来た 二人ヲ手本ニして夕方迄かく 和郎来てしやべる 仕事ヲ仕舞てから和郎と散歩 ブーロンの停車場前通ヲ一とまわりして来る 和郎例の如く七時迄話す 食後も亦和郎やつて来た 奴が帰てからミレの伝ヲひろげ十二時迄読む

1892(明治25) 年12月14日

 十二月十四日 水 朝松方君の英国からの手紙が着た 今日リベルプールヲ出る舟で亜米利加へ出発との事也 返事ヲスル暇の無いのハいかニも残念至極 昼後鞠 霜菜ヲ相手ニ仕事スル事如昨日 貧 久米公等からの手紙手ニ入る 和郎仕事部屋ニ来て居て手本等としやべる 仕事がすんでから和郎とマルロツトの街道ヲ散歩ス 夜食後和郎の処ニ出懸て行て話す 葡萄酒のぬくめたのなど飲む 今日宿屋で和郎の下宿料十五日分ヲ払ふ 安心 昨夜ハ豆茶ヲ飲だせへか四時頃迄ねむられなかつたから今夜ハ早々と十一時頃ニ床ニ入る

1892(明治25) 年12月15日

 十二月十五日 木 霧雨日より也 少しなまぬくし 朝一時間程菊の花ヲ論ず 昼後ハ一時半頃から霜菜と鞠ヲ研究 和郎一寸と来たが又ムールニ遊ニ行くと云て出て行て仕舞た 夕方例の如く和郎が来た 奴と一緒ニ宿屋ニ行て宿屋の婆娘 次男ナドと酒など飲ながら笑ヒ話ヲす 和郎がお雪先生の写真ヲ一枚オレニ呉れた 夜食後美陽家ニ行き八時頃ニ和郎の処ニ行ク 下女お竹をお酌と云次第で昨夜の如クぬくめた葡萄酒ヲ飲む 九時ニ内ヘ帰る 今朝貧ニ端書でおそくも来る日曜ニハ出懸て行と云てやつた

1892(明治25) 年12月23日

 十二月二十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしもしごくたつしやにてくらしをります かきかけのきくのゑもかいてしまいましたから二三日のうちニせんせいのところニもつていつてみせようとぞんじます わたしハこんどハまたぱりすへまいりましてしばらくぱりすにをるつもりです そうしてらいはるハかへつていくしたくをするかんがへでございます おめニかゝるのももうぢきですよ ゑだのほんだのはみんなはこづめニしてをくりましてたゞからだ一つニなつてあめりかのほうへまわろうとぞんじます たびをするノニにもつがこてこてあるほどめんどうなものハございません わたしのゑのてほんニなつてくれをつたこゝのむらのむすめがちかぢかのうちニよめいりをするそうです いつかのころハたいびようでしたがだんだんよくなりいまハたつしやです めでたきことです(後略) 母上様  新太拝

1893(明治26) 年1月5日

 一月五日附 パリ発信 父宛 封書 新年の御祝儀申上候 去る十二月二十五日暮村出発巴里ニ出て来申候 此の頃ハ巴里ニてハ宿なし故あすここゝの下宿屋をとまり歩く次第 夫レガ為気も何と無く落付き不申候 明日より野村公使の肖像ニ取り掛る積故其仕事相始メ候上ハ心も少シハ静ニ可相成存候 宿ハ諸生町のスフロウと申下宿屋ニ当分極め置き可申候 暮村ニて描申候画四五枚先日教師ニ見せ申候処余程満足の体ニて今度本国へ帰へり行くハ仕方なき儀なれバ一と先帰朝し是非かき溜たる画を数十枚集めて自分の画計の展覧会ヲ此の地ニて開く様可致など色々深切ニ申呉れ候 仕合の儀ニ御座候 当地此の頃ハ寒さも中々強く雪も時々降り申候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1893(明治26) 年1月20日

 一月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)おせうぐわつはじめからこうしののむらさんのかほをかきはじめました それからまたいまより一しゆうかんほどまへからおんなをやとひましてはだかのゑをこうしくわんでかきます のむらさんがおんなニくれるぜにとゑのぐのだいをはらつてくださるつもりです そのかわりニかいたゑハのむらさんへあげるのです けいこになりますからよろしゆうございます くめさんも五六にちまへにぱりすへかへつてまいりました はなしあいてができてよいことです 新二郎からも二三日まへニたよりがありました わたしのかへつていくのももうぢきですよ めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1893(明治26) 年2月4日

 二月四日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)公使野村氏の為ニ此頃描き居候女子のはだかの画ハ次第ニ進み申候 今尚一月程も描き候上一と先教師へ見せ若し気ニ入候へば此の画ヲ共進会へ持ち出す様都合致し度存候 手本雇入代絵具代等は総て野村氏の引受にて私ハ只描クと云丈ニ御座候 其代りニ出来上りたる画は野村氏の物と相成事に御座候 去年よりかきため候画の内上出来の分大小六七枚の額ニふちを附ケさせ申候 之レハ皆御尊公様への御土産ニ御座候(後略) 早々 頓首 父上様  清輝拝

1893(明治26) 年2月16日

 二月十六日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて近頃ハ公使館にてかき居候女の画ニのみ骨を折り罷在候 御休神可被下候 未だ教師ニハ見せ不申候得共是非共此の画ハ共進会へ持ち出シ度存し三月十七八日頃ニ開候私立共進会有之候其レへも当年ハ出品支度其手続致置候 此の方ハ金を出シテ会員と為り候上ハ一人ニ付き六枚程も出品出来候事故便利ニ御座候 日本へ帰り候上も毎年かきたるものを此の会ニ送りて西洋人ニ見せ申度存し他日名を為すの種と相成かも知れずと存候 旅費も三月の中ニハ手ニ入り可申候 其金受取次第ニ出立仕こそ当然ニハ御座候得共当年迄当地ニとゞまり候もつまり申せバ共進会の為のみニて有之候間其開会も今一二ケ月と云時に相成みすみす帰るハいかにも残念ニ被思候事ニ御座候 依而甚ぬびぬびして御意ニそむき候様相成候得共せめて共進会への出品の結果の知るゝ迄ハ此処ニ居り度ものニ御座候 御存しの通共進会ハ例年五月ニ開ケ候故三月のなかバから五月のなかバ頃迄と見て二ケ月程の食ヒ込ニ相成次第ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1893(明治26) 年3月9日

 三月九日附 パリ発信 父宛 封書 一月二十七日附の御尊書並ニ五百円の為換券昨日慥ニ相届申候 其御地皆々様御揃益御安康奉賀候 当年ハ寒さ強く候由当地にても先頃ハ随分きびしきさむさ致し候 セイヌ河に氷が張りつめたるなどハ此年始めて見申候次第ニ御座候 グレ村の方などニてハ雪四尺程も積りたる処有之車の従来ハ一時止まりたる様子ニ承り候 其レニ引かへ此の頃ハ誠ニよきはだもちにて木の芽も少シづゝ出て来り候 残別としてグレ村の侯爵ド・カゾウと申人去六日に私を夜食ニ招き候間即ち一夜泊ニてグレ村ニ差越し申候 田舎に行て見て始めて都住ひの不意気なるを覚申候 なまぬくき日ニ当りながら青みかゞりたる森をながむるなどハ先づ極楽の遊かと被思申候 グレ村ニカナダ国生れの画師一人住居候 妻ハ瑞典人ニテ彫刻の業を心得たる者ニ御座候 夫婦共珍らしき好人物にて私グレ村滞留中も始終深切ニ致し呉れ候 今度帰朝の旨知らせ候処残りをしき事ニ思ヒ紀念として瑞典国産の細工物など沢山呉れ申候 今より三年目位ニハ是非日本へ遊ビニ行などゝ申居候 日本へ来れバどの様ニとも御世話致さんと陳へ置候 公使館にての画も此の週間限りにて描き上げ候都合ニ御座候 独立美術家組合と申私立の共進会へハ六枚程差出シ置申候 来る十七日が開会ニ御座候 其画ハ第一ロアン河辺の雪景 第二波 第三納涼 第四菊 第五秋の園 第六花下美人索句(之レハ日本画の出来そこないと云風の画にていつか新聞紙へ出す画を描き候時見本としてかき候ものニ御座候 只画のみにてハ面白からず存候ニ付吉田義静と申人ニ頼み詩一首書きそへ貰ヒ候) 今度の金にて借銭などさつぱりと片附ケ安心仕考ニ御座候 去る二月十六日附にて申上置候通り五月の共進会迄ハ当地ニとゞまり五月の末か六月の極始メ(御願申上候二ケ月分たし前の金子受取次第)ニ立て米国へ渡りチカゴの博覧会を見物するなどハ此の上も無き好都合と喜居候事ニ御座候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈上候

1893(明治26) 年3月18日

 三月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 皆々様御揃益御安康奉大賀候 旅費慥ニ相届候事ハ先便より申上置候 共進会への画教師へ見せ申候処甚ダ気ニ入り候 画風が新らしき故三四年前ニ別レテ新しく出来たる共進会の方へ出す方可然との言ニしたがひ其会の会頭ニ面会 画ヲ見せ意見ヲ聞キ申候処思ヒの外ほめられ仕合の議ニ御座候 二三ケ処直す処など示し呉れ申候 来る二十五日が出品の期日ニ御座候得共二十七日迄日延の特許なども貰ひ得る事ニ相成候 此の画ハ先ヅ受ケ取られる事ニ違ヒ無シト申てもよろしき位ニ御座候 たとへ受取られずとも会頭及ヒ教師の気ニ入りたる丈ニてもうれしき儀ニ御座候 其会頭と申人ハ七十計の老人にて名ヲピユビス ド シヤバヌと申候て仏蘭西一と申画師ニ御座候 外の小さな一と通りの画師ハ数百年の後ニ至れバ大抵皆消失せ行事必せりと云ても此のピユビス先生丈ハ独り十九世紀から二十世紀へ掛ケテノ画師の親方としてのこるなる可しと評判致候

1893(明治26) 年3月26日

 三月二十六日附 パリ発信 母宛 封書 二月十一日つけのおてがみさくじつこうしくわんにてたしかニうけとりました みなみなさまおんそろひごきげんよくおんくらしのよしおんめでたくそんじあげます わたしハからだハまことニげんきでございますけれどこのごろのいそがしさハまことニへいこうでございます きようしんくわいのことばかりならともかくもいまニかへつていかなけれバならないといふおゝしごとがあるもんですからどうもどうもきがおちつかずせわらしいことでございます きようしんくわいニだしますゑハ二つともとうとうけふぎりでできあがりましたからあしたにんそくをたのんできようしんくわいのほうへおくつてやるつもりです 二まいともふらんすで一ばんといふゑかきのぴゆびす ど しやばぬといふぢいさんにみてもらひましたらたいそうほめられましたからたぶんこんどハきようしんくわいにうけとらるゝことだろうとおもつてをることでございます さてかへつてゆくことゝなつてみるといろいろつまらないようじができてまいります まあどうしてもこちらをたつのハ六月のなかばごろニなるだろうとぞんじます こないだからひらけてをるちいさなきようしんくわいに六まいほどゑをだしてをきましたらある三ツ四ツばかりのしんぶんしににつぽんじんのくろだといふやつがせいようゑをかくだのなんのかんのとかいてありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしハせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです いまこれからといふときになつたところでかへつていくのですからかなしいもんです だがしかたハございません につぽんへかへつてからてがさがらなけれバよいがとおもつてをります せいようじんにまけんようにやろうといふのハむづかしいもんです せいようじんハ一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんハながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんニもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします わかれとなりますとかねてせハになつたひとたちにハすこししんもつなんかもしなくつちやなりますまいとぞんじます いろいろとつまらないことニものいりがをゝくまことニこまります ことニよつたらしよもつもゑもすこしハこゝにをいておかなけれバならないようニなるかもしれません まへにかいてをきましたとうりこちらをたつのハどうしても六月のなかごろニなるでしようよ そうするとにほんにつくのハ七月すゑごろニなるでしようよ こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし もうぢきですよ

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