1894(明治27) 年5月23日
五月二十三日 (北海道旅行記) 雨風にて近所の見物も出来ずして暮す 東京へ手紙を出し世帯持ちの一件ニ付て論じて置いた〔図 写生帳より〕
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
五月二十三日 (北海道旅行記) 雨風にて近所の見物も出来ずして暮す 東京へ手紙を出し世帯持ちの一件ニ付て論じて置いた〔図 写生帳より〕
五月二十四日 (北海道旅行記) 天気よし 文蔵様の御案内で洞爺湖を見ニ行く トンコロを積で行舟ニ便船して滝の方ニ渡り滝を見 非常にけハしき道を下りて滝の下ニ出て夫れ文蔵様の開拓地の東北ニ出で家ニ帰る トンコロとハマツチのじくを造るニ用ゐる木なり 湖水のわきの山より切り出したるものハ舟にて滝の上迄運び夫れより水の流ニ任せて滝を落し川下の関の様なもの有る処ニて自然ニ止る也 此の川ニそふて機械にて其木をさきマツチの木と為す製造所多し 移住民共職人ニ雇ハれて仕事スルもの少なからず □□(原文不明)村の如きものをなす住居ハ真の小屋掛にて土壁の家ハ上等也 木の皮などにてつゝみたるも有り 屋根ハ板も有れバかやの如きものも有り 内の中は軽き板の間の如きものニむしろを数たるが普通と見ゆ 其あハれなる体□□(原文不明)山の中の鉄道工事ニ従事する支那人の村に相対して決しておくれを取るまじと思ふ 壮瞥の橋口氏の屋敷ハ中々いゝ位置の処也 左右ニ山をひかへ谷川ニそうたり 座敷より見れバ有珠岳と云が右ニ在り 絶頂の崩れたる処赤みを帯びたり 今ニ絶ず少しづゝ煙をはく 庭先のぬびぬびとしたる樹木の具合から牧草の生へたる処見れバ日本に居るの心地ハ更ニ無し 白尾氏後鼈ニ今日見ゆる様な電報が来たので大いそぎにて昼めしを食ひ橋口氏と後鼈ニ来り聞合せたるニ舟ハ来れど白尾氏ハ来ず 無拠今夜ハ後鼈の阿部と云ニ泊る事とした 橋口氏ハ其序ニ知己の処ニ見舞をなされた 拙者ハ其伴をして市を見物す 又二人連で町の湯に行く 此処にてハ男湯女湯と区別ハして有れど之レハ表向にて時の都合にて混ずる事有りと見へ男湯の方ハ少しあつ過ると云てオレなども女湯の方ニ入れた 已ニオレ等より先ニ男一人入り居たり しばらくして床屋の女が子を連れて入つて来た 平気なもんだ 此の女もとハ後家なりしと聞く 後家とハ娼妓の事ニテ此辺の言葉也 此の後鼈と云処女の風俗至而むちやな処にて人の妻か又ハ娘にて色男を持たぬものハ彼れハ男の一人も持ち得ぬと云ていやしむるとの事也 村ハづれニ鎮守の神有り 其祭が毎年九月頃に有るよしなるが其祭を名づけてケツト祭と云ふ 兼て思ひ合つたる人々皆ケツトをかぶつて参詣すると也〔図 写生帳より〕
五月二十五日 (北海道旅行記) 白尾氏の出迎旁橋口氏と海岸など散歩す 船二艘も着たれど白尾氏ハ見へず 如何なる訳かさつぱり知れず 仕方なし 又処々見物す 砂糖のかすにてアルコールを造る家ニ行きアルコールを味ふ 家の妻君と橋口氏色々話などして居られしニ言葉の端に其人ハ我知己高橋氏の妹なりと知れ拙者も口を出して話する事とハなりぬ 不思議な御縁なりし 十一時頃昼めしを食ひ宿屋を出て橋口氏ニ一時の別をつげ肝振丸と云ニ乗り込む 三時ニ為てうやく舟が出た 四時半ニ室蘭ニ着く 今度は波止場が違て奥の方ニ舟をつけた 艀で来た客引ニ丸一と云者なく山中と呼声のみ 之レは波止場が違つたからの事かと思ひ市中を通りぬけ丸一ニ行て見たれバ番頭の野郎へんてこ面をして直ニ案内をせず 客が一杯で大困り 苦しまぎれに屯田の御方と御一緒でハ如何などとぬかし腐た 其処で気分が悪く為り部屋が無けれバほかニ行と云たら西洋まがいの塾部屋の様な処を周旋した そこで先づ少し気分がよく為たようなものゝ悪い感が一つ頭の内ニのこつた 之れも亦経験の一つだ 日本流の通常の宿屋ニ行のなら客引を出さぬ処ニ行くものぢやねへ
五月二十六日 (北海道旅行記) 昨夜の不平一晩ねたら大ニ少なく為た 昨晩めし前ニ風呂ニ入つた処が女が這入つて来た 此女中々にゝからだだつたから少しく感服の体 然るニオレが折角いゝかげんにして居た湯をぬるいと云た だが仕方ねへ 奴の体のいゝのに左程不平にも思ハず湯のあつく為るのを我慢して這入て居たのなどハ面白しと今朝ニ為て見れバ考る也 朝六時ニ起てゆつくりと仕度し狭きがらくた馬車ニ六人つめ込められ七時前ニ宿屋を出て停車場ニ行く 停車場の有る地迄一里二十町計り有り 其途中の困難言語道断也 どぶどろの如き上に非常な高低が出来て居るので馬車の動く事一方ならず 今度こそハ倒れたと思ふ事数知れず 馬車が五六台引続て出たが一番あとの馬車など土の中ニ輪がはまり込み動かなく為たりしてよほど後れた 気車の出たのハ八時少し過なりし 今日の天気ハ全の temps bon mieux にて景色殊外面白し 此の北海道と云処ハどうも西洋に似て居る 木にはシエヌソール又ブーローの如きもの多く此の霧の為か草原の色なども余程 tendre 也 気車ニハ下等ニ乗込だ 車の製造ハ日本也 随分粗ニて手荷物をのせる棚などは無けれど亜米利加風に習つて窓の方ニならんで向ヒ合つて腰をかけ中を通る様ニ為て居る 其通の中ニ又一条の腰掛があるからつまり通りが二本ニ為て居る道理也 又車より車ニ渡る事が出来る也 但し conducteurs が其間を往来するのみ 便所ハなし 腰掛ニ布の張つて有るハ上等のみ 中等ハ内地の下等と殆んど同じ 各車の隅ニ鉄板の張りたる処有り 之レハ極寒ニ poele でもすゑる処なるべし 十一時十五分位前ニ苫小牧と云ニ着く 此処ニまんぢう もちなど女子が売ニ来たので皆々之れを買ふて食ふ まんぢう もちも一つが一銭也 中々甘し 此レ迄の景色ハ馬の牧もあり森も有り原も有り皆海岸の地故海ハ見ゆる也 村も処々に在りアイノの村も二つ計見受た アイノの十四五とも見ゆる女の子が小川の一本木の橋の上にねころび釣をして居る様ハ余程面白く感じた 此の辺の森の色ハいかにも Fontainebleau 辺ニ似て居る ブーローの葉が少し青みがゝつたのは Paques の頃の風致有り Ah! mais c’est tout à fait la forêt de Fontainebleau des petit bouleaux et de sable. Suis-je en de train d’aller voir Griffin à Fleury? 追分と云処ニ到れバ十二時也 此処ニて弁当を使ふ 此の停車場より夫婦ニ子供連の人乗り込む 此の人ハ鉄道局の役人と見へて印の付いた帽子を冠りたる者共しきりニへいつくばつて別れを告ぐ 又女連の見送も有り 其見送の者共余り上等なる人達とハ見へず 東京の相場なら下女より上ニ出でまじき者共也 大抵皆若き者なりしが手持ぶさたと云体にて右か左の手にてほろの半分をかくして居れり 兼て橋口氏の下女松が此のふりをするがさてハ此の geste ハ全く此の地方にてはやるものなりと始めて知りたり 二時少し前ニ岩見沢ニ到る 又まんぢうともちを買つて食ふ 岩見沢の地方ハ今切角開き方の最中と見へたる処多し 岩見沢の Station ニ何処から来た気車か知らねど車や材木などを積む荷車ニ男女まじりて三四十人積で来たのが有つた 之レハ植民なる可し Colonisation の盛なるを知るニ足る 岩見沢を出て少しく行けば Marécageux の広野左に見ゆ 此辺の景色ハ一寸亜米利加風とでも云はんか左程に面白くなし 室蘭より此方総て土地ハ Marécageux 也 開きたる処ニハ Canaux の作りあるを見る 川も沢山有れど大抵皆にごり水にして壮瞥の川の様なものに非ず 江別川 Yebetsu を渡つて江別と云駅有り 饅頭の名所也 土産物ニする為か乗合の人々此の饅頭を買ふ 此の名物の饅頭ハ細長きものニして通常の饅頭形の形ニハはづれて居るわい 此辺の子供は饅頭笠などの解に苦しむなる可し 此の饅頭の名を恵比寿饅頭と云ふ 四時十五分頃札幌ニ着 先づ道庁ニ行き横山を尋ねたるニ土曜にて居らず 小使ニ宿所を聞かんとしたれど小使も居らず 仕方なくいきなりニ豊平館を尋ねて行く 此処ニ横山の旧宿の番地を得たれバ先きから先ニ尋て行てようやく分りたり 留守なりし故名札を置きぶらぶらと市中を見物ニ出懸たるニ大通の近所にて後より新太と呼バれて驚けバ即ち壮一郎也 共に豊平館にて夜食し夫れより同所に止宿する旨の届けを出しなどして後農学校長佐藤と云人に逢に行たり 又市中を散歩して十時半頃ニ帰る 今夜ハ西洋流ニ寝る事故心地よし 京都ホテル以来の愉快也
五月二十七日 (北海道旅行記) 七時半頃ニ起き静に仕度しシヨコラを部屋ニ取り寄せてのみながら杉にやる手紙をかく 今朝ハ雨が降て居るわい 人力車に乗つて九時頃ニ横山の処ニ行きたり 此の地にハ人力車少し有り 値段ハ一寸一と走りと云のが大抵十銭也 壮一郎の案内にて農園長の南と云人ニも逢ひ農園及び附属の博物館 植物園 温室等を見物したり 昼めしハ独りで豊平館にて食いたり 壮一郎がめし後ニやつて来て今度ハ農学校及び中島の遊園地なる農産物の陳列処を見る 夫れより大辻氏ニ名札を出し又壮一郎の手引にて当地第一の茶屋東□庵ニ行きめしも食ひ歌も聞き酒ものむ 処が不思議さ 此処の芸者は人を感ぜしむる丈芸ニ達して居ると云ものか 又ハ白尾氏の処で変な便を聞きオレの心持が感動し易く為て居たものか「濡て紅葉の長楽寺」とやられて去年の秋紅葉の盛なりし頃に長楽寺のほとりなる梅ケ枝の戸を夜更けてたゝきたる事など思ひ出して旨ふさがりぬ 即ち筆と紙を取り寄せ其場にて久米へ手紙を書く 後ち横山と連名の手紙を杉へも出したり 然し長楽寺の紅葉の感ハ久米ならでは分らぬ事なり 白尾氏にて聞たる変な便とは別事に非ず 鹿児島の伯父様が御大病のよし東京より電報有りしと云事也 大ニ驚き直ニ鹿児島へ電信にて御容体を聞合せたれどよくよく考れば伯父様ハ此の頃御出京中なれバ東京にて御わづらひの事と思ヒ付き再び東京へ電信を出ス 横山ニ又明日を約して別れ帰館したるニ東京及鹿児島より電信の返事来りて御病気大切の由也 又白尾氏の妻君留守中ニたづね来られたりと聞き即ち白尾氏ニ行かんとしたるに番地を忘れて覚ひ出さず 処々ニ人を走らせてようやく分り即ち車にて走り行き受取た電信を御覧ニ入れ拙者明朝の一番気車にて帰京の覚悟なる旨をつげ少し話して帰る 夫レヨり明日定山溪へ行約束の断を小河瀬氏の処ニ云てやるやら又明朝東京へ出す電信文や横山ニ別れ旁橋口氏の注文品の買入方及足立氏ニ逢つて養蚕の話を聞く事など依頼の書置をしたゝめ十一時半頃ニ寝床ニ入る 一時頃迄ねむられず
五月二十八日 (北海道旅行記) 朝八時五分の気車で札幌を立つ 今度は気楽ニいつ迄も処々ヲぶら付いて雑談を聞たり云たりして歩く覚悟で有つたのニこう云事ニ為て荷物などハ壮瞥ニ置たまゝで帰る事と為たのは実に変な訳也 homme propose Dieu disposeとは実に甘い言葉かな La petite Jéron beaucoup charmé notre unique et bron courte soirée à Sapporo avec son accent du pays et avec sa facon presque sauvage ″ Shiribatchi wo ″ Foussété nagamouria ″ Saangookou itchou no ″ Miisso wo shirou ga no ″ Foudou no yaama mon ami Soji lui trouve un talent supérieur pour la danse!此の地方ニテ ganoshi と云言葉有り 後家と云ふに同じ 此の土地の開け始めの頃ニハ ganoshi の価三百文なりしと 夕方室蘭蛯子屋の二楷にて不図白尾氏ニ遇ふ 同氏と共に夜十二時発の玄武丸ニ乗る
五月二十九日 (北海道旅行記) 函館勝田屋にて伯父様御逝去の報を得 夜白尾氏に別れて又玄武丸に乗り込む
五月三十日 (北海道旅行記) 朝青森着 十時五十分の気車にて東京へ向ふ
五月三十一日 (北海道旅行記) 午後一時少し前上野着
十一月二十四日 (日清戦役従軍日記)〔挿図2点あり〕 旅順口占領の報始めて到る 此の報知ニ依而オレの進退がいよいよ定まると云のだから愉快一層也 今夜村田少佐ニ面した 拙者来広の主意を述ぶ 終日井上と一緒に居た
十一月二十五日 (従軍日記) 朝樺山中将ニ逢フ 第三軍の出□□(原文不明)のあやしき事ハ勿論第二軍の方が□□(原文不明)しく戦ハ無からん 依而第一軍ニ従軍する可也 □□□□□(原文不明)たり 夜食後村田少佐ヲ訪ふ 同氏の案内にて川上中将ニ面し油画師として第二軍即ち大山大将の軍へ向ひ出発の事と極る 後井上の下宿ニ行 十一時迄語る
十一月二十六日 (従軍日記) 今朝よりカバンのつくろひなどを頼むが為めニ木村の店に行く ビゴがやつて来て同□□□□□□□□(原文不明)して□□(原文不明)まで居た 二人を□(原文不明)て岡本楼と云処ニめし食ニ行 三時頃迄引かゝる 井上の処に行たらオレの内ニ来たと云ので直ニ引返へす 途中にて出逢ふ □□(原文不明)逢□(原文不明)約して川野を訪ひ京都ホテル以来の互の身の上話をして別る 川野第二師団の通訳官として戦地へ赴くよし也 井上と別れ旁先日木村の先導で行た料理屋に行く 井上ハ八時の気車で長郷氏と共ニ帰京 ビゴの内ニて十時迄話す 帰れバ村田少佐よりの手紙が来て居て明朝大本営へ出頭の旨申来れり ステーシヨンにて鮫島盛氏ニ逢フ 伊集院氏へ紹介の名札を与へられたり
十一月二十七日 (従軍日記) 樺山中将ニ逢ニ行き一昨夜川上中将ニ逢つた時の話をし又先般の海戦現時及び未来の二本の世界ニ対する位置の対象と外国の政策ニ付ての話を聞く こんなニ樺山氏の話を聞きたる事ハ今日が始て也 十時少し過ニ大本営へ出懸け村田少佐ニ逢ヒ第二軍へ出張の許可を得たり 之れでいよいよ事が極まる 船も二三日内ニあるとの事
十一月二十八日 (従軍日記) 朝樺山氏ニ行 昨日の結果の話をしたら宮様がお立ニ為るから其船で行ようニするがいゝとてかくて宇品の通信部長の松本氏とかへ添書をやらんとて副官の鈴木と云人ニ頼み呉れられたり 十一時頃ニ大本営事務所へ行 鈴木氏ニ逢つたら松本氏ニハ既ニ話して置たから添書ニハ及バず 船ハ明日午後三時発の豊橋丸と云ふニ乗る様ニす可し 山階宮殿下が即ち其船ニて御渡清被遊からそれニ乗れバ都合よからん云々 アー明日立つ事と為るといそがしいぞ 其処で注文して置た Sac d’artiste の直しをいそがせるやら靴屋に走るやら大騒ぎサ 昼めしニビゴの処でお別れの御馳走ニ為る 四時頃から川野の処ニ行 木村を引出し三人連にて遊廓の直そばなる大きな湯ニ行 夫レから茶屋ニ出懸く 此処ニ別れの酒宴を開く 東京の友達がよこした大金にての御祝の手紙を取り出してよみ其返事として戯の画を久米と合田ニ送る
十一月二十九日 (従軍日記) 朝暇乞として樺山 川上 寺内 村田の諸氏を訪ひたり 樺山中将よりハ餞別として茶壺と干魚の入りたる壺を貰ふたり 合田より送り来たる木板の見本を紀念の為村田氏へやりたり コニヤク 靴下等の買物をして返り直ニ入れ付を始む 間もなく木村 川野及川野氏の友人にて同じく通訳官と為て居る某尋ねて来た 皆荷造の手伝をしてくれた そうこうする内ニ時間が段々せまつて来るから酒肴を出さしむ 少し飲だり食たりして居る内ニ時が来てめしハ食ださずして立つ 前の四人ニビゴが送つて来てくれた 宇品で宮様のお立ちと云ので軍人の人達随分沢山見へた 樺山中将 寺内少将等も見えた 寺内少将ニハ船迄お見送りせられた 船ハ予定の如く三時頃出帆
十一月三十日 (従軍日記) 朝七時頃ニ門司ニ着 石炭を積むのと人夫など千五百人乗るので終日此処に泊る
十二月一日 (従軍日記) 同行の人と云ハ第一ニ宮様を始め其お附の今井海軍大尉 大阪砲兵本廠の少佐栗山氏 氏ハ仏国及伊太利ニ居りし人にて共々巴里の事など話し出て面白し 其外にハ軍医一名 議員二名 商船監督将校一名等也 門司より人夫の総大将として騎兵大尉佐伯美次郎と云人乗込む オレと同じ部屋ニたゝき込まれたり 午前九時半頃出帆す 名高き玄海灘ニ乗り入り波が少し高くなる 夕方ニ対州の沖を過ぐ 少しく舟に酔たる心地す 今井大尉と互ニ Revolver の射だめしをやる 又トロンコアが餞別ニ呉れたるポドメートルの試験をして見たるニ甚だ面白く動く 此日朝より寝る時迄の間ニ歩きたる歩数凡そ二万三千也 今日ハ西北の風かなり強くしてすわり込だる人多し 同行の軍医先生も致されたれば医者が酔とハ可笑し 医者も矢張山子なりなどゝ宮様が冷かされたるなどハ気の毒
十二月三日 (従軍日記) 天気よし 今日ハ余程寒く為て来た 夫れが為め食堂のポワルニ火をたき始めたるニ煙筒が焼けて甲板がもへかゝつたので火消が始まると云騒ぎ 体屈な船中の事故こんな事も日暮の種と為る 五時頃ニ右と左ニ雲の様ニちよいとした陸見ゆ 右なるものハ所謂海洋島にして左のものが山東省の芝罘の後に在る高山の頂也と云 こんな小さなものハ実ハオレの目ニハ見へない 両眼鏡を借り宮様ニアスコだアスコだと云ハれて何る程と始めて分つた次第也 コレなんどハ久米公がいくらりきんだつて奴ニも見へる気遣ハねへのだ
十二月四日 (従軍日記) 今朝ハ非常ニ寒シ 大連湾ニ着ス 兵站部ニテ昼めしを食ひ□□(原文不明)二人と共ニ金州へ向ふ 夕方着 大山大将 伊地知参謀 副官等ニ面会 外国武官と記し有る和記と云商家ニ宿ス 右松氏ニ逢フ
十二月五日 (従軍日記) 山本 浅井忠 浅井魁一氏等ニ逢ふ 今夜荒川知事方へ一泊 今日山本等と憲兵の案内ニテ分取品をもらひニ行く